第10話 次のワインは
王宮御用達の認定から二週間が経った。
薬房の棚は足りなくなった。レオンが新しい棚板を三枚調達してくれたが、それも埋まりつつある。頭痛薬、解熱薬、鎮痛薬、傷薬。瓶の数が先月の倍になっている。
朝から客が並んだのは初めてだ。王宮の名前は、路地裏にも届くらしい。
仕立屋の主人が来て、「うちの女房が王宮と同じ薬を使っていると自慢している」と言った。鍛冶屋の親方が弟子を三人連れてきた。全員、手の火傷。「まとめて頼む」と言って銅貨の山を積んだ。あの代金不足の徒弟も一緒にいた。今度はきちんと足りている。
トーマスは朝の掃除の後、昼まで残るようになった。石工見習いの仕事が午後からなのだそうだ。瓶の洗浄を教えたら、三日で覚えた。手が大きいのに指先が器用だ。泥棒の手先がこういう形で役立つとは、本人も思っていなかっただろう。
「ヴァレリア先生、この瓶はどこに」
先生と呼ばれるようになったのはいつからか。正確には覚えていない。訂正するのが面倒で放置していたら定着した。
「棚の三段目。左から効能順です」
「はい」
窓を開けると、路地の空気が入ってきた。朝露の匂い。石畳の匂い。どこかの家のスープの匂い。この路地の匂いに、うちの薬草の匂いが混ざっている。一年前、ここには何もなかった。
何もなかったのではない。まだ形になっていなかっただけだ。
◇◇◇
午後、レオンが帳簿を持って来た。
「半期の収支報告。黒字だ。利益率も悪くない」
「ありがとうございます」
「礼は帳簿の数字に言え。俺は運んだだけだ」
帳簿を広げた。仕入れ値、卸値、手数料。レオンの字は相変わらず走り書きで、だが数字だけは正確だ。インクが滲んでいる箇所がある。昨夜遅くまで書いていたのだろう。
数字を一つずつ指でなぞった。一年前、開店初日の帳簿は空白だらけだった。今は行が足りない。
「取引先が増えている」
「王宮御用達の看板が効いている。ただ、南区の医師組合からは個別の調合依頼が入り始めた。量産では対応できない」
「個別調合なら、私が直接やります」
「わかってる。だから相談だ」
レオンが椅子を引いて座った。珍しい。いつもは立ったまま帳簿を渡して帰る男だ。
「ヴァレリアさん。一つ聞いていいか」
「商売の話ですか」
「商売の話だ」
「どうぞ」
「商会の拠点を、この路地に移そうと思っている」
手が止まった。帳簿の上で、指が動かない。
「……ここに、ですか」
「隣の空き家を借りる話がついた。薬房の卸を中心に、商会の機能を集約する。効率がいい」
効率の話だ。商人として合理的な判断。それはわかる。
「毎日来るということですか」
「毎日は来ない。商談は外だ。だが、帳簿の日は隣にいる」
帳簿の日。週に三度。つまり週に三度、この男が隣の建物にいる。壁一枚隔てて。
隣に商会があれば、仕入れの伝達が早くなる。緊急の調達にも対応できる。合理的だ。合理的な判断だ。膝の裏に汗をかいているのは、今日の気温のせいだ。
「いい案だと思います」
「そうか」
レオンが立ち上がった。窓の外を見ている。夕日が路地に差し込んで、石畳を橙色に染めている。
「一つ、商売じゃない話をしてもいいか」
「……どうぞ」
この前置きを聞くのは二度目だ。前回は王宮認定の前だった。あの時、「あんた個人のために俺はここにいる」と言った。今度は何を言うのか。
レオンが鞄から何かを取り出した。瓶。濃い緑色のガラス瓶。ワインだ。
「認定祝いに、と思って買った。だが渡すタイミングを逃した。二週間も経ってしまった」
瓶を受け取った。ずしりと重い。ラベルを読んだ。アルディーニ領産の赤ワイン。母の故郷の葡萄で作られたもの。
七年熟成のワインは、離縁の日に一人で開けた。あれは終わりの酒だった。
「……いい銘柄ですね」
「あんたの実家の近くの醸造所だと聞いた。探すのに少し手間がかかった」
少し手間。この男の「少し」は、たぶん普通の人の「かなり」だ。ミュールハイムに馬を飛ばした男の「少し」は信用できない。
「今日、開けますか」
「あんたがそう言うなら」
棚からグラスを出した。薬房にグラスはない。薬瓶用の小さなガラスの計量カップ。二つ並べた。
「グラスがないので、これで」
「……薬の計量カップでワインを飲むのか」
「容器は関係ありません。中身が大事です」
レオンが笑った。声を出して、短く。あの乾いた笑い方。何度か聞いたが、まだ慣れない。慣れないのに、聞くと胸の奥が緩む。
栓を抜いた。赤い液体を計量カップに注いだ。目盛りの三のところまで。薬なら致死量だが、ワインなら一口分。
「ヴァレリアさん」
「はい」
「次のワインは、俺が選ぶ。グラスも用意する」
次。
次がある、と言っている。
七年熟成のワインは、八年の終わりに開けた。あれは一人の酒だった。計量カップに注いだこのワインは、二人分ある。
「……次は、私が料理を用意します。薬草の煮込みくらいしか作れませんが」
「薬草の煮込み」
「母のレシピです。美味しいですよ。たぶん」
「たぶん、は不安だな」
「では、確実に美味しくします」
計量カップを持ち上げた。レオンも持ち上げた。ガラスがぶつかって、薄い音がした。薬瓶の音に似ている。
一口飲んだ。舌の上に広がる葡萄の渋みと甘み。アルディーニの風土の味。母の故郷の味。あの七年熟成のワインより若い酒だが、苦くない。
窓の外が暮れていく。薬房の棚が夕日に染まっている。琥珀色の薬瓶が並んでいる。開店初日と同じ光。だが中身は違う。棚は埋まり、帳簿は黒字で、明日来る人がいる。
◇◇◇
夜。レオンが帰った後。
調合台の引き出しから、紙を一枚取り出した。古い紙。折り目がついている。八年前に書いた計画書の最終ページ。
全項目に済みの印がある。「門を出る」にも。「薬房を開く」にも。「王宮の認定を取る」——これは計画にはなかった。計画を超えた。
最後の空欄。「薬房を軌道に乗せる」。
ペンを取った。印を押した。済。
計画書を折り直した。もう見返すことはないだろう。八年間、毎晩読み返したこの紙を。
棚にしまおうとして、手が止まった。新しい紙を取り出した。白紙。
何を書く。次の計画か。いや。計画は、もういらない。
――いえ、正確に言えば。計画がいらないのではなく、計画に縛られなくていいのだ。八年間、計画だけが支えだった。計画がなければ立てなかった。でも今は違う。計画がなくても、明日はある。明日来る人がいる。隣に商会ができる。薬を待つ客がいる。
白紙のまま、棚にしまった。いつか何か書くかもしれない。書かないかもしれない。どちらでもいい。
薬房の灯りを落とした。窓から夜風が入ってくる。路地の匂い。自分の店の匂い。
計量カップに残ったワインの最後の一口を飲んだ。
苦くない。
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