第1話 七年熟成のワイン
離縁届に夫が署名するまで、私は編み物をしていた。
靴下の、左足の分。踵を編み終えたところで羽ペンが止まった気配がして、目を上げる。
「……何をしている」
「靴下です。待ち時間が長いので」
ディートリヒの眉間に皺が寄るのを、私は編み棒越しに眺めた。侯爵の書斎は相変わらず磨き上げられたオーク材の匂いがする。八年間、この匂いの中で過ごした。窓際の銀の燭台、壁の鹿の剥製、そして机の上に置かれた離縁届。どれも見慣れたものだけれど、今日だけは光の色が違って見える。
――いえ、正確に言えば、光が違うのではない。私の目が変わったのだ。
「署名を、していただけますか」
私の声は自分で思うより穏やかだった。八年間かけて身についた侯爵夫人の声。それがもう必要なくなると思うと、不思議と惜しくはなかった。
ディートリヒは離縁届に視線を落とし、一瞬だけ唇を引き結んだ。
婚姻契約の第十七条、計画離縁条項。八年の評価期間を経て、双方合意により婚姻を解消できる。私が嫁ぐ前に父が組み込ませた条項だ。あの時の父の顔を思い出す。「万が一のための保険だ」と言っていた。万が一は、初年度に訪れた。
何か言いたげな表情。けれど結局、言葉は出なかった。八年間ずっとそうだった。この人は、大事なことを言わない人だ。
羽ペンが紙の上を走る音。
インクが乾く前の、かすかな湿った匂い。
署名が終わった。
私は編み物を膝に置いて、懐から小瓶を取り出した。
「……何だ、それは」
「ワインです」
コルクを抜く。乾いた、小気味よい音。
「七年熟成させたの」
言ってから、敬語が剥がれたことに気づいた。もう、いいのだ。
ディートリヒが目を見開いている。初めて見る表情だった。八年一緒にいて、この人が本当に驚いた顔を見るのは初めてかもしれない。
驚いた顔を見せなかっただけで、本当は何度か驚いていたのかもしれない。わからない。わからないまま、終わる。
ワインを一口含んだ。酸味のあとに、深い果実の甘さ。舌の上で転がすと、乾いた木の香りと、かすかな蜂蜜の余韻。七年の歳月が液体の中に閉じ込められている。
仕込んだのは嫁いで一年目の冬だった。
薬草園の再建を任された年。朝から晩まで土を耕し、品種を選定し、季節ごとの管理表を作った。誰にも褒められなかった。ディートリヒは薬草園に一度も来なかった。成果だけが、彼の名前で宮廷に届けられた。
あの日の夜、酒蔵で葡萄を潰しながら、私は決めた。
何を思っていたかは、もう思い出さなくていい。結果だけが、この小瓶に入っている。
「うん。いい出来」
ディートリヒは何も言わなかった。
私は小瓶をテーブルに置いた。彼の分を注ぐつもりはなかったし、彼も求めなかった。
◇◇◇
侯爵邸の廊下を歩く。最後の一回。
八年間、毎日歩いた廊下。薬草園に向かう時はこの廊下を左に曲がり、厨房への近道は二つ目の階段を下りて右。体が覚えている。忘れたいわけではない。ただ、もう必要のない記憶だ。
――それはそれとして、この廊下のタペストリーは相変わらず色褪せたままだ。三年前に繕いを提案したのに、却下された。繕わなかった侯爵家が悪い。
使用人の控え室の前で足を止めた。
「皆さん、少しだけ」
集まった顔ぶれを見る。侍女長のヘルミーネ、下働きのエリザ、料理長のヨハン、庭園管理のペーター。一人一人の名前が、胸の底に積もる。
「ヘルミーネ。お嬢さんの咳、先月の薬で治まりましたか。もし再発したら、王都のアルディーニ子爵家に私宛で手紙を。薬を送ります」
「エリザ。あなたの手荒れには蜜蝋と杏仁油を同量混ぜたものが効きます。作り方は厨房の棚に貼ってあります」
「ヨハン。銀月草の保存は必ず日陰で。直射日光に当てると三日で効能が落ちます」
「ペーター。薬草園の東側、土壌が酸性に傾いています。石灰を春のうちに撒いてください。配分は管理棚の手帳の八ページ目に」
一人ずつ。名前を呼んで。八年分のことを、言える限り。
本当はもっと伝えたいことがある。ヘルミーネが夜遅くまで起きて私のドレスを繕ってくれていたこと、知っている。エリザが厨房でこっそり泣いていた夜に、私が黙って薬草茶を置いたこと、覚えているだろうか。
ヘルミーネの目が赤い。エリザが唇を噛んでいる。ペーターは俯いたまま動かない。
「長い間、お世話になりました」
私は頭を下げた。侯爵夫人が使用人に頭を下げるのは作法に反する。もう侯爵夫人ではないのだから、構わない。
――構わない、はずだ。
喉の奥が詰まった。水を飲みたい。この感覚は知っている。蒸留器の中で液体が煮詰まって、出口がなくなった時に似ている。
泣かない。計画通りだ。全て、計画通り。
◇◇◇
正面玄関を出て、廊下を抜けて、門の前に来た。
足が止まった。
書斎の前。
通り過ぎるだけでいい。止まるつもりはなかった。なのに靴が石畳に張り付いたように動かない。
扉の向こうに、さっきまで一緒にいた人がいる。八年間、名前を呼んでくれなかった人。私を「アルディーニ家の」と呼び、成果を横取りし、愛人を堂々と屋敷に入れた人。
一度だけ。たった一度だけ、ディートリヒが「茶を」と声をかけてくれた冬の夜があった。何の前触れもなく、それだけ。私が淹れた薬草茶を、彼は黙って飲んだ。「悪くない」と小さく言った。
たったそれだけのことが、嬉しかった。
その自分が情けなくて、翌朝、酒蔵のワイン樽にまた一つ印をつけた。
嫌いだったかと問われたら。
嫌いだったかと問われたら、答えに詰まる。
嫌いになれたら、もっと楽だった。
「さようなら」と言おうとした。唇が動かなかった。言ったら、何かが崩れそうだった。七年かけて熟成させたワインより、よほど長い時間をかけて仕込んだ「平気な顔」が、一言で割れてしまいそうだった。
だから、言わなかった。
前を向いた。歩き出した。
門を出る。
四月の風が頬に当たる。冬薔薇の季節はとうに終わって、庭には春告げ草が咲き始めている。紫色の、小さな花。薬草園に最初に植えたのが、この花だった。
門の外の空気は、侯爵邸の中とは違う匂いがした。
石畳の埃と、遠くの市場から流れてくるパンの匂い。私の鼻はこういうものを拾ってしまう。薬師の職業病みたいなものだ。
深く、息を吸った。
吐いた。
それだけのことだった。
それだけのことなのに、肩が軽い。八年分の重さが、春の風と一緒にどこかへ流れていく。
さて。
懐には離縁届の写し、路地裏の物件の鍵、そして初年度に立てた計画書の最後のページ。準備の項目には全て済みの印がついている。最後の一つ、「門を出る」にも。
薬草の匂いがする手を見下ろした。爪の間にはまだ、昨日手入れした銀月草の土が残っている。侯爵夫人の手ではない。薬師の手だ。最初からずっと、こちらが本物だった。
通りの向こうで馬車が走る音がする。市場の喧騒が風に乗って届く。野菜売りの声、鍛冶屋の槌音、どこかの子供の笑い声。
世界は、侯爵邸の外にもちゃんとある。当たり前のことを、八年ぶりに思い出した。
――まあ、いいでしょう。
忙しくなる。




