Ep.9 影
「それじゃ、二人とも、よろしく。職員室にいるから、何かあったら呼んでね。」
先生の手にはマメが出来ていた。彼女は扉をがらんと鳴らして、足早に教室を去ってゆく。
その足音は導火線。ヒールの気配が消えた途端に、教室は熱狂の爆心地となった。
「しゃあっ!アンカー決めるぞ!」
「競技、競技だろまず!俺パン食い競争!」
「キャサリンちゃん、体育祭って知ってるの?」
「ハーイ、知ラナイデース!」
「えっとねえっと――」
シトラスと、輝く声の二重奏。だが日常が照らし出したのは、真夜中にみた彼女の影だった。
たちまち身体がぐらんと揺れる。手は教卓の角を握り込み、足は小刻みに震えていた。
「ちょ、なに、大丈夫?」
「ああ、寝不足で……ごめん、気にしないでよ。」
「そう……まあ、気を付けて。」
差し出された手が温かい。瞳には心配が貼りついていた。しかし、漂う暴力的な薫香は、もはや俺の心を握り込んで離さなかった。黒板に書かれた種目たちは、ストロボのように揺れている。
「決めるよー!」
「ごめ、ちょっと保健室……」
「ん、その方がいいよ。」
回る視界の背後では、チョークが黒板を叩いている。ざらついた喧騒は、数歩進むころには既に、意識から置き去りにされていた。
「ケンスケ、付キ添イマス。」
音もなく滑り込む彼女の、苦々しい顔。その目線は、廊下の奥へと据えられていた。
「ああ、ありがとう。」
カッ、カッ。俺の足音は、鼓動よりもずっと遅い。キャサリンは手を取ることもなく、ただ俺の背後に立っている。
愈々息の乱れてきたころ、ようやく引き戸をグッと掴んだ。
「すみません。」
返ってきたのは反響だけ。窓を隔てた校庭では、体操服の白が泳いでいた。
「……ありがとう。あとで、話を――」
「頼ミタイコト、アリマス。少シ、泊メテホシイ。」
「へ?」
俺を拒絶するように突きつけられた、あまりに突飛な提案。答え方も思いつかないまま、視線をとうとう、キャサリンの太腿にまで滑らせていた。
「知ッテルハズデス。全部燃エマシタ。」
「母さんたちも居るんだぞ。」
「ホームステイ、良イ言葉デス。手筈ハ整ッテマスカラ……」
「なら、教えてくれ、どうしてあんな、どうして。」
「Нет.」
「なら、駄目だよ。」
「デモ、好キニ探ッテイイ。……無理ナラ、他ノ男子ニ頼ミマス。」
「待って、ならその……どうにか、してみるから。だから……」
口が先走っていた。視線はいつの間にか、胸の辺りに収束している。いつの間にか、俺の手は虚空を掴もうとしていた。
「アリガトー!」
握られた手がぶんぶんと揺れる。その手は暖かく、それでいてどこか硬い。
「戻リマス。Спокойной ночи.」
真っ白な天井が、ふらふらと揺れていた。
「スマートフォンで読みにくい」という指摘を受け、試験的に改行を増やしています。
「むしろもっと改行してほしい」「改行だらけで読みにくい」など御意見ございましたら、活動報告に頂ければ幸いです。
追記:12/7の更新は休止とさせてください。少々、体調が不安定です。書き上げてしまっておけば良かったのですが、間に合いませんでした。申し訳ございません。




