魔法少女、始めました。
一人のサラリーマンが、得意先を回ってきて自社へと帰ってきたところで体をほぐしながらんん~と背を反らせて伸びをした。結果的に見上げることになった、澄みきった空に一点の染み。
「鳥…か?」
秋葉原のメイド喫茶の一つ。
一人の男が快適だった空間から出ると、身を焦がす太陽の視線に不機嫌そうに顔を向けてそれに気づく。
「飛行機でしょ、JK」
それは地上へ向けて落下しているようだった。地上に近づくにつれてその姿が露になってくる。幸にもそれは飛行機の落下ではなかった。
それに気づき、空を見上げる者が現れ、増え、それに釣られて見上げる者が現れてほとんどの通行人が空を見上げた頃、いよいよ地上間近となって、動体視力の良いものが何であ
るかに気づいて叫んだ。
「魔法少女だ!」
もし、それが東京であったならそんな事態もあったかもしれないが、実際にそこには二つの存在しかいなかった。
ーーー急降下する魔法少女と
ーーーその先にいる、全身を黒い靄のようなもので覆われた熊。
元々は余所の動物園から借り受けた白熊だったその熊は、染め方が違ったためかパンダにはなっていない。その熊が上方からの異常に気づいた頃には既に遅く、落下速度を増していた魔法少女の攻撃をかわしきれず、頭上にその“拳“を受けた。
遥か上空から落下したものが落ちたにしては軽い音が響き渡り、灰色の粉塵が舞い上がる。魔法少女と斑模様の熊を除けば、その世界にはおおよそ彩というものが存在しなかった。灰色一色の世界。
家、公園、ビルにスーパーといった人の営みを感じさせるもの、また木々といった自然物も存在していた。
だが、全ては灰色の石で出来ていた。
そしてその石は朽ち果てた骨のように簡単に砕け、粉のようになってしまう。
巻き上がった粉塵とはすなわちその砕けた石だった。
その粉塵が拡散され、灰色に染まっていた視界が開けてくると、うっすらと影が見え始める。淡いピンクを基調として白のフリルで飾ってあり、帯のように少し濃いめのピンクのリボンが腰元で主張しているドレスを着た女性だった。身長は170cmほどと少し高めで、体つきは細身で髪は短く、表情はすっきりと引き締まっていて中性的な魅力があったが、目が釣り上がっていて、要するに目つきが悪い。
モデル体型な体つきと相まってすこぶる可愛らしいドレスとは合っていなかった。コスプレだとしても人選を考えろというレベルである。
「あれで、良かったか?」
そんな彼女の口からハスキーボイスが紡がれる。
「ああ、十分だ日加理。というか予想異常だ。」
応える声は上機嫌さを隠し切れていない。
「なら、今日のところは帰ってもいいかな。流石にちょっと疲れたよ」
その声に疲労の色は感じられなかったが、彼女の成し遂げたことに対して否定する余地は一切なかった。本来であれば報告書の提出やら何やら事後処理の必要性があったが今日に限ってはいいだろう。
「わかった。明日迎えを寄越すことにする。なんだったら送りの車も準備しようか?」
「いい。」
少々ならず失礼な態度で日加理はその場をさった。
「所長、本当に彼女、今回が初戦闘だったんですか?」
日加理が姿を消したところでスタッフの一人が声をかける。
「ああ、今回は緊急事態だったので時間稼ぎのために仕方なく出てもらったが、本当のところ、まだ出撃させるつもりはさらさらなかった」
所長と呼ばれた男の本心である。
「いきなりの実戦であれだけ魔法を使いこなしたっていうのか?敵は最も弱いランクだったとは言え、消費MPは過去最小だぞ」
驚愕するスタッフの一人にもう一人のスタッフが話しかける。
「大場君、確かにそれも驚くべきことだけどそれよりもこれを見て。」
彼らは日加理と斑熊との戦いを唯一モニターしていた。その録画を巻き戻してある一点から再生する。それは上空300mから落下する日加理だった。
「いきなり魔法の力を使いこなして空を飛んだのも驚いたけどその後がさらに異常なの。普通こんなことをすればきりもみ状態になって攻撃するとかそれどころじゃないわ」
記録の中の日加理は体を水平に保ったまま落下していた。
「魔法を使ったんでしょう?空を飛べるくらいならそれくらいやってのけそうじゃないですか、佐原先輩」
大場と呼ばれた男の発言は最もであった。
「使ってないわ。いいえ、正確には使ってはいるけれど、落下速度を上げているだけよ。姿勢の制御にはほとんど魔法を使っていないのよ。これだけのボディコントロールと魔法の緻密な制御をいきなりでやってのけるなんてね」
それからも研究所内では日加理の戦闘データの解析で盛り上がっていた。
一方、話題の中心であった日加理は恥ずかしい魔法少女の服を脱ぎ、元の制服に着替え直すや否や、すぐに施設を飛び出した。その日初めて訪れた場所にも関わらず、彼女は道のりを完全に把握しており、人にぶつかるのを避けられるギリギリの速度をキープして走り続けていた。予想外の展開にすっかり遅くなってしまっていた。時刻は18時47分、ギリギリだ。幸にも目的地はそれほど離れていない。走れば10分ほどである。
ーーー桐生大学付属病院。
その502号室へと早歩きで向かう。
502号室は個室でそこに入院しているのは少女だった。日加理とは異なり、若干垂れがちな目つきで、可愛い系の美少女である。
だが義妹だ。
「日加理、何をやってたんだ!どれだけ連絡をいれたと思ってるんだっ」
そう声を荒げたのは父、貞一である。
「あなた、ここは病院よ。日加理ちゃん、日向が、日向の病気が突然きれいさっぱり直っちゃったの。しばらく様子見のために入院するけれど多分大丈夫だって」
それだけ言って義母の志津は泣き出してしまう。
「お姉ちゃん」
まだ弱々しい声が聞こえて、ベッドに近づく。まだやつれているが表情は明るくなったような気がした。
「ヒナ、良かったね」
私は何と言えばいいのかわからず、それだけをなんとか口にした。
そんな私を見てわずかに笑いながら日向が億劫そうに手をもちあげて日加理を手招きする。病気が直ってもまだ以前のように動かせないようだ。日加理は日向へと顔を近づけると、日向が小さな声で話かけてきた。
「あのね、お姉ちゃん。私ね天使さまに会ったの。」
聞く人によっては正気を疑いかねない発言だったが、日加理が日向を疑うことはなかった。
「天使さまがね、私に言ったの。お前の病気を治してやろうって。私、思わず聞いちゃった。どうして私なんですかって。だってそうでしょ?少ないとは言え同じ病気を抱えている子は他にもいて、私より症状が進んでいる子だってきっといるはずだもの。そしたら天使さまが言われたの。私を助けてくれと切に願う者がいたからだって。」
日加理を見る日向の目は真剣で、それが日加理であることを全く疑っていなかった。
「お姉ちゃん、ありがとう」
しかし言葉とは裏腹に日向の表情には陰があった。
日向の病気は現時点で治療法が見つかっていなかったはずだった。どういうわけかそれが治ってしまった。そのために日加理が無理をしたのではないかという疑念と、自分だけが特別な配慮で助かってしまったという罪悪感。
日向がそんな風に考えていることを日加理はすぐに理解した。それでいて日向が言っていることが分からないふりをした。
「今日は一緒に寝よっか」
結局なんとも言えなくて、日加理はそう言った。
なんとか病院側に許可を得て、一緒に寝た日加理と日向は今日何があったとか元気になったらしたいことなどを話し合い、いつの間にか抱き合うように眠りに就いていた。