第1話 普通の女の子
午前七時ちょうど。スマートフォンのアラーム音の電子音が、規則正しいビートで静寂を切り裂いた。
月城ミユ(つきしろ・みゆ)は、重い瞼をこじ開けるようにしてゆっくりと目を開けた。薄いカーテンの隙間から、柔らかい秋の朝光が室内へと差し込んでいる。空気を漂うごく小さなホコリの粒子が、光の筋の中でチラチラと舞っていた。
「……んー……」
小さく欠伸を噛み殺しながら、ベッドの上に体を起こす。体に残る微かな眠気を振り払うように、両手を頭上に伸ばして大きなストレッチをした。関節が小さくポキリと鳴る。どこにでもある、何一つ変わらない一日の始まりだった。
「ミユ! 早く起きなさい、もう七時過ぎてるわよ! 遅刻しても知らないからね!」
階下から、朝食の準備をする鍋とフライパンの金属音に混じって、母親の聞き慣れた声が響いてきた。
「起きてるー」
声だけを返しながら、ベッドから足を下ろす。フローリングの冷たさが足裏から伝わってきた。
パイプハンガーに掛けられた濃紺のブレザーとチェック柄のスカートを手にとり、慣れた手つきで袖を通す。鏡の前に立ち、ブラシで髪を整えると、紺色のヘアゴムでひとつに結んだ。鏡の中に映っているのは、特別可愛くもなければブサイクでもない、ごくありふれた女子高生の顔だ。肌に大きな荒れもなく、黒髪も癖のないストレート。すべてが「普通」の枠内に収まっていた。
一階へ下りると、食卓にはトーストと目玉焼き、そしてヨーグルトが並んでいた。テレビの画面では朝の情報番組が流れており、女子アナウンサーが今日の天気と星占いランキングを明るい声で読み上げている。
「ミユ、今日の数学のテスト、勉強したの?」
コーヒーカップを手に取りながら、母親が尋ねてくる。
「まあ、そこそこ。いつも通りだよ」
「まあ、あんたはいつも高望みしないから安心だけどね。赤点だけは取らないでよ」
「取らないってば」
トーストをかじりながらスマホを手にとると、画面にはすでに友人たちからのLINE通知が何件か届いていた。
『ねえ今日の数学テストまじでやばくない??』
『公式ひとつも覚えてないんだけど笑』
グループトークの画面を開き、ミユは素早いフリック入力で返信を打つ。
『私も昨日全然やってない笑』
『ヤバい仲間いてよかったー! 詰んだ笑』
そんなスタンプ交じりのやりとりを交わしながら、ミユはヨーグルトを最後の一すくいまで口に運んだ。画面の向こうの友人たちも、自分と同じようにパンを齧ったり髪をセットしたりしながらスマホを操作しているのだろう。誰もが、何かの主人公になるわけでもなく、ただ同じような朝を生きている。
「ごちそうさま。行ってきます」
「はい、気を付けてね。車に気をつけるのよ」
玄関でローファーを履き、鍵を開けて外に出る。
爽やかな朝の風が頬を撫でた。住宅街の緩やかな坂道を下りていく。すれ違うのは、同じ制服を着た近所の高校生や、スーツ姿の会社員たち。アスファルトの上を歩く靴音が、重なり合って朝の街に溶けていく。
駅のホームにはすでに人だかりができていた。滑り込んできた電車に揺られながら、ミユは吊り革に掴まり、再びスマホの画面をスクロールする。SNSのタイムラインには、見知らぬ誰かのキラキラした日常や、どうでもいいゴシップ動画が延々と流れていた。
何の変哲もない朝。事故もなければ、ドラマチックな運命の出会いもない。ミユの毎日は、いつも完璧な平穏の中にあった。
昇降口で上履きに履き替え、2年B組の教室のドアを開けると、そこには朝の独特な喧噪が満ちていた。
机を挟んで談笑する男子たち、メイクの直しをする女子たち、提出物に追われてペンを走らせる生徒。朝の教室は、それぞれの居場所とグループごとに小さな島を作っている。
「あ、ミユ! おはよー!」
教室の中ほどから手が振られた。声をかけてきたのは、いつものグループの二人――アオイとリコだ。ミユはカバンを自分の席に置くと、軽やかな足取りで二人の元へ向かった。
「おはよー。朝から元気だね」
「元気なわけないじゃん! さっき言った通り、数学のテストで死亡確定なんだから!」
アオイが頭を抱えながら叫ぶ。ショートカットの活発な女の子で、グループのムードメーカーだ。そのとなりに座るリコは、スマホを見ながらふふっと小悪魔的に笑っている。
「アオイは毎回そう言って、結局平均点くらい取るよね」
「今回はマジだって! ミユ、見せてよ、ノート! 今から丸暗記するから!」
「いいけど、私のノート雑だよ?」
ミユは自分の席からノートを取ってきてアオイに渡した。アオイは「神様仏様月城様ー!」とおどけて叫び、必死にページをめくり始める。その大げさなリアクションに、ミユもリコも思わず吹き出した。
ミユには、学校生活を楽しむための「友達」がちゃんといた。
昼休みになれば、購買で買った焼きそばパンや持参したお弁当を持ち寄って、机をつき合わせる。
「ねえねえ、このTikTokの動画見た? このダンスめちゃくちゃバズってるんだけど」
「あ、それ知ってる! 昨日おすすめに出てきた」
「これさ、来週の球技大会の後にみんなで撮らない? 投稿しよーよ」
「いいね、やろうやろう!」
くだらない流行りの動画の話、担任のちょっとズレた言動についての愚痴、クラスの男子の誰と誰が良い雰囲気だという恋バナ。話題が尽きることはなかった。休み時間のたびに三人で集まり、声を合わせて笑い、SNSで面白い動画を共有する。
間違いなく、ミユはクラスの孤立者ではない。グループの中で浮くこともなく、意見がぶつかって喧嘩をすることもない。楽しく、心地よい関係を築けていた。
けれど――。
(……私って、親友っていないな)
ふと、昼休みの会話の合間に、ミユの頭をそんな思考がかすめることがあった。
アオイとリコは大事な友達だ。学校にいれば楽しいし、一緒にいる時間はあっという間に過ぎる。だが、「自分の中の一番深い部分」を話せるかというと、少し違う気がした。
たとえば、将来の漠然とした不安とか。時折胸の奥を襲う、理由のない寂しさとか。あるいは、誰にも言えない秘密とか。そういったものを打ち明けられる相手かと言われれば、答えは「ノー」だった。
二人もまた、ミユに対して隠しごとがないわけではないだろう。アオイには中学時代からの別の親友がいるし、リコには他校に大好きな彼氏がいて、本当にディープな相談はその相手にしているらしかった。
ミユにとって二人は「学校で楽しく過ごすための最高の友達」であり、二人にとってもミユは「ノリが良くて気を使わないで済む友達」なのだ。
(まあ、でも……それの何が悪いんだろう)
ミユは、そのことに深い絶望や孤独を感じているわけではなかった。
「親友」という響きにはどこかドラマのような重くるしさがある。お互いのすべてを知り尽くさなければいけないような、重たい関係。そんなものがなくても、毎日笑って過ごせているならそれで十分じゃないか。
「ミユー? 聞いてる? 来週の土曜、買い物行かないって話!」
「あ、ごめんごめん! 聞いてたよ、いいよ、行こう!」
アオイの声に弾かれたように笑みを浮かべ、ミユは思考を切り替えた。親友がいない。ただそれだけのこと。別に、悲しむようなことではないはずだった。
五時間目の数学の授業。チャイムが鳴ると同時に、白髪の混じった数学教師の小林が、採点済みの解答用紙の束を抱えて教壇に立った。
「はい、じゃあ先週の小テスト返しまーす。名前呼ばれた奴から取りに来い」
教室の中に重苦しい溜め息と、一部の男子のふざけた悲鳴が広がる。アオイは隣の席で両手を合わせ、祈るようなポーズをとっていた。
「月城ー」
「はーい」
名前を呼ばれ、ミユは席を立って教壇へ向かった。小林先生から手渡された紙の右上に、赤ペンで大きく数字が書かれている。
『82』
「月城、相変わらず安定してるな」
小林先生がメガネの奥の目を細めて、フッと微笑んだ。
「お前はいつも授業も真面目に聞いてるし、ケアレスミスも少ない。だがな、もう少し詰めの勉強をすれば、90点台……いや、学年上位も狙えるんだぞ。勿体ないな」
「いやー、先生。私にはこれが限界ですよ。運が良かっただけですって」
ミユは苦笑いを浮かべながら、おどけたように手を振った。
「そうか? お前ならもっとできると思うんだがな」
「無理無理! これ以上勉強したら頭爆発しちゃいます」
冗談めかして返し、解答用紙を手に自分の席へと戻る。
82点。クラスの平均点は65点ほどだから、十分に「良い点数」だ。けれど、100点満点を取って先生たちを驚かせるような点数でもない。
返ってきたテストを見つめながら、ミユは小さく息を吐いた。
勉強に限った話ではない。次の六時間目の体育の授業――バレーボールのスパイク練習でも、ミユのポジションは明確だった。
運動神経が悪いわけではない。サーブは確実に入るし、レシーブもトスもそつなくこなす。チームの足を引っ張るようなミスは絶対にしない。だが、アタッカーとしてバシバシと力強いスパイクを決め、周囲から「キャー! ミユかっこいいー!」と歓声を浴びるようなエースでもない。
美術の時間のデッサンも、音楽の器楽合奏も、すべて同じだった。
何をやらせても、人並み以上にこなすことができる。先生からの評価はいつも「A」か「B+」。通知表の評定は、見事なまでに「4」が並ぶ。
怒られることもなければ、特別に褒めちぎられることもない。
「何でもできるけど、何者でもない」
それが、月城ミユという人間のスペックだった。器用貧乏、と言ってしまえばそれまでかもしれない。尖った才能がない代わりに、致命的な欠点もない。
「中の上」
その居心地の良い、けれどどこか味気ない場所に、ミユはずっと留まり続けていた。
放課後のホームルームが終わると、教室の一角が一気に華やいだ雰囲気になった。
「すごーい! 結衣、また次の大会の県代表に選ばれたの!?」
「やばい! さすが結衣! まじで尊敬するんだけど!」
クラスの人集まりの中心にいるのは、白石結衣だった。
さらりと流れるツヤのあるロングヘア、透き通るような白い肌、そしてモデルのようにスラリとしたスタイル。彼女はクラス……いや、学年全体の「アイドル」的な存在だった。
容姿が恵まれているだけではない。陸上部のエースとして全国大会の狙える記録を持ちながら、定期テストでは常に学年トップ3に入る秀才。明るく謙虚で、誰に対しても気さくに接するため、男子からも女子からも圧倒的な人気を誇っていた。
「ううん、みんなのおかげだよ。応援してくれたから頑張れたの」
控えめに微笑む結衣の周りに、さらに人垣が広がっていく。先生までもが「白石、よくやったな! 校長先生も喜んでたぞ」と声をかけにくる始末だ。
まるで、彼女の周囲だけ光の粒が降り注いでいるかのように眩しかった。世界が彼女を中心に回っているかのような錯覚さえ覚える。
ミユは、アオイやリコと一緒にその輪の少し離れた場所から、笑顔で拍手を送っていた。
「結衣ちゃんすごーい! おめでとう!」
「ありがとー、ミユちゃん!」
結衣がミユに気づき、パッと花が咲くような満面の笑みを返してくれる。その笑顔には一切の裏表がなく、心からの善意と親愛が込められていた。
ミユの中に、嫉妬や妬みといったドロドロした感情は一切なかった。
(すごいなぁ、本当に……)
心から、純粋にそう思った。同じ人間なのに、どうしてあそこまで何でもできて、誰からも愛されるのだろう。結衣の努力を知っているからこそ、その輝きを心の底から称賛できた。嫉妬する気すら起きないほど、自分とは住む世界が違うと感じていた。
けれど――。
人垣が少しずつ散り、結衣が部活動のために「じゃあみんな、また明日ね!」と爽やかに教室を出て行ったあと。
ミユは自分の机の前に立ち、カバンに教科書を詰め込みながら、ふと自分の掌を見つめた。
(……私には、何があるんだろ)
その問いが、静かに胸の奥から湧き上がってきた。
結衣には、誰もが認める才能と、情熱を注ぐ部活と、人を引きつける魅力がある。 アオイには、誰とでもすぐに打ち解けられる圧倒的な明るさがある。 リコには、自分の「好き」を貫くブレない強さがある。
じゃあ、月城ミユには?
テストで82点を取る器用さ? 空気を読んで誰とでも波風立てずに付き合える適応力? そんなものは、個性と呼べるほどのものじゃない。取替えのきく、ただの「無難なパーツ」でしかない。
「……私って、何のためにここにいるんだろ」
呟いた声は、自分の耳にしか届かないほど小さかった。
だが、次の瞬間には、ミユは自分で自分をあきらめるように首を横に振った。
(……まあ、別にいっか)
特別な何かにならなくたって、生きてはいける。不幸なわけじゃない。毎日食べるご飯はおいしいし、家族は優しいし、友達と遊ぶのだって楽しい。高望みをして傷つくくらいなら、この「中の上」の平穏の中にいる方がずっと楽だ。
ミユはため息と一緒に思考を吹き飛ばすと、カバンのチャックを勢いよく閉めた。
「ミユー! 今日このあと、駅前のカフェ行かない? 新作の抹茶フラペチーノ出たんだって!」
帰り支度を終えたアオイが、スマホの画面を見せながら誘ってきた。横ではリコも「私絶対飲みたいー」と頷いている。
いつもなら、「行く行く!」と即答する場面だった。新作のスイーツを食べて、SNS用に写真を撮って、どうでもいい無駄話をして時間を潰す。それはミユにとっても楽しい時間のはずだった。
けれど、今日のミユは、なぜかその輪に入ることに小さな抵抗感を覚えていた。
「ごめん、二人とも。今日はちょっと用事があって……」
「えー、ほんと? 珍しいじゃん、ミユが断るなんて。塾?」
「ううん、ちょっと家に買い物を頼まれててさ。ごめんね」
とっさについた小さな嘘だった。誰かを傷つけるための嘘ではない。ただ、なんとなく――本当にただなんとなく、一人になりたかったのだ。
「そっかー! じゃあ仕方ないね。また今度行こ!」
「うん、感想教えてね。じゃあね、アオイ、リコ!」
「バイバーイ! また明日ねー!」
二人は手を振りながら、仲良く教室を後にしていった。廊下から二人の楽しそうな話し声が遠ざかっていく。
ミユは一人、静まり返った教室に残された。
西日が差し込む教室は、橙色と群青色のグラデーションに染まっている。窓際の机に影が長く伸びていた。昼間の喧噪が嘘のように静かで、遠くから運動部の声や吹奏楽部の楽器の音が途切れ途切れに聞こえてくる。
カバンを肩にかけ、ミユはゆっくりと教室を出た。
下駄箱でローファーに履き替え、校門を出る。友達と帰るときはいつも賑やかな校門付近も、一人で歩くとやけに広く感じられた。
秋の夕風が、制服のスカートをサラサラと揺らす。
「……ハァ」
誰もいない通学路で、小さく息を吐き出す。
一人になりたかったはずなのに、一人になった途端、胸の奥にぽっかりと小さな穴が開いたような感覚が広がっていった。
不幸ではない。貧しくもないし、病気でもない。いじめられているわけでもないし、家庭環境に問題があるわけでもない。
満たされている。間違いなく、恵まれている側だ。
それなのに、どうしてこんなにも――心が空っぽなのだろう。
何かが足りない。 けれど、その「何か」が何なのかさえ、ミユにはわからなかった。自分の人生という物語の中に、自分という主人公が不在であるかのような、奇妙な感覚。
傾きかけた太陽が、ミユの影をアスファルトの上に長く伸ばしていた。
ミユはその影を踏みしめるようにしながら、ゆっくりと、一人きりの帰り道を歩き続けた。特別なことなど何一つ起こらない、いつもの日常の中をーー。
西日に照らされた夕方の街を、ミユはあてもなく歩いていた。
商店街のアーケードからは、夕飯の買い出しをする主婦たちの話し声や、総菜屋から漂うコロッケの香ばしい匂いが流れてくる。横を、部活帰りと思われる運動部の男子高校生たちが、賑やかに自転車で通り抜けていった。
赤信号で足を止める。目の前を、疲れた顔をしたスーツ姿のサラリーマンや、手を繋いで仲良く歩く若いカップルが通り過ぎていく。頭上を通過する電車のゴーッという重低音が、夕暮れの街の喧噪に溶け込んでいった。
どこを見渡しても、ありふれた平和な日常風景だ。この街の誰もが、自分の生活を当たり前に生きている。
信号が青に変わるのを待ちながら、ミユはポケットからスマホを取り出し、画面をスクロールした。
Instagramを開くと、フォロワーたちの賑やかな投稿が目に入る。 他校に通う中学時代の友達がアップした、沖縄旅行のエメラルドグリーンの海の写真。 「17歳になりました!」というテキストとともに、色鮮やかなケーキを囲む知らない誰かの写真。 彼氏との初デートの報告写真。 そして、白石結衣の「陸上部、県大会出場決まりました! みんなありがとう!」という輝かしい笑顔の写真。
誰も彼もが、自分の人生の主人公として、特別な瞬間を生きているように見えた。
ミユは親指を滑らせ、それぞれの写真に迷いなく「いいね」のハートマークを押していく。機械的ではあるけれど、嫌悪感や劣等感があるわけではない。本当に「楽しそうだなぁ」「よかったね」と思うから押しているのだ。
「……まあ、私も普通に楽しいけどな」
画面を閉じ、スマホをポケットに舞い戻しながら、ミユは呟いた。
アオイやリコとおしゃべりするのは楽しい。美味しいものを食べれば幸せだし、休日に家でダラダラ過ごすのも好きだ。自分の生活に大きな不満があるわけじゃない。私は私で、十分に楽しくやっている――そう自分に言い聞かせるように、ミユは青に変わった横断歩道を渡り始めた。
⑦ 「このままでいいのかな」
家に帰り、手洗いうがいを済ませると、ちょうど夕食の時間だった。
今日の献立はハンバーグ。母親と二人で食卓を囲み、「今日のテストどうだった?」「まあ普通」といった他愛のない会話を交わす。バラエティ番組の笑い声がリビングに響き、平凡で温かい時間が流れていった。
風呂に入り、濡れた髪をドライヤーで乾かす。 部屋に戻り、ベッドの上でゴロゴロしながら好きなチューバーの動画を見る。 思い出したように机に向かい、三十分ほどで明日の予習と宿題を終わらせる。
夜十一時。照明を消してベッドに入ると、一日が完全に終わりを迎える。
(あー……明日も学校かぁ)
暗闇の中で天井を見つめながら、ぽつりと心の声が漏れた。
学校に行くのが嫌なわけではない。友達に会えば楽しいし、嫌なイジメがあるわけでもない。けれど、明日も今日とまったく同じ一朝が来ることが、どこか無性に退屈に思えた。
(私、このまま高校を卒業して……)
ぼんやりと、先の未来のことを考える。
(大学に行って、普通に就職して、普通に働いて……。誰かと結婚したりするのかな。……それから、どうなるんだろう)
その先にある答えは、いくら考えても浮かんでこなかった。
線路の上を走る電車のように、決められたルートをただ流されていく自分の未来。何一つ波風の立たない、安全で、平穏で、そして恐ろしく変化のない人生。
(私……このままでいいのかな)
答えの出ない問いが、静かな部屋の中で輪郭を失い、ミユはゆっくりと眠りに落ちていった。
翌日の夜。時刻は午後十時を回っていた。
「あ、ノート切らしてた……」
明日の授業の準備をしていたミユは、使い切ったノートを見て小さく息をついた。明日の朝買いに行くのは面倒だ。幸い、家から歩いて数分の場所にコンビニがある。
「お母さん、ちょっとコンビニ行ってくるね」
「はいはい、気をつけてね。夜道なんだからすぐ帰ってくるのよ」
スウェットの上に薄手のパーカーを羽織り、財布とスマホを持って外へ出た。
昼間の熱気が嘘のように引き、夜の空気はひんやりと冷たい。街灯がぽつりぽつりとアスファルトを照らしている。住宅街の夜道は静まり返っており、自分の足音だけがカツン、カツンと規則正しく響いていた。
アスファルトに落ちる街灯の光を見つめながら、ミユはポケットに両手を突っ込んで歩く。
(世界って、静かだな……)
昼間はあんなに賑やかだった街が、夜になるとまるで誰もいない死んだ街みたいになる。そんな静寂の中で、ミユの頭には昨夜と同じような漠然とした思いが浮かんでは消えていた。
特別になりたいわけじゃない。白石結衣みたいに注目を浴びたいわけでもないし、漫画のヒロインになりたいなんて大層なことを望んでいるわけでもない。
ただ――。
「……なんか、面白いこと起きないかな」
誰に聞かせるでもなく、夜風に言葉を乗せて呟く。
この変わり映えのしない日常が、ほんの少しだけ揺らぐような何か。自分の退屈な毎日に、一筋の刺激をくれるような何か。
そんな奇跡みたいなものが起きるはずもないと知りながら、ミユは夜空を見上げた。
コンビニでノートとアイスを買い、来た道を戻る。
住宅街の狭い路地裏。いつも通っている曲がり角を曲がった、そのときだった。
「……あれ?」
ミユは足を止めた。
暗闇の中に、ぽっかりと温かい光を放つものが立っていた。自動販売機だ。
(こんなところに、自販機なんてあったっけ……?)
毎日のように通っている道だ。昨日の帰り道には絶対になかったはずだ。誰かが今日設置したのだろうか。だが、こんな住宅街の住宅の壁際に、ぽつんと一台だけ置かれているのはどこか不自然だった。
吸い寄せられるように、ミユは自販機の前に歩み寄った。
見た目は、どこにでもあるごく普通の白い自動販売機だ。透明なディスプレイの中に、さまざまな飲み物のサンプル缶やペットボトルが並んでいる。
ミネラルウォーター。緑茶。缶コーヒー。炭酸飲料。
どれも見慣れた商品ばかりだ。……だが、一番下の段、右端のサンプルを見た瞬間、ミユの思考が凍りついた。
「……え?」
そこにあったのは、真っ白な無地の缶だった。
メーカーのロゴもなければ、果物のイラストもない。ただ、缶の中央に黒いシンプルなフォントで、こう印字されていた。
『幸福』
そして、その下にある赤く光る価格表示には、こう書かれていた。
『100円』
「こうふく……?」
ミユは目を丸くした。
新手の清涼飲料水だろうか。「幸福」という名前のジュース? だが、サンプル缶をどれだけ凝視しても、原材料名も、内容量も、メーカー名すら書かれていない。商品説明のポップもなく、ただシンプルに「幸福 100円」とだけ表示されているのだ。
怪しすぎる。明らかに異常だ。
ミユは思わずスマホを取り出し、画面を向けた。カシャッと静かなシャッター音が夜道に響く。
検索欄に「自販機 幸福 100円」と打ち込んで検索してみたが、該当するニュースもSNSの投稿も一切ヒットしなかった。悪質なドッキリか、SNSでバズ狙いの誰かが設置したアート作品だろうか。
(アオイたちにLINEで教えてあげようかな……)
そう思ってグループトークを開きかけたが、なぜか指が止まった。
もしこれを見せて「何これヤバい笑」と盛り上がってしまったら、この不思議な高揚感が「ただのネタ」として消費されてしまうような気がしたのだ。誰にも言わず、自分だけの秘密にしておきたいような、奇妙な独占欲が芽生えていた。
財布を開く。小銭入れの中には、ちょうど100円玉が一枚だけ入っていた。
「……まあ、100円だし。ジュース一杯分だしね」
自分に言い訳をするように呟くと、ミユは100円玉を指でつまみ、硬貨投入口へと滑り込ませた。
チャリン、と軽い金属音が響く。 『100』の数字が赤く点灯した。
少しだけ躊躇したものの、ミユは迷いを振り払うように「幸福」の下にあるボタンを押した。
ガコンッ。
夜の静寂を切り裂いて、重い音が響き渡る。 取り出し口のフラップを押し開けると、そこにはひんやりと冷えた一缶の白い缶が転がっていた。
手に取ってみる。金属のつめたい感触が手のひらに伝わってくる。ズシリとした重み。やはり、ラベルには『幸福』という二文字しか書かれていない。
「……怪しすぎるでしょ、これ。絶対に飲んじゃダメなやつじゃん」
一人で苦笑いを浮かべる。毒でも入っていたらどうするんだ、と冷静な自分が警告を発していた。捨てるべきだ、と。
だが、ミユの手は缶をゴミ箱へ運ぶことはなかった。
胸の奥で、何かが疼いていた。 「何か面白いこと起きないかな」と願った直後に現れた、この怪しすぎる缶。これを飲んだら、何かが変わるかもしれない。自分の退屈で空っぽな日常に、小さな変化が訪れるかもしれない。
ミユは息を呑み、ゆっくりと缶のプルタブに指をかけた。
カチッ、プシュッ。
心地よい炭酸の抜ける音とともに、缶の口から微かな白い煙が立ち上った。
それと同時に、ふわりと鼻腔をくすぐる香り――今まで嗅いだこともない、どこか懐かしく、甘く優しい果実のような香りが広がった。
ミユはゴクリと唾を飲み込んだ。
冷たい缶を、ゆっくりと口元へ運んでいく。
一瞬の迷い。ほんの僅かな躊躇。
けれど、ミユは瞼を閉じ、思い切って缶を傾けた。
ひんやりとした液体が、唇を濡らし、舌の上へと広がっていく――。
その瞬間。
世界から、すべての音が消え去った。




