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読了印のない花文字は、候補者の声ではありません

封蝋の削りかすは、白布の上で黒い雪のように散った。


退職処理済み箱と同じ色。同じ硬さ。同じ、針先で削ると粉になる古い封蝋。


私は黒塗り台帳の端を押さえ、浮かび上がった日付をもう一度読んだ。


私が王太子から追放を告げられた翌日。


その横に、私の旧保守印に似せた印影がある。角度は同じ。けれど、針目の横に出る小さな欠けがない。


「エリナ様の印では、ないのですか」


セリアが靴擦れ当て布の札を抱えたまま聞いた。


「私の印を写したものです。けれど、読んだ人の手ではありません」


「印はある」


廊下の奥から、ベリルではない男の声がした。王太子側の衣装管理役、レオンだ。祝典礼服の芯布を運ばせていた男で、いつも手袋を白すぎるほど磨いている。


「保守印があり、ミリア様の花文字がある。候補者同意済みとして処理する。王妃陛下もお急ぎだ」


王妃陛下は黙って台帳を見ていた。止めるなとも、進めろとも言わない。その沈黙が、私に針箱を開けさせた。


「では、読了印を見せてください」


レオンの眉が動いた。


「花文字がある」


「読了印ではありません」


私は青い薄紙を一枚、花文字の上に重ねた。桃色の癖の強い線は、薄紙の下でもはっきり見える。妹ミリアの字だと、私も思う。


けれど、思うことと、読んだことは違う。


「衣装室では、同意欄を三つに分けます。名前。読了印。生活到着先」


私は台帳の余白に、細い線を引いた。


「名前だけなら、誰かが書かせられます。読了印は、本人が内容を読んだあとで押すものです。生活到着先は、その同意で何が動くかを書きます」


レオンが笑った。


「布の話に、大げさな」


「布だからです」


私は候補者控え布の束をほどいた。白布の端から切り出された小さな反物。祝典用の飾り袖に回せば、王太子妃候補の肩を美しく見せるだろう。


だが、控え布の裏には小さな朱線があった。


候補者控室、夜間外套二枚。


予備靴の踵当て四枚。


面談待ちの膝掛け一枚。


「この花文字が同意済みになると、夜まで控室で待つ候補者の外套が消えます。靴擦れしたまま面談へ出る子の当て布が消えます。帰宅馬車を待つ膝掛けが消えます」


ノアが、さっき自分の名を書いた膝掛け札を見下ろした。


「名前があるだけで、そんなに動くんですか」


「動くように作られているの」


私は花文字の横に、青い保護札を置いた。


「だから、声のない名前は衣装の鍵にしません」


廊下の空気が少し変わった。


候補者控室の扉が、内側から細く開いた。薄い外套を肩にかけた少女が一人、顔を出す。名札には、リナリア・フォルドとある。ミリアではない。候補者の一人だ。


「……私の札にも、花文字がありました」


レオンが振り向いた。


「控室へ戻りなさい」


「戻る前に、聞きたいです」


リナリアは震える指で、自分の名札を差し出した。


「私は、祝典袖への転用を読んでいません。外套がないまま夜まで待てとだけ言われました。それでも、同意したことになるのですか」


私は名札を受け取り、読了印欄を見た。


空白。


「なりません」


私はそう言って、名札を台帳の上に置いた。


「リナリア・フォルド様。今ここで読める範囲を読み、読めない範囲は読めないと書いてください。空白は、あなたの怠慢ではありません。まだ誰も、あなたの生活が何を失うか説明していない印です」


リナリアの目が揺れた。


セリアが、当て布を一枚差し出す。


「靴、痛いですよね。これ、あなたの分にも切れます」


ノアは膝掛け札を一枚、控室用へ移した。


「馬車待ち、東門は冷えます。俺の帰宅分と同じ布から取れます」


一枚の布が、候補者の肩へ戻る。


一枚の当て布が、痛む踵へ戻る。


一枚の膝掛けが、待つ時間へ戻る。


それだけで、花文字は急に美しい飾りではなくなった。読んでいない人の生活を動かす鍵だった。


レオンは手袋の指を鳴らした。


「王太子殿下の承認を止める気か」


「止めるのは承認ではありません」


私は青い保護札に書いた。


ミリア・ノルヴァ名義。読了印なし。本人確認待ち。


リナリア・フォルド名義。読了印なし。外套・当て布・膝掛け転用不可。


「読んでいない名を、着用済みに変える処理を止めます」


王妃陛下が、初めて小さくうなずいた。


「では、私の祝典袖も、その札を通してからにしましょう」


レオンの顔から色が引いた。


「王妃陛下、それでは」


「急ぐ祝典ほど、誰が寒いまま待つかを先に読みます」


王妃陛下の声は静かだった。けれど、控室の扉の隙間から、ほかの候補者たちの名札が一つずつ見えた。


どれも花文字がある。


どれも、読了印だけが空白だった。


私は台帳を閉じなかった。


閉じないために、青い糸で束ね直す。


そのとき、レオンの手袋から、小さな紙片が落ちた。拾ったノアが首を傾げる。


「衣装管理室、仮置き番号……黒塗り台帳と同じ番号です」


紙片の端には、封蝋を削った跡がある。


そして、その裏に押されていたのは、私の旧保守印ではなかった。


退職処理済み箱を開ける権限を持つ、王太子側管理室の受領印だった。

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