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彼はそれからというもの、日常生活に溺れて忙殺されてしまう事に疑問を抱くようになった。現状に満足を覚える自分が信じられなくなった。しかし同時に、徒に筆を走らせる事もしなかった。多読する事も無くなった。文学は、読まなくても書かなくても良い、そうやって焦って書いたもの、読んだものは、全て偽物である、そう思ったのだ。その代わり彼は必死で考えた。自分は何を書かねばならないのか、いや書くだけではない、どう生きれば良いのか、という所まで遡って考え直した。そこでもし自分は書くべきでないという結論に至れば、潔く筆を折る覚悟でいた。それでも書く事が必要なら、その時はまた出直そうと考えた。ただ考えたとは言っても、何か手がかりがあるわけでもなく、建設的な思索をするでも無く、心に何か引っかかったような煮え切らない毎日を送るだけの事であった。仕舞いには、全てを投げ出したくなるような衝動に駆られ、自分の存在価値のなさを嫌になるまで噛み締めて生きなければならなかった。まただからといって、そうした自己愛の強さや、そこから生じる悲劇を題材にして何かを書こうなどと安易な道に逸れることも潔しとしなかった。そうした「可哀想な自分語り」は世の中に嫌という程溢れている。それはなにか、本物ではない、自分の使命ではないという気がしていた。自分の気持ちの真偽を見極めようとする以上、そう簡単に思いつきやフィーリングを信用する訳にはいかなかった。何一つ信用できるものがない、信用してはいけない、しかしだからと言って何もせずに漫然としていては、前に進まない。焦りは禁物だ、だがどうしても焦ってしまう。こうやって悩む事自体に意味があるのではないか?馬鹿いえ、安易な道に逸れるな。もっと良く考えろ。考えろって一体何を?いや、むしろ考えてはいけないのかもしれない。考えれば考える程安易な道に流されてしまう。俗な欲望とか、見てくれなんかに騙されてしまう。
彼は一日を虚無の海の中で明け暮らした。仕事に没頭しているときはまだ良かったが、休日となると何をやっていいのやらさっぱり分からず、一日ベッドの上で過ごす事も少なくなかった。一日寝ていれば飯も殆ど食わなくて済むし、何も悩む必要がないというのが主な理由だったが、とは言え目が覚めてからの苦痛は普段の何倍も強かった。当然の事ながらそれから暫くは眠る事ができない。仕方なく何かを書き残そうとするも、さっぱり筆が進まない。どうやら迷いの念があるうちは、無理に何かを書こうとしても筆が動かないようだ。近所の公園を散歩してみる。部屋の掃除や洗濯をしてみる。どれも無理なくこなせる。それでも彼はその安穏な暮らしにどこか欠如したものを嗅ぎ出さずにはいられなかった。そうして時には敗北の道に自分が足を踏み入れる事を自ら望んだりもした。敗北を認めないうちには、人間は敗北を喫しないだろう。それを認めた瞬間に、我々はもうそこから這い上がれなくなるだろう。彼は、もうとうに敗北を認めてしまっていた。それを気付かぬふりして、自己欺瞞の幸福に全てを圧殺され、どうしようもなく懶惰な暮らしを送る事は、彼に取って自分の中の掛け替えの無い何かを捨てて生きているようで、とても耐えられなかった。彼はとにかく声を発する事を望んでいた。それが祈りなどというものではないにせよ、自分の信じる神に向かって、何かを語りかけなければならないと感じていた。沈黙は、罪であり、罠であった。それで何もかもがうまくいくなんてとんでもない勘違いだ、それによって自分の全てが奪われてしまうのだと、そう思われた。実際に言葉を失った人間は、思考を奪われたも同然であり、翼をへし折られた天使のようだった。墜落した天使は石と化し、ひび割れて風化した身体のまま、いずれ始末される時を待つのみであった。それではいけない、いずれ消え行く運命にあろうとも、声を発しなければならない。ああ、自分の神は今いずこ?あれほど親しく語り合い、苦楽を共にし、私を夥しい数の幻影から解き放ってくれたあの神は今一体どこにいるのだろう?神は死なない。いずれまた、この心の中に戻ってくるだろう。それまで待つ他ないのかも知れない。待つのか?迎えにいくのか?それとももう二度と会ってはならないのか?