第四章 天明七年 晩夏~初秋 (五)
稽古はできなくなったが、怪我の報告が必要だと、康二郎と伊兵衛は金森右道の診療所から、予定どおり中居道場へと向かった。
元からその途中で中食を摂るつもりだった康二郎だが、右手が使えなくては箸が持てない。朝の予定ではそこで食べるつもりだった蕎麦屋が見えてきた時になって、慌てて左手の手掴みでなんとかなる餅か饅頭で済まそうと伊兵衛に告げた。すると、「今日は蕎麦切りを食べるおつもりだったではありませんか。楽しみにしてらしたのに」と返してきた。
そう、蕎麦切りは康二郎の大好物だ。野田屋敷での食事には出ないから、外で食べるしかない。
「朝はそのつもりだったけど、この手では箸が持てない。いくら盛りでも蕎麦切りを手掴みで食べるのは……」
「わたくしが食べさせてさしあげますから、大丈夫ですよ」
伊兵衛は事も無げに言った。
――何だって?!
あまりに事も無げに言うから、康二郎は思っただけで驚きを言葉に出せなかった。
唖然として何も言えなかった康二郎を了承したと解釈したのか、わかっていて都合よく解釈してみせたのか、伊兵衛は「さ、入りましょう」と、康二郎の背中を押して、蕎麦屋の暖簾を潜らせた。
「ちょ、ちょっと待て。食べさせてさしあげるって、それは困る」
蕎麦屋の敷居を超えたところで伊兵衛に向き直り抗議した康二郎を、伊兵衛は落ち着いた声音で諭してきた。
「最近気づいたことなのですが、わたくしの知る限りでは蕎麦好きに江戸患いに罹った者がおりません。もしも康二郎様がお好きなのに怪我のために十日も蕎麦切りを食べずにいて、なんらかの不調が起こったら、右手の怪我の完治が無駄になってしまいます」
「江戸患い」とは、今でいう脚気、ビタミンB1欠乏症である。玄米には豊富に含まれている栄養素だが、精米した白米にはほとんど含まれないため、江戸時代には白米中心の食事を取っていた裕福な人ほど脚気にかかり、命を落とす人も少なくなかった。
当時はまだはっきりした原因がわかっていなかったものの、江戸を離れるにつれ回復する傾向のあることや(このことから「江戸患い」と呼ばれた)、百姓に発症する人がほとんどいなかったことや、江戸にいて罹る人と罹らない人との差から、伊兵衛のように、食べ物に起因するのではないかと考える者も現れていたのだ。
康二郎が乗せられやすいからか、説得力があった。知らないことが多すぎて、十日くらい食べなくても大丈夫だと康二郎には言えなかった。
あっさり伊兵衛に軍配が上がり、康二郎は蕎麦屋の奥の方の上げ床の、そのまた奥の方へ押しやられた。
素早く行動したが、もちろん客の注目は集まった。伊兵衛はどこでも人目を引く。
康二郎にとってまたしても甚だ残念だったことに、蕎麦屋はなかなかの繁盛ぶりだった。
その店は畳一畳くらいの上げ床が二つに縁台は五つ置かれている、そこそこ大きな蕎麦屋だったのだが、縁台は町人、職人に中間達でほぼ埋まっており、入り口側の上げ床には武家客が五人もいた。
奥の上げ床が空いているところを見ると、伊兵衛が予約しておいたのかもしれない。その辺りの配慮と対応は何も言わずともやってのける伊兵衛である。
武家の五人は康二郎と伊兵衛に顔を向けるまで和気藹々とした雰囲気で蕎麦を食べていたから、顔馴染みの一団らしい。上げ床横の縁台で食べている四人の中間は彼らの供だろう。
これでは振り向かれたら終わりだと、康二郎は思った。
「ここならわたくしで康二郎様のお姿はほとんど見えませんから」
店の若い衆に盛りを二つ頼んだ後に、康二郎の心配は全く気にしない調子で、にこにこと伊兵衛は言った。
――そうだな。ほとんどは見えないだろう。ほとんどのところは。しかし何が行われているかはわかる気が……そうして、気のせいだろうか?伊兵衛は楽しんでいる気がする……
縁台で食べている中間達も、上げ床にいる武士達も、奥へ上がった康二郎と伊兵衛を何者かとしばらく黙って見ていた。知り合いなら一言挨拶しないわけにいかないから、顔を確認したのだろう。右手に晒がぐるぐる巻かれていることに気がついた者も多かったに違いない。
――やっぱりここへ入るんじゃなかった……
「そうだ。ちょうどいい大きさの匙があったりしないかな」
「匙では小さすぎましょう。しゃもじや玉杓子では口に入りませんよ」
この時代の匙は薬を調合するような小さく浅いものしかない。九才の頃にはそれでちょうど良かったが、今の康二郎には小さすぎるし、そもそも蕎麦切りに合わない。康二郎は頭を抱えた。
「わたくしは食べさせるのが上手いのです。ご安心ください。さえより上手いから、あやにもわたくしが食べさせているのですよ」
さえとは伊兵衛の女房で、あやとは伊兵衛とさえ夫婦の間に生まれた長女である。
この春には次女のふみが生まれたのだが、伊兵衛似の娘二人はどちらもとても可愛らしい。
先に生まれて今では片言をしゃべるあやは、見るたびに可愛らしさが増していて、康二郎はいとおしくていとおしくて、その小さな命を守りたくて、会うたびに抱き上げ、あやしている。
しかし、である。
――満二歳の女児と同じ扱い……
通常なら「無礼者!」となるところだろうが、康二郎にそんな意識はもちろんない。そんな意識はないが、平気で奉公人に食べさせてもらうほど「殿様」でもない。往生際の悪い康二郎だった。
「はい、お口をお開けください」
伊兵衛は康二郎の気持ちなどお構い無しだった。
むすっとしながら康二郎が口を開けると、一口で食べられる大きさにまとめた蕎麦切りがちょうどいいところに差し出された。後は口を閉じれば良い。
康二郎にとって腹立たしいことに、本人の申告どおり、伊兵衛は食べさせるのが実に上手かった。
三年を越える康二郎の中間奉公で、薬味や汁のつけ具合まで康二郎の好みを把握していて、味も違和感が無い。咀嚼から喉へ押しやるまで間隔をちゃんと開けて次の一口分を出してくるから、ずずっと啜れない以外、文句のつけようが何もなく、康二郎は黙々と食べるしかなかった。
半分ほど食べたところで康二郎は気になって言った。
「伊兵衛も食べろよ。さっきから俺に食べさせてばかりじゃないか」
「はい、では少しいただきます」
伊兵衛は康二郎に食べさせていた箸を置いて、自分の箸を取り上げると、盛りをささっと三口ほど口にいれた。
また康二郎に食べさせていた箸を取り上げ、くるくると一口の大きさに蕎麦切りをまとめると、少し汁をつけた。
ずけずけ言っているようで、細かなことまで気を遣い、分をわきまえているのが伊兵衛である。
「なんでこんなに食べさせるのが上手いんだ?」
康二郎は差し出された蕎麦切りを見ながら言った。パクリと口に入れた。
「昔、よく食べさせてさしあげましたから。兵庫様に」
康二郎はぐふっと噎せた。慌てて白湯を飲んだ。
「大丈夫ですか?」
とんとんと康二郎は軽く胸を叩いた。蕎麦切りが違う所に入りかけた。
「なんで榊原殿によく食べさせていたんだ?」
「前に申し上げたことがありませんでしたか?兵庫様は飯や肴にはほとんど手をつけず、お酒ばかり召し上がる御方で、若くして身体を壊されたのですが、そのあとも懲りずに相変わらずお酒ばかり召し上がられましてね。放っておけなくなったのと少しからかう気分もあって、ある時わたくしが菜や飯を食べさせてみたのです。そうしたら大人しくお酒以外を口にされたので、その後は時々食べさせてさしあげておりました。最後にはご病気がひどくなり、全食食べさせないといけなくなったので、そこでずいぶん鍛えられました」
ふふと伊兵衛は笑った。
「確か、四十でお亡くなりになったんだよな?」
「満四十と三月でございました」
「酒の飲み過ぎで、なのか……」
「はい。お酒を飲み過ぎると肝の臓が悪くなるそうで、肌が黄色くなり、痛みもあり、最後はずいぶん苦しんでいらっしゃいました。くれぐれも康二郎様はお酒を飲み過ぎませんように」
「俺が長屋にいた頃から知ってる、物を食わずに酒を飲んでばかりのじいさんはまだ生きてるらしいが、例外か」
「そんな方もいらっしゃるのですね。かなり珍しいお人ですよ」
また蕎麦切りが差し出された。
榊原兵庫の末期の話をしている間は神妙な顔をしていたが、蕎麦切りを康二郎の前へ差し出してきた伊兵衛はどうにも楽しんでいるようにしか見えない。
「伊兵衛、ひょっとして、俺に食べさせるのを楽しんでいないか?」
「はい、楽しんでおります。いけませぬか」
あっさり認められた上に「いけませぬか」と笑顔で開き直られては、康二郎は二の句が告げなかった。
それにしても伊兵衛は医者になれるのではないかと康二郎は思った。康二郎からしたら、病気のことや怪我の対処法をよく知っている。助手には絶対なれる。金森診療所での伊兵衛の手際に康二郎は確信していた。
蕎麦切りを食べ終えたところで、口に出してみた。
「そうですね。中間奉公が嫌になったら、右堂先生に雇っていただきましょうかね。町医者の助手はかなり大変なようですけれども」
伊兵衛は自分の盛りの残りを口にしながら、そう答えた。
「大変でも、中間奉公より医者の助手のほうがずっと給金が良いだろう。そもそも伊兵衛のように頭の良い者が中間奉公というのが勿体ないのだ」
康二郎の印象では、鶴蔵より伊兵衛のほうがなにかと呑み込みが早い。機転もきくし、物覚えも良い。その上、腕っぷしも強い。その腕っぷしの強さも頭の良さからだと康二郎は感じていた。
そんな伊兵衛がどうして給金の安い中間奉公を続けているのか。だんだん康二郎は疑問に思うようになっていた。
伊兵衛は他に何もできないからだと言うが、康二郎にはもっと別の理由があるのではないかと思わざるを得ない。
そんなことを気にするのは、伊兵衛だけでなく、伊兵衛の妻子も康二郎は大好きだからだ。家族四人が年三両ほどの中間の収入だけで暮らすのは楽ではないはずだ。もっとできる伊兵衛であるだけにもったいない。
――それに……
康二郎には、起きてほしくないが、考えておかないといかないと思っていることがあった。




