プロローグ
ソールは場違いな場所に来てしまったことを、ひどく後悔していた。
彼は酷く薄汚れていて、近付く者がいれば卒倒しそうな程の異臭を放っており、周りの人々の衛生的で高価そうな服装と比べると、あまりにも見すぼらしいことを自覚してしまったからだ。
本当はもっと人の少ない場所に移動すれば、あるいはすれ違う人々の場違いな侵入者に対する好奇や冷たい視線を避けることもできたかもしれないが、彼にはそうする余裕もないほどに切迫詰まっていた。
数日のうちにはどうしても会わなければいけない人、いや、この場合は人々というべきか、がいたからである。
もっともそれはソールの一方的な使命であり、目的であったので、当然事前のアポイントをとったわけではない。
その証拠に彼は人々を何日も探し続けており、しかもその努力はけして報われることはなかった。
本来ならその辺の通行人なり露天商に、軽く尋ねるだけで達成できるくらいに尋ね人は有名過ぎたが、そうはならない理由があった。
エルタリス王国。
大陸でも有数の強国といわれる王国の首都オルデオンの目抜き通りともなれば、地方の田舎農民にはあまりにもかけ離れた世界だからだ。
往来する人々は貴族や有力商人、もしくはそれに連なる者が多数。あるいはそこまで至らずともそこそこの運や実力がなければ存在できないような特別な場所といえよう。
皆が皆、一目でそれとわかる一張羅か、もしくは地味でも清潔な身なりをしており、場違いで不潔な田舎者に構う時間を有していなかったからだ。
もちろん、ソールも通りすぎる幾人かに話しかける努力はしてみたものの、不快な顔をされて睨まれるか、もしくは露骨に無視されるばかりだった。
そのようなことを何十回となく繰り返せば、流石に精神的な疲労も蓄積されていくばかりだろう。
さらに彼を不幸にしたのは、オルデオンに到着した初日に大切な荷物を奪われたことだろう。
見すぼらしいお上りさんが田舎者丸出しで街中をキョロキョロとうろついていては、ひったくりに目をつけられるのは時間の問題だった。
そのようなわけで、彼の心は折れかかっていた。
食事も4日はしていない。倒れるのも時間の問題だろう。
ソールは小休止のつもりで路肩にしゃがんだが、立ち上がる気力が湧いてこなかった。
そのような状態で半刻が過ぎようという時、意識が朦朧とする中で誰かが話しかけてきたことに気付いた。
「そこのお前、聞いているのかii」
酷く苛立った男の声が彼の薄れた意識に話しかける。
なんとか開いた半眼の瞼の間に映った人影は、銀色の鎧を纏った警備兵だった。
初夏の熱気にやられて白髪を汗に濡らした警備の男は、さらに乱暴な物言いで、ソールに詰め寄る。
「小僧、お前のような薄汚いやつがいては、商売の邪魔だと近場の商人から苦情があった。即刻、ここから立ち去れii」
警備兵の迫力に動揺したソールはなんとか立ち上がろうとするが、しゃがんでいたのが尻餅をついただけであった。体力の限界なのだからやむ無しといったところか。
暑さのためか、あるいは不潔な少年への不快感によるものか、警備兵の寛大さは一瞬で消費され、次の瞬間には少年の胸ぐらを掴み取った。
「いい加減にしろ。お前みたいな小汚い餓鬼は裏通りから出てくるんじゃないii」
次の瞬間、ソールは突き飛ばされる。
『ごめんなさい。動けないんです』
そういいかけたソールだったが、唇の間から出た音は歯軋りよりも小さな呼吸音だった。
当然だろう。ほぼ飲まず食わずで街中を歩き続けた彼は、喋る体力も残ってはいなかった。
抵抗できない少年を蹴り上げようと、警備兵が右足を上げる。
衰弱してそれさえも認識できないソールは、朦朧とした意識の中で、自分はなんと愚かだったのかと後悔していた。
身分の低い人間の命の価値は低い。
そのような価値観を村の大人から聞かされてはいたが、平和な農村で生まれ育った彼には理解はできても実感できない感覚だった。
おそらくはこの後、理不尽な理由で半殺しいされるか、どうかしたら命を奪われるだろう。
警備兵の権限には、それだけの力があることを彼は知っていた。
ただの農民の少年に過ぎない自分が、村の救世主になるという夢想に取り憑かれて、奮起した結末がこれである。
聖王国は神の意向により、慈愛にあふれていると旅の神官がいっていたのをなんとなく思い出して神を呪おうとしたまさにその時、彼は曖昧な意識の中で運命の歯車のカチリという音を、聞いた気がした。
「暴力を振るうのはそんなに楽しい?」
澄み切った湖面を撫でる風を感じさせる、透き通った声がした。
最後の力を振り絞ったソールは、霞んだ眼で小柄な人影を認識する。
月光のように美しい金髪を太陽に反射させた人物が、その場にいることを確認したのを最後に、彼の意識は沈んでいくのだった。




