第107話 そんなはずないわよね、ずっと一緒の約束だもの
騒ぎの止んだ家の中で、タタタ……と音を抑えた駆け足で戸の向こうに誰かが近づいたようだった。音の小ささと軽さからして、それは魔人の女性であると分かる。そしてその後から重々しくゆっくりと近づいてくる男の足音があり、その主は続いて声を上げた。
「ルイだろ、開けてやれ」
…それは紛れもなくジャックの声だった。しかし、その響きには俺達が慣れ親しんだ軽快さが無く、斜に構えたような薄暗さの方が強く感じた。女性の方はジャックの言葉だけでは安心出来ず、「どちら様ですか…?」と怯えた声で戸越しに問い掛けた。
「ルイ・ネーロ。開けてくれ」
警戒が解けるとすぐに戸が開いた。すると、戸の向こうには下着が透けて見える薄い部屋着を身に付けた若い女性が立っていて、その背後からジャックが頭を掻いてのっしりと歩いてきた。タンクトップとトランクスだけのずぼらな格好をしたジャックはボサボサに乱れた髪を直そうともせず気だるくルイを、そして俺達を見る。先程まで寝ていたような姿の彼だが、その身体からは魔人の女性が発情時に発する特有のフェロモンを漂わせていた。
「…あぁ、レムか。久しぶりだなぁ…」
彼は酷く歪んだ笑みを浮かべ、鼻で笑うような声音で呟いた。その反応一つで俺達のことなどまるで興味が無いのが手に取るように伝わってくる。極めつけに彼は共に出迎えていた女性を引き寄せ、自慢するようにその腕に抱いてみせる。女性は満更でもなく頬を染めて微笑み、その様子にルイだけが呆れて溜め息を溢した。
「急に来ても何ももてなせねぇぞ。この家には茶の一つも無ぇんだから。来るなら先に言え。ったく、楽しみに水差しやがって…」
「お前、その格好どうなんだよ。人が来る来ないとか関係無しにだらしないぞ…」
文句を垂れるジャックにルイが注意する。この2人らしい光景だ。しかし、ルイの声には覇気が無く、ジャックは声も態度も荒んでいる。変わり果てた2人の、特にジャックの様子に、俺も隣のメーティスも口を挟めずにいた。
「あぁ?どうせお前しかこの家出入りしねぇし、お前以外は家に入れねぇからいいだろうが。つーかお前もずっと家にいりゃいいだろ。毎日毎日ほっつき歩いてよぉ」
「アウェイだっつってんだよここにいても。ちゃんとしろ、メーティスだっているんだから」
ジャックは鬱陶しそうに舌打ちして俺とメーティスを睨み、かと思うとまたヘラヘラし出してメーティスに詰め寄った。メーティスはそれに睨み返して一歩後退る。
「なぁメーティス、お前だって別に見慣れてるし平気だろ?お前からも言ってやってくれよ、こいつに」
「…ジャック、情けないよ。天国のキィマさんも泣いてるよ、そんなんじゃ」
ジャックはそれを鼻で笑った。メーティスは怯まず睨み続ける。
「何が情けないってぇ?…お前には関係無ぇだろ。俺がどう生きようが俺の勝手じゃねぇか。偉ッそうに言ってくれやが――」
彼女の平手に打たれてその言葉は止められた。街道まで音が響く程の容赦の無い衝撃にジャックは体勢を崩してよろける。ジャックはそのままの姿勢で皮肉に笑い、背後の廊下の先からは1人様子を見に来た女性がバスタオル1枚で此方を覗いた。
「だ、大丈夫…?ジャック…」
心配した傍の女性が声を掛ける。しかし、ジャックはそれを無言で後ろに押し退けてメーティスへと顔を上げた。楽しそうに笑う彼の様子に、メーティスは余計に苛立っているように見えた。
「レムの時には何も言わなかったくせして、俺にはビンタかよ。いや分かるぜ?レムが自分に甘えてきたのが嬉しかったんだろ?役得とか思ってたろ?だから何も言わず受け入れてたんだ。なぁ?」
「あなたなんかとレムを一緒にしないで」
「ハッ…いや俺もさぁ…こいつらが喜んでくれるからこうしてるのさ。俺も役得だからな。毎日楽しいもんさ。同じだよ…お前とな」
またメーティスの平手が飛んだ。ジャックは避けもせずにそれを受け、その勢いのまま壁に背中を打った。そしてずるずると滑って床に腰を落とし、ケラケラと笑い続けている。
傍にいた女性と、廊下の先からも1人が駆けつけ、ジャックを心配して声掛けや介抱をする。メーティスはそれにゴミでも見るような眼を向けると、サッと背を向けて俺を見た。
「…レム、私よだれ掛けとか色々必要な物買い足して帰るから、好きな時に帰っといて」
一方的にそう告げて立ち去ろうとしたメーティスに、「いや」と此方も反論する。彼女はピタッとそれに立ち止まると僅かに振り向いて待った。
「さっきルイに頼まれたことがあるからな、多分俺の方が遅く帰るよ」
「…別にいいでしょ。そんなのしなくて」
「俺がそうしたいんだ。…まぁ、先に帰った方がロベリアに訳を話すってことにしてくれ」
メーティスは了承も何もせず、ただ諦めたようにトボトボと歩き出していた。彼女が完全に去らない内から俺もルイに眼を配せ、彼はジャックの傍に固まっている女性達を引っ張って奥へと歩いていく。ジャックは俺と、嫌がって抵抗しながらも遠退いていく彼女らとを見て笑みを消し、「何の真似だ?」と低い声を上げた。
「久しぶりに会ったんだからサシで飲みに行くぞ。積もる話でもしようぜ」
「…ルイ抜きでか?薄情だなぁお前。大体酒なんざ飲んだって楽しかねぇよ。どうせなら女でも連れてきやがれ、女」
「いいから行くぞ。嫌がったって無駄だからな。無理にでも連れてく」
ジャックは舌打ちと共に立ち上がり、じっと俺を睨んだ。しかし、どうしても此方が引かないのを悟ると何も言わず渋々家の奥に戻っていく。裸同然の女性達が集まっているであろうため、俺が家の中に入ることは出来ない。ジャックが来るまで玄関で待つことにした。
ジャックはカーゴパンツを穿いてノロノロと戻ってきた。その表情に宿る不満は無視して、道中に見つけていたスナックへと先導していく。その間互いに会話は無かったが、彼が逃げることも無かった。
「…さて、どんなお説教かねぇ」
スナックでテーブルに着いたジャックは皮肉を言って椅子に凭れ掛かった。此方がそれを受け流して「何にする?」とメニューを差し出すと「水」と答える。仕方無くそれも無視して2人分のウォッカをロックで頼みスタッフを下がらせた。
「知ってるぜ、女と遊ぶのをやめろってんだろ。いつも文句言うんだよ、あいつ。けどな、お前が俺にそんなこと言う権利あるか?お前だって俺と同じ穴の狢だろ。いくらなんでもお前にこれをどうのこうの言われる筋合いはねぇぜ」
「俺はそうは思わないな。寧ろルイは、お前の気持ちが分かりそうな俺なら適切な助言が出来ると踏んで頼んだんじゃないか?」
「適切な、助言、ねぇ…」
ジャックはまたも鼻で笑う。そこへ手早くウォッカを注いできたスタッフが現れ、グラスを置いて立ち去るとジャックが肘を突いて身を乗り出してきた。
「じゃあ訊くがな、お前ならどうしてた?キィマを失って、その裏にあった苦悩にも気付いてやれなかった後悔の中、一番支えが欲しい時に気を許してくれる女がたくさんいたんだ。お前がその立場ならどうなってた?」
彼が訊きたいのは今の俺がどうするかではないだろう。実際に間違いを起こした、アカデミー3年期の俺だったらどうしていたかを知りたいのだ。俺は暫し視線を落として考えてからそれに答えた。
「…きっとその子達に縋っただろうな。一緒に遊ぶなり、面倒を見るなりして、楽しい時間をいつまでも過ごそうとしたはずだ。それで嫌な現実から眼を逸らせる。その果てに関係が深くなってしまっても、もう進むしか残っていない。関係を絶ってまで道徳を守るような真似もしないだろう。…そして女の子達もそんな行動を肯定してくれるなら、結果的に大勢と行き過ぎた関係を結んでしまうのも納得できる話だ。人間は弱ると盲目的になるものだし、加えて魔人に許された快楽は限られてる。…無理も無い話としか言えない」
「…あぁ、やっぱりそうじゃねぇか」
ジャックは一転して弱々しく笑い、俺から眼を逸らした。それでも俺が見つめ続けていると苦しげに彼も俺を見た。
「反論されたら言い返すつもりだったんだがな。こうもすんなり認められると肩透かしだ」
「…勘違いしないで欲しいんだが、俺はそれで正しいとは思わないぞ。お前だって間違ってるって自覚があるからそうやって反論に噛みつくんだろ。難しいかもしれないが、少しずつでも前進する気持ちは必要なんじゃないか?」
ジャックは求めていた反論を貰うと早速俺を睨んだが、言い返す言葉も無く口を結んだだけだった。…こう言っている俺は最終的に泥沼を抜け出して前進する努力をした者だ。そんな人間に理解され、正論を叩きつけられては無性に癪に障るだろう。だからジャックも何か言ってやらなくては気が済まなくなり、必死で言葉を探しているようだった。
「…甘えたかっただけじゃないんだよ。…俺は…そうすることで許される気がしてたんだ」
ジャックから飛び出たのはそんな不可解な言葉だった。全貌が見えず口を閉ざしている俺を一瞥し、彼は更に続けていく。額を手の平で押さえ、嘆くように枯らした声で弱々しく告げていく。そしていつからか気付かぬ内に、彼の頬には涙が伝っていた。
「…確かに…やることまでやってしまったのは、俺の甘えもある。けど、それは動機の半分なんだ。…もう半分は、俺があいつらにキィマの面影を見てたからだ。キィマはずっと悩んで、苦しんでた。俺は最後まで気付かず、遺書を見て初めて知ったんだ。どんだけ好き勝手してたのかって自分を呪った。…それで、ハールポプラで会ったあいつらも、まさに苦悩の只中にいたんだ。頼ってきた仲間を失って、人間達に居場所を追いやられて、行き場も無く震えてたんだ。俺はあいつらを苦悩から救おうとした。そうすることが償いだと思った。けどそのやり方が分からなくて、…俺は、ただ甘やかすことしか出来なかった」
ジャックは内側にある物を全て吐き出すような大きな溜め息を溢して、顔を上げることも出来ずその姿勢で固まった。俺は口を挟まずそれを見守る。
「…なぁ、どうすれば良かったんだ……?」
訊ねた彼の声は毒気が抜けて、脆くなった本心を体現するような弱いものだった。俺は立って伸ばした手を彼の肩に置き、ゆっくりと首を振った。彼は顔を上げる勇気も無く震えていた。
「…お前だけの責任じゃないよ。その子達もお前に甘えてしまったし、ルイもお前を放っておいてしまった。俺もお前に何も言わずポーランシャからレシナを連れ去ってしまって、弱ってる所を余計に心細くさせてしまった。…どうにもならない間違いなんてこの世にはありふれてるんだ。きっとお前1人が強くなったって、簡単に変えられることじゃなかったよ」
ジャックはまたポタポタと机上に涙を落とした。俺は彼の肩から滑らせた手で彼の右手首を掴む。困惑し顔を上げた彼の顔は濡れそぼっていて、額から離れた右手から肘へと流れていた涙の筋が俺の手に断ち切られた。
「だから、皆で話してみたらいいと思う。それぞれが変わろうと思えるなら、きっと今からでも変われるはずだ。時間は掛かるだろうしきっと揉めると思うけど、諦めなければ進めるさ。それに少なくとも、ルイはお前の味方になってくれる」
ジャックは眉を寄せて俺の言葉を噛み締め、小さく頷く。そしてゆっくりと腕を下ろし、俺の手の中を滑っていく。一瞬離れた彼の手が今度はしっかりと俺の手を取り、もう一度彼は大きく頷いた。彼は頼り無く笑ったが、その顔はちゃんと前を向いていた。
「サンキューな…レム…。少し、頑張れる気がしてきた。…そうだよな、諦めててもしょうがねぇよな…」
「ああ、そうさ。それにお前らしくねぇだろ、そんなの。いつもみたくアホみたいに突っ走る真っ直ぐなお前でいろ。そんなお前に俺も救われてたんだ。その子達もお前が変われば前を向いてくれるさ」
「おう、ありがとう…。アホは余計だ」
最後の最後でジャックが憤り、いつもの調子に戻った彼と俺は思わず同時に笑い出した。その後は静かにウォッカと軽食を腹に収めてすぐ店を出て解散となった。
結局、ジャックはまだ暫く彼女らと今の関係を続けるという。彼に言わせれば、役得は役得だから手放すのは惜しいらしい。…そして、間違っていたとしても今日まで彼女達と築いた絆の形だから、それを無かったことにしたり嘘にしてしまいたくないのだという。彼は俺とは違うやり方でけじめを取り、前へと進んでいく。それが上手くいくとは限らない。しかし、彼なら俺よりもずっと早く立ち直っていけるだろうと、それだけは確信できた。
宿の部屋に戻ると床に直接寝具が敷かれていて、メーティスも既に帰っていた。彼女とロベリアは、ワンピースの上から白いよだれ掛けを首に掛けたクリスを両側から挟むようにして寝具の上に座り、世話をするタイミングが来るまでじっとそうしているようだった。2人とも食事も入浴もせず、着替えたりもしていない。彼女らが買ってきた物の中にも服などは見当たらず、今後もそのままの格好でいるつもりらしかった。
「…今日は着替えたりしないのか?」
正面に向かい合って座り、そう訊ねてみると2人同時に頷いてロベリアが訳を話した。
「大丈夫だと思うけど、もし食事中やお風呂の時に宿を攻め込まれたりしたら咄嗟に行動出来ないでしょ?だからすぐ動けるように今日はこのままじっとしてよう、ってことになったの。そしたら別に着替えなくてもいいかな、ってなって」
「けど、それなら俺がずっと外にいたのはまずかったな」
「そうだけど、そうなっちゃったものは仕方無いし、飽くまで万が一に備えてのことだから。おむつ替えも流石にトイレでしてもらうし、そしたらどうせ隙は出来ちゃうからね。やらないよりマシって程度の対策だよ」
そうか、と納得して頷くと買い足された物が目につく。その内容は替えのおむつやナプキン、ゴミ袋の数々。…今ロベリアが話した予定に合わせて買ってあるということは、結局一旦宿に戻ってから買い足したのだろう。そうして状況を整理していた俺の様子を憂いと思い違ったメーティスは「どうしたの?」と声を掛けてきた。
「いや、別にどうも…」
と、そう言いかけてから思い直した。ルイ、ジャックと話をして、実は俺からも話しておきたいことがあったのだった。思いがけずきっかけができたので、此所で話してみることにした。
「…今日そうしたいってことじゃないんだが、少し考えたことがあってな。聞いてくれるか?」
その問い掛けに2人ともすぐに頷き、俺の視線がクリスを向いていると気付くと揃って彼女を見た。そうして注視されている彼女はそれでも一向に反応を示さず、虚ろな目で項垂れてよだれ掛けを汚し続けていた。
「…モルスムネに逃げ込む。これは決定事項だ。実際そうしないと永遠に危険と隣り合わせなまま逃げ回らなくちゃならなくなる。…ただ、それでクリスが完全に救われる訳じゃない。安心して過ごせる場所を作れたとしても、クリスが治らないんじゃ俺としては意味が無いんだ。だから積極的にクリスの心を取り戻させる必要がある。だからそのために、…もう一度クリスの記憶を受け取るべきだと思うんだ」
2人は俺の発言に目を剥き、「「駄目!」」と口を合わせていた。…クリスと交わること、それが記憶を受け取る条件だ。彼女らが否定するのは至極真っ当で、俺も殆ど駄目元で話していた。しかし、そうしてでもクリスの心情を理解することで確実に前進出来ると考えての提案であり、易々と取り下げるつもりはなかった。
「レム、忘れたの!?クリスと交わって記憶を受け取った兵士達は皆精神を病んで自殺したんだよ!?だからあんな鋼鉄のマスク被せられてたの!記憶を受け取るなんて、そしたらレムが死ぬことになるかもしれないでしょ!?そんなの絶対許さないよ!」
怒鳴るメーティスを宥めたりはせず、真っ直ぐ見つめ返してそれを聞き届けた。そしてまた、直後にロベリアが声を震わせる。
「…大体、レムくんはこんな状態の女の子相手にそんなこと出来るの?無理だよそんなの。物理的に出来ないと思う。それに、今はメーティスの彼氏なんでしょ?クリスさんとはそんな関係じゃないでしょ?そんなのは3年生の時にやめたはずだよ。それをまた繰り返すつもりなら今度こそ本当に許さないから」
2人の意見を聞いて、それでもなお俺は取り下げるつもりはない。もうそれ以上反対の意見も出ず室内が沈黙すると、此方からも意見を述べた。2人は変わらず俺を睨んでいる。
「…反対されるのは分かってたさ。それはそうだ。…けど、クリスを元に戻すにはそれが近道なのは確かだろ。だから俺はそうするべきだと言い続ける」
「けど…!」
メーティスがまた声を荒げ、俺は「ただし、」とそれを遮る。その後に続く発言に2人の眼から怒りは薄れ、大人しく聞こうとする程には態度が落ち着いた。
「お前達の片方でも反対している限りそれは絶対にしない。他の奴にもそれはさせない。そもそもを言えばクリスだってこんなこと望まないかもしれないしな。…これは、ただ俺が一個人として提案してるだけの話だ。だから強行する気は無い。それでもお前達が了解してくれるなら、俺はその日の内にでも実行する。俺自身の心にも深い傷が付くかもしれないが、その覚悟は既にしてるんだ。…後はお前達がどう感じるか、それだけの問題だ。少し考えて欲しい」
2人は首を縦には振らなかったし、何の返答もしなかった。俺もそれ以上は説得もせず、3人揃ってクリスを見つめて寝ずの夜を過ごした。クリスが何かを呟けばその答えを得られるかもしれない。そんな祈りを孕んだようにも見える沈黙の中、やはりクリスは物言わず唾液を垂らしていた。




