第106話 あなたに置いていかれて、私だけ入学して…
「…そっか、お前も逃げてきたのか…」
ルイは悲しそうに、しかし少しだけ安心したように笑って俺の横に並んだ。2人して何も無い公園の景色と、その上に果てしなく広がる褪せた青空とを眺めた。既に陽は沈みかけている。懐中時計を持っていたのに気乗りしなくて見ないでいた。此方から物を訊ねようにも彼は剰りに自失していて、立ち入ったことは発言できそうになかった。
「……ルイは、さっきまではどっか行こうとしてたのか?…別に公園に用事があった訳じゃないだろうし、通り掛かったんだろ?」
「…あぁ……まぁ…」
彼は心此処に在らずという風に適当に受け答え、かと思うと少し表情に力を戻して返答に悩んだ。暫く黙ってその横顔を見守っていると、また唐突に彼が口を開いた。
「…連絡所からの帰り道だよ。此処に滞在していても稼ぎネタが無いからさ、何か仕事が舞い込んで来ないか待ってるんだ」
「…ポーランシャの調査は…?」
「ポーランシャか…あそこには行きたくない。俺もジャックもごめんだ。それに、出来れば街を移らないで済む仕事がいいんだ。俺はともかく向こうはそう望んでるからな」
言いたいことは色々とあったが、まず先に『向こう』という言い方に引っ掛かりを覚えた。それが示す人物は単数とも複数とも取れたし、単数とするなら今ルイが1人で外に出ているのも気になる。もしキィマを失った今のジャックが悲惨な状態で、そんな彼を気遣う剰りにルイがこんなにも及び腰な態度になっているとしたらと思うと恐ろしかった。だから、その確認から始めることにした。
「…向こうってのは、ジャックのことだよな?…街を移りたくないって、やっぱりそれだけ気が滅入ってるってことだろ?」
「え?」
ルイは虚を突かれたように目を丸くして振り向いた。その顔を見て、嫌な予感は一先ず拭えたので思わず安堵の息をついた。
「…何だ、違ったか」
「まぁ、気が滅入ってるって言えば確かにそうなのかもしれないけど、一応元気だよ、あいつも。うん、ある意味じゃ元気さ。…『向こう』ってのは、…そうだな…ジャックと、もう数人旅の連れが出来たからその子達のことさ。その連れの方の事情を意識するとな、なかなか他の街にも出られないんだ」
「連れ…?…誰だよ、同期と再会でもしたのか?」
フッと自嘲気味に笑ったルイの返答より早く、そこへ急ぎ目に駆けてくる足音が届く。驚いたルイがバッとそちらへ振り向き意識を尖らせているのを、
「ロベリアだ。買い出しに出てくれてたんだよ」
と宥める。しかし、ルイの表情からは絶体絶命の緊迫感が消え去らず、彼は呼吸を殺したまま微動だにしないでいた。…余程彼の心を脅かす出来事があったのだろうと思いやる。元々この数ヶ月は各地で魔人を対象にした騒動が起きていたのだ。彼らがその巻き添えにあったであろうことなど嫌でも察しがついてしまう。
ルイが現れたのとは反対の方向から路地を走ってロベリアが現れた。俺の発言に耳を貸していなかったと見えるルイは今になって胸を撫で下ろし、しかし違和感に気付いてか急に怪訝な顔を俺に向ける。ロベリアは話せる距離まで来ると残りを歩いて近づきながらルイを見て訊ねた。
「…そっか、ルイ達もこっちに来てたの…。ジャックは?宿か何処かで待ってる?」
彼女はどうやら俺に訊ねていたが、丁度俺からも同じことを訊いていたのですんなりルイが答えてくれた。
「女の子達の家で遊んでるよ」
彼の返答は彼女の足を困惑で止まらせ、俺の言葉を失わせた。彼はその反応を責めと受け取ったように自虐的に笑っていた。
「もう2ヶ月近くその調子なんだ。俺は邪魔だから今日も締め出されてる。仕事探しも散歩も単にその時間を凌いでるだけさ」
ロベリアは絶句して彼を見つめ、その内気を取り直してメーティスの下へと向かっていくまで無言を貫いた。…俺も彼への返事に迷っていた。状況が明確に掴めていないし、それを無遠慮に質すことも出来ない。下手なことを言っては却って話が拗れかねないと考えると無言が吉と思えた。
しかし、彼はやはり何か言って欲しかったのだろう。公衆トイレに大きな買い物袋を持ち込んでいったロベリアを見送った彼は、そうして身を捻ったままの姿勢で俯いてポツポツと事情を話してくれた。トイレからは「持ってきたよ」「ありがとう」と短いやり取りと戸の開閉音の後、紙と布の擦り音が小さく続いて聞こえていた。ルイはそれが気に掛かって視線を入口に向け続けている。
「…俺達がハールポプラに帰ってすぐ…魔人への迫害が激化したんだ。…タイミングが悪かったからだろうな、2人揃って実家から追い返されたよ。けど外を出歩いてるだけで白い目で見られるし、路地裏で過ごしてても柄の悪い連中に絡まれるしで野宿もしてられなかった。仕方無いから毎日宿に泊まってたんだ。けど、リサーユ大陸の魔物と戦うなんて無謀だし、アムルシア大陸の薬草刈りみたいな仕事も無かったから金がどんどん無くなってって…。…そんな時、同じように途方に暮れた女の子達が身を寄せ合ってるのを見掛けたんだ」
トイレから物音がしなくなった。もうおむつも穿かせ終えて外へ出る準備は出来ていたのだろう。しかし今彼女達が動き出すと、きっとルイは話をやめてしまうという予感があった。俺も彼女らと同じように静止して、彼の語りに些細な脱線も起こさないよう気を付けていた。彼はそれを理解してか否か、漸く此方に顔を向けた。
「彼女らのパーティは徒党を組んでリサーユ大陸の魔物達と戦った。だけど当然歯が立たず、男達が勇んで時間を稼いで何とか彼女らだけは街に帰り着いたんだけど、それから幾日と待っても男達が帰ってこない。…彼らが生きているはずがないのは誰もが理解していたんだ。だけど、だからと言って街を移ろうなんて誰も言い出せないし、移った所で自分達ではまともに戦えない。彼女達は皆、ずっと男の陰に隠れてやってきたから自分達だけで戦える自信が無かった。そこへ来てジャックが妙に面倒を見に来るもんだから、彼女らも縋りたくなったんだと思う。その内1人、また1人、ジャックに甘えるようになっていって、あいつもそれを拒まなかった。…そして遂にお互いの懐が苦しくなったのを打ち明け合うと、ジャックが街を移ろうと、女の子の1人がパンジャの出身だと言い出した。彼女らが武器を売った金で海を航って、今はこうして隠れて生活してる」
「…パンジャの子の実家では、…問題は起きなかったのか?お前らみたいに追い出されたりはしなかったのか?」
「家族は誰もいなかったよ。理由も分からないまま。…まぁきっとツェデクスに拐われたんじゃないか?何処でも誘拐は立て続いてたんだから、別に不思議でもないよ。何かあればまた新しく部屋を探すさ」
漸く出てきた俺からの質問にもルイはあっさりと答えた。それは決して易々と話せるような事情ではないはずだが、俺達への信頼なのか現状への諦めなのか、全く包み隠す気配もなくペラペラと打ち明ける。家族を失った女の子に対する同情の念すら、彼の態度からは感じられない。
ルイが口を閉ざして静かになると、一拍子置いて2人の足音がトイレから反響してくる。買い物袋とは別にクリスが来ていた患者衣と木製のおまるとを閉じて持ち手を縛ったゴミ袋を提げたロベリア、続いてニットキャップと丈の長いワンピースに着替えさせられたクリスを背負ったメーティスが現れる。ワンピースの尻はおむつのせいで大きく出っ張っていて、その違和感は外から見て明らかだった。ルイはゴミ袋と変わり果てたクリスとを交互に見ると呆気に取られて目を見張っていた。メーティスが顔を背けてルイに向かう横で、ロベリアはゴミ袋を捨てようと辺りを見回す。船長からは患者衣もおまるも古い物だから処理に困れば捨てていいと言われていたが、それでも彼女がこうも思い切るのは柄に合わない。余程それらが汚物に汚れていて持ち運んでいられなかったのだろうと納得したが、彼女がクリスを嫌悪している可能性も有り得て気持ちが沈んだ。
「…ルイ、俺達も酷いもんだったよ。お前が見てきた地獄とは違うけど、自信を持って地獄だったと言える現実を味わった。…だから、俺は今お前にこう言っておきたいんだ。『そんなに悲観していても変わらない。見渡す限りの地獄なら、闇雲にでも前に進もう。その先には良くも悪くも変化があるはずだ。絶望するならとことん絶望してやれ。どうせ最後は死ぬだけだ。死ぬまで走ればスッキリ逝ける』ってな」
ルイは俺の言葉を邪険にはしなかった。しかし素直に聞き入れられず、ゴミ箱から買い物袋だけ持って戻ってきたロベリアを見つめながら、
「全員がお前みたいに素直に生きられると思うなよ」
と冷たい声で言い返した。そして今一度、メーティスの肩に唾液を垂らして目の焦点も合わないでいるクリスを一瞥する。
「…宿行くだろ?案内するよ。ついて来てくれ」
そうして先に歩き出した彼の後を俺達は口も利かずに追い掛けていく。彼の歩く通りは舗装されていながら的確に人目を避けていて、それが世間に対する小さな反抗にも思われた。
「…さて着いた。ここだよ」
ルイは宿の前に立ち止まるとそう告げて俺に振り向いた。伝統的で奥ゆかしい木造の建築物や、その屋根を埋める珍しい形の煉瓦群には一見の価値があるものの、浮かれる者は誰もいない。ルイは役目を終えたとばかりに歩き出し、此方が礼を言うのも待たずに俺の横を通り過ぎようとしていた。そこへ、ずっと黙りがちだったメーティスが声を張って呼び止めた。
「待って。折角だし挨拶していきたいから、家まで案内して」
「…別に、わざわざ家に来てまで挨拶しなくていいよ。船旅で疲れてるだろ?時間を教えてくれれば明日見送りくらいするし、ジャックも連れていけたら連れていくさ」
「ダメ。そしたらルイ、絶対連れてこないでしょ。ちゃんと会いに行くの」
ルイはきょとんと目を丸くして驚くと、「…何か信用されてないなぁ」と苦笑いして身体ごと振り返った。諦めたような溜め息と共に両手を腰にやった彼は、何処か嬉しそうに見えた。
「分かったよ、待ってるから早くチェックイン済ませてきてくれ。そろそろ日が暮れるしここは人目につくんだ」
ルイは急かすように宿へと顎をしゃくった。それに頷いた面々で急ぎ足に宿に駆け込み、俺が代表して受付に向かう。その間に後方ではロベリアからメーティスに相談を持ち掛けていた。
「クリス…さんのことは私に任せて、レムくんとメーティスで行ってきて。私は別に会えなくてもいいし、どっちみち誰かが残ってないといけないだろうから」
「……あぁ、うん。そうだね。じゃあクリスのことお願い。ロベリアの分もよろしく言っとくね」
公の場所で『クリスティーネ』と呼ぶのはまずいと気付いて咄嗟に呼び方を変えたのだろう。そうして決まると同時に俺も鍵を渡され、一旦3人で部屋まで荷物を運び込んだ。畳というらしい草を編んだ床で出来た部屋で、独特の青臭さがあるが寝転び易い環境だった。早速ロベリアはクリスを壁際に寝かせてその傍に座った。その場から手を振って送り出す彼女に頷き返し、駆け足でルイが待つ外へと向かう。
ルイには特に変わった様子も無く、それほど待たせずに済んだようだと息をついていると、「じゃあ、行くぞ」と彼はスタスタ案内を始めた。黙ってその後をついて歩いていると、道中で不意に歩速を下げて俺の横に並んだ彼が訊ねてきた。メーティスは我関せずと後方に控え、男2人の会話をただ見守る。
「クリスティーネの噂はこっちでも色々耳にする。何だか、極悪非道の色情狂みたいな話で通ってるよな。…本当はどうだったんだ?」
「…俺達がレシナを連れてポーランシャから脱走した時のこと、お前らはアカデミーの方で真相を聞かされたんだったよな。それならクリスがツェデクスに誘拐されたことや、そこで子供を身籠らされたことも知ってるだろ?……クリスは完全に被害者だよ。悪い噂だって全部大臣が流したデマだ。一から十まで話すと長いし、その割には実りも無い。…だから、クリスは世間の犠牲になっただけだってことだけは分かっててくれ」
「…ああ」
ルイは小さく頷くと前方を虚ろに見据えた。そして頭に浮かんだそのままを口にしたように、「…レシナか」と何の意図も無く呟いていた。俺は彼を一瞥すると、同じように前を向く。
「…先日ツェデクスがアムラハンに攻めてきた時、リードの側近としてレシナも現れたよ。…最期の言葉、聞いとくか?お前宛なんだ」
視界の隅でルイが返事も無く目を細めた。拒絶が無いのを了解と受け取り、此方で勝手に話を進める。
「『ごめんなさい』ってさ。…要らない世話かもしれないけど、あいつは確かにお前を愛してたと思うよ。俺はそう感じた」
「…それは、どうかな…」
ルイは寂しそうに笑って首を振った。
「俺は…レシナが死んだって聞かされた今、別に悲しいとも思わない。俺が知ったつもりになっていた彼女の姿は全て偽物で、俺も別に彼女に何かを与えられた訳でもなかった。だから、俺に悲しむ権利があるかどうかも分からない。…それに、俺は元々、何だかんだ言ってクリスティーネを諦める口実にレシナと付き合っただけだった。始まりから間違ってたんだ。それでも数年連れ添って想いは本物になったと思っていたのに、結局あんなことになって…。…俺はあいつに、愛されてただなんて思えない」
それは謙遜でも何でもなく、ただの否定だった。レシナと深く関わってきたのはルイの方だ。そのことに俺が主観を押し付け過ぎてはならない。彼が否定するのであれば俺にはそれ以上強く言えることはなかった。…しかし、それでも俺はレシナのその後を眼にした者として、事実だけは伝えておこうと考えていた。
「…レシナの作り笑顔に命を吹き込んだのはお前だよ。けど、いずれ裏切るはずだったお前を相手に罪悪感を覚えて、レシナは他の男のようには媚びた演技が出来なかった。だからお前との関係を言葉少なに身体で繋ぎ止めるしかなくなった。それが、あの時のお前達の擦れ違いの正体だ。…レシナとお前との間には、少なくとも何かがあった。何も無いなんてことは絶対に無い」
そうして言い切ったが、ルイはそれに反論も同調もしなかった。寧ろ益々俯くような加減になり、他者の意見を拒絶するかのようだ。俺もそれ以上は下手に告げられず、
「…まぁ、俺からはそんなところだな」
と切り上げるしかなかった。またそれぞれが黙り込んで静かになると、少し経ってまた急にルイが微笑み掛けてきた。
「…散々だよな、俺もお前も。…真剣だったはずの恋路の終点はどちらも奈落だった。俺はレシナを理解できず裏切られて、片やお前は廃人になったクリスティーネと逃避行。何処まで逃げるつもりか知らないけど、仮に二度と捕まらないにしたって一生廃人の世話をしなくちゃいけない。その一生が永遠になるかもしれない。ましてやそれが最愛の人だなんて、俺ならきっと正気でいられないだろうな。…もしそれを貫けるっていうんなら、それはもう……」
「…いや、俺にはメーティスがついててくれるからな。今の俺にとって最愛の人はメーティスの方だ。だから、まだ絶望なんかしてないよ。2人で支え合っていければ永遠でもやっていける。そしていつかは元のクリスに戻してやれる。そう信じてるんだ」
彼の言葉を遮って告げると当然ルイは驚いていた。…しかし、あれだけ執心していたクリスからあっさり乗り替えてしまっている俺を軽蔑してだろうかと考えたが、そうではないようだ。
彼は変わらず笑みを浮かべて俺とメーティスを見た。そして一言告げる。それは遠慮など一切無く彼の本心を述べたに過ぎず、誰を傷付けようと構わないとする鋭さを放っていた。
「廃人を女として見れなかったんだろ。けど、そうだとして、今なおお前がクリスティーネを救おうとしてるその執念は生半可な想いでは成り立たないはずだよ。それはもう、男女の愛なんか超えた感情なんじゃないか?」
俺は彼に何の返答もしなかった。それを肯定するのはメーティスとの絆を否定することに思え、しかし否定するには剰りにも釈然としてしまう意見だった。それらを認めようとすると、俺はクリスとメーティスの両者を愛しているとでもしなければ自分の心に納得がいかず、深入りすると何も分からなくなりそうで恐ろしかった。振り返って見るも、メーティスは俯いたまま何も言わない。その態度はまるでルイの言葉を否定出来ず、必死で眼を反らそうとしているかのように見えた。
ルイは悩む俺を少し眺め、フッと笑って仰ぐ。すっかり暗くなって星が散らばる空を見上げながら、染々と彼は呟いた。
「何だかもう最底辺まで転落して悩むことなんか何も無いってくらい絶望してたつもりだったけど、…案外話せばまだ楽になるもんだな。悩むのに疲れてただけかもしれない。何にしても、またお前と話せて良かったよ。幾らか救われた気分だ」
「…そうかい。それはまぁ、良かったよ」
一先ず、俺は彼の言葉を聞かなかったことにした。今こんなことを悩んでいても仕方無い。モルスムネに辿り着けたなら後から悩む時間など無限にあるはずだ。今自分に疑問を持ってしまってはあらゆる行動に自信を持てなくなってしまう。それだけは回避しなければならなかった。
「…ジャックとも話してやってくれないか?あいつは、俺よりもずっと苦しい思いをしてるはずだから」
ルイは寂しそうな笑みを浮かべてそう頼んだ。俺がそれに直ぐ様頷くと、ルイは今日1番に安心した顔で息をつく。そして突き当たりの角を曲がっていくと、ルイは住宅の内の1軒を前に立ち止まった。
辺りのひっそりとした空気に反してその小さな2階立ての家からは女達のさざめきが絶えず、その声の一つ一つが甘えた響きを醸していた。ルイは一度俺を見つめると、「頼むよ」と念を押してから大きく手の甲で正面の戸を叩いた。




