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第100話 ごめんなさいちゃんとしますおねがいですこわさないで

 逃亡した2人とイシュルビアについて、誘導済みの報告を通信機で発信し、俺はそのまま仕事を中断した。このまま続けられる心境にはないし、マカナに墓を作ってやりたかった。俺はイシュルビアと共に人の出入りが無い森を探し、その奥で目についた樹の根元にマカナを埋葬した。そしてその上に、墓石にするには小さすぎる石を乗せて会話も無く拝んだ。

 …魔人は往々にして街の外でひっそりと死に、遺体も溶解して魔物に変わってしまうため人間のような墓理法が適用されていない。戸籍についても、情報の管理が難しいためにアカデミー卒業時にほぼ抹消されてしまう。…その延長で、魔人同士の間に産まれた子には人間の法律が適用されない。これは一重に、人間達の偏見のためにそうした子が人間として扱われず、法律が追い付いていないことによるものだった。そのせいで、マカナは野良猫のように供養されるしかなくなっていた。

「…私、街を出ます…」

 彼女は唐突に告げた。思い詰めていた俺は少し返事が遅れ、「…何処に行くんだ…?」と暗い声で訊ねた。彼女の声にも覇気は無かったものの、開き直ったような異質な明るさが伴っていて、幽霊を相手にしているような薄ら寒さを感じた。

「何処へも…。故郷に帰ろうかとも思いましたが、…マニ大陸にはどうしても戻れませんので…。行く宛も無く外を歩いて、私を殺してくれる何かを待つことにします…」

 彼女は暫し俺の返答を待って、口元だけを笑わせた冷たい顔を一度だけ俺に向けると、そのまま何事も言わずにゆっくりと立ち去っていった。

 …俺は彼女を引き止めなかった。生きろと、絶望するなと、そう焚き付けるべきなのだろう。しかし、それが本当に正しいことなのか、俺には信じられなかった。彼女が死を選ぶのを真っ当だと認めてしまう自分がいた。苦痛に満ちたこの世に無責任に永らえさせるのは、独善としか思えなかった。

 …だからだろうか、俺は、クリスを死なせてやるべきかとも考えてしまった。救い出した後の彼女が、生きていても幸せになれないのなら、…俺は彼女と共に死のうと……。…しかし、そんなことは出来ないことに気付く。彼女が死ねば皆死ぬ。全人類の命を奪わなければ、彼女を死なせてはやれない。…彼女も、そんなことは望まないと思う。…本当に子供が産まれでもしなければ、彼女はこの地獄に生きていくしかないのだ。

 俺が死生観を改めている内に名簿は全て埋まっていた。俺は通信機に連絡があった通りに武道場に駆けつけ、避難してきた魔人達の前に列を作る教員達に合流した。列の端に立つメーティスの横に並んで、校長が今後の対応について話しているのを聞くともなしに聞いていると、メーティスは俺の顔を盗み見て表情を曇らせた。

 マイクの計らいで早退を許された俺は、同じく寮へと戻ったメーティスの部屋へと押し掛けた。メーティスは何も訊ねず、俺の甘えを拒まなかった。彼女の胸に顔を埋め、必死にしがみついて泣きじゃくった。陽が夕暮れに傾くまで、彼女は俺を抱き止めて言葉少なに慰めた。


 6月20日、予てより伝えられていた報告会への参加を許された。反乱分子である俺にそれを許したのは、おそらく情報を与えた際の反応が見たいのだろう。それによって俺が脅威か否かを判断したいのだと考えられる。そうだとすれば、ここは正直に、本心を包み隠さず反応すればいい。下手に隠したり、出し抜こうとしても暴かれるだけだ。ならば馬鹿正直に敵意を剥き出してやればいい。どのみち、今の俺に演技をする程の理性的な気力は無い。

 報告会は応接室を利用して行われた。アカデミー側からはマイクと俺が、研究所側からは医師シノアと所長ユニフェス、そして光の守護者ヨヒラが、対するようにソファーに着いた。アカデミー側の状況報告はマイクが先んじて簡単に済ませ、質疑応答も簡要に進め、直ぐ様研究所の報告が始まる。元々顔色が良くなかったユニフェスはともかく、シノアは見るからに痩せ細って目の隈が濃くなり、髪の毛はパサつき、白衣の胸ポケットには何らかの常備薬と思われる物の小瓶が覗いていた。…それだけに、他人事のように他所を向いて肘掛けに凭れているこのヨヒラという男が気に入らなかった。

「では、まず私から……いえ、………被験体lb-01の、身体的精神的な変化の報告を致します。此方の資料をご覧になってください」

 シノアはそうして厚い資料の束をマイクに渡し、気まずそうに俺を見つつ進めた。…シノアが悪くないことは分かっている。クリスの呼び名を言い淀んだのも分かる。飽くまで実験的に俺をこの場に参加させているだけで、資料まで開示する許可が下りていないのも当然分かっている。…今感じているこの苛立ちは、彼女の言動を支配しているであろうユニフェスへと向けられていた。

 俺の内心はさておきシノアは資料の流れに沿って話を進める。マイクはそれに伴って資料を捲りながら首肯を挟んで聞いた。この話の間、ユニフェスは苛立ったようにこめかみを震わせて微笑み続け、ヨヒラには感情を遮断したかのように表情が無かった。

「現在、被験体は極度に精神薄弱な状態に陥っており、半植物人間と評して相違無い状態にあります。…ですが、劣悪な環境下で危害を加えられないよう、自分を守るようにと無意識に心が身体に働き掛けている様子も見られます。自律神経は乱れきっていますが、代謝だけは異常に良く、生理的現象は食事や就寝の時間内に集約するようにコントロールされているようです。…ただ、これは言ってしまえば自己防衛以外の思考が全て欠如していて、人としての感情など少しも残っていないことに……。…本来の身体構造上体重が減るはずのない彼女が、外見の変化も無く減量しています。推測の域を出ませんが、…おそらく質量を失ったのは脳――」

「先生、私情を研究に持ち込まないようにお願いします」

 ユニフェスはシノアの言葉を遮った。俺はその瞬間怒鳴り出しそうになった。しかし、マイクは即座に腕で俺を制して「どうか続きを」と促した。それからすぐにシノアの報告が再開したので、俺はまたソファーに腰を落ち着かせた。

「…先程代謝についての話がありましたが、それについては他にも不可解なことが起きています。被験体は魔人同様に老廃物が発生せず、老化も起きないはずでした。…しかし、この1週間の間ではそれが覆っています。採取された汗からは電解質やミネラルなど、人間のものとほぼ同質の成分が検出されていますし、食事分以上の排泄が確認されたりそれが無臭で無い場合があるのも腸内の老廃物が排泄されていることが原因とされました。他にも異常が多々見られ、それらを総合すると、被験体は人間の肉体に近付きつつあるようです。…このようなことが起こった理由について確実な検証は出来ませんが、被験体には元々強い意思を持つことで自身の肉体を変化させる機能が存在していたと文献に記述がありますので、…おそらく、人間になりたかったのではないかと思われます。…もし、生殖器系の機能も人間のものに戻るのであれば、……それは、この研究の糸口には、なると思います…」

 彼女は言葉にこそしなかったが、その不本意さをあからさまな程態度に示していた。ユニフェスは最後の部分だけを切り取ってうんうんと満足そうに頷く。不格好な愛想笑いが絶えなかった彼は、その首肯でのみ心から笑っていた。…心を無くした科学者め。

 続いて、彼女は資料とは別に鞄から封筒を取り出し、その中身を俺にも見えるようテーブルの上に広げて伸ばした。…それは、クレヨンだけで描かれたおぞましく不気味な絵画だった。全体的に灰色染みているその絵には、四方八方から乱雑に色を混ぜたような手が無数に伸びてくる鉄格子の中で、此方を向いて体育座りをしている赤黒い女の姿がある。…それが女であると判断出来た材料は、その曲線的な身体の輪郭と、僅かに描かれる乳房の膨らみのみだった。…その顔は、ただ見ただけでは中心に黒い穴が開いた真っ赤な楕円としか分からない。しかし、何か脅迫的な雰囲気を醸してやまないのは、その意味不明な顔の部分だった。

「…被験体が一応の人格を所有している状態を狙って描いてもらった自画像です。…アートセラピーではなく、単純に精神状態を測る目的で行いました。その絵1枚に、現在の被験体の心情の全てが描き出されているように思います」

 俺は怒りや悲しみなどの簡単な感情では表せない息苦しさを覚え、絵の中の彼女をじっと見つめた。マイクも言葉を失っていて、俺は彼に代わって質問を投げ掛けた。俺が反応を示したのでヨヒラが眼を光らせたが、その内容を知るなり興醒めたように他所を向いた。

「…この、女性の顔……これは、上手く書けなかっただけですか…それとも……何かメッセージが……」

「…女性器を、模して描いたようです」

 彼女の返事に、俺は気を失い掛けた。マイクは両手で口を押さえ、数秒掛けて何とかその吐き気を食い止めると、涙目で喘ぎながらシノアの方を向いた。シノアは瞳を潤ませてその絵を撫で、「もう、改善は出来ないでしょうね」と震えた声で告げる。…諦めというより、自虐のようなニュアンスだった。俺達が気持ちのやり場をどうすべきか途方に暮れている中、ユニフェスは呆れた顔で鼻で笑い、

「私は意味がないから他の仕事をするようにと言っているんですがね」

 俺はユニフェスの首を絞めようと飛び掛かった。しかし、それはマイクに掴まれ、ヨヒラに阻まれて未遂に終わる。ユニフェスは目を見開いて冷や汗を垂らし、怯えた様子で此方を凝視した。

 シノアも驚いていた。俺の行動というより、魔人が本気で攻撃を仕掛けた時の超人的な動きへの純粋な驚きだろう。そのお蔭というのも妙だが、殺伐とした俺達の空気とは異なる感覚でいる彼女は何事も無かったようにそのまま続けた。

「…被験体の心は、傷つかずに済む場所を探しているかのように絶え間無く、人格を交代してはその度に削除してきました。そしてそれにも疲れたのでしょう。とうとう与えられる行為や刺激に、求められる反応を機械的に繰り返すだけの存在になってしまいました。知能レベルも極々低い水準まで低下していて、食事も満足に行えない状態です。…ここからは、ユニフェス所長に引き継ぎます」

 それは決められたリレーだったのだろうか、それともシノアにはこれ以上は限界だったのだろうか。突然の橋渡しにユニフェスの愛想笑いはぎこちなく累減し、つまらない顔をしてシノアから資料を奪うと淡々と報告に移った。真面目に報告を進める彼の眼には研究者としての誇りや情熱こそ見えても、1人の女性の人生を台無しにしていることへの苦悩など決して見えなかった。

「…研究の進捗は思わしくありません。出産の様子も無ければ、出産に必要な生殖機能を誘発する術もまるで見えてきません。先程サクレピオス女史の申しましたようにlb-01には人間化の兆候が見られていますが、それだけでは人間の子供が産まれてくるのみで何の意味も無い。重要なのは光の血を継承し、その力を発現出来る子供を儲けさせることです。lb-01が人間に近づいていることが、そのまま問題の解決に結び付くなどと楽観するべきではないでしょう」

「クリスのことを何だと思ってる」

 その言葉は何の衝動も伴わずスルリと口をついて出た。怒りを露にするのにも疲れてきたのか、こういう人間に何を言っても意味が無いと諦めたのか、俺は特に何を思った訳でもなくそれを呟いていた。慌てたマイクは「口を慎め」と即座に窘め、ユニフェスはピクリと目尻を上げて口元に微笑みを湛えて次に進む。シノアは自らを責めるように俯いて膝の上の拳を握った。

「…と、それだけが問題ではないのです。現在何よりも注視しなければならない問題というのが、交配に起用している兵士達が次々と自殺していて、定時交配の流れを中断しなくてはならなくなったことです。…アカデミーの方々ならご存知と伺っておりますが、lb-01はオーガズムの際に交配対象者に自身の記憶を与える性質を持ちます。これは光の神が性的行為に対する不理解を克服するために自身による意味付けを行った名残が遺伝しているものと考察されていますが、とにかく、この性質のために兵士達は記憶障害と精神障害に陥り自殺へと向かったものと思われます。…これについては一刻も早く対処を行わなければなりませんので、現在応急的に解決する用意を進めています。此方についての報告は後日改めてお送り致します」

 …この男は本当に何も感じないのだろうか。クリスが経験している地獄に、それを記憶として受け取っただけで自殺していく男達…。それを現実の光景として誰よりも今直視しているはずのユニフェスは、思考停止に陥ったかのようにその本質への接触を根元から回避している。この男は、それを理解出来る頭を持っていながら意図して見ないように生きてきたのではないか…。そう感じると、俺はユニフェスに対して哀れみと殺意の両方を強烈に抱いた。

「このように研究の方は非常に難航しているのですが、そのため現在は別件の考察も同時に進めています。…それは、lb-01が誘拐時に身籠ったとされているリーベルという魔物についてです。この件は当然LB計画に大きく関与し得る実例となりますので、この魔物を便宜上lb-02として研究に絡めた考察を行っているのですが、肝心のサンプルが既に消失していますので此方も確実なデータを取ることが出来ずにいます。…とはいえ、予測そのものは立っています。…資料の23頁を」

 ユニフェスの指示の下、マイクは躊躇い気味に資料を捲る。…別に俺は知りたくもない。リーベルを魔物呼ばわりするだけに飽き足らず、サンプルとまで呼ばれた。確かにあの子は人の姿をしていなかったし、誰からも望まれず、俺とクリスすらも救うことは出来なかった。…しかし、その過程の一部すら見なかったこの男にこのような扱いをされる謂れは断じて無い。

「そもそも魔人同士の交配による妊娠では、遺伝子中の魔因子を母体が吸収していることで人間の胎児が産まれます。これは母体が胎児を別個体と認識し、魔因子を自分の物として留めておこうとする効果による現象であり、この過程で運良く肉体崩壊を起こさなかった胎児だけが生を受けます。…この発見は実際に魔人による出産に立ち会ったサクレピオス女史によるもので、やはり検証は不可能なもののある程度理論上の確実性は保証されています。…では、魔人と、光の血を持つlb-01との交配で産まれた場合どうなるのか…。これは飽くまで予想でしかありませんが、母体となるlb-01の胎内に魔因子を持つ胎児が現れてくると、光の血は敵対する魔因子を浄化しようと働き掛けます。その結果、胎児は光と闇の融合により超生物的な要素を授かることになります。それがあの姿であり、肉体の大部分が生物を超越したことの現れとして生殖器や排出器官の消滅も起きたのだと考えられます。…つまりlb-02は、区分的には『魔物』ではなく、それとは別に生物を超越した新生命体ということになります」

 …科学者としてはさぞ面白いのだろう、ユニフェスは口調だけは取り繕いながらも段々と鼻息を荒くして楽しそうにそんなことを語った。本人もそこまで話してそれを自覚したのか「失礼…」と咳払いをして話を元に戻した。これには俺もマイクもシノアも、彼を軽蔑するしかない。…ふと見ると、ヨヒラすらも白い目でユニフェスを睨んでいる。…ヨヒラの立場が俺にはよく分からなかったが、ユニフェスを全面的に支持するような存在ではないことだけは分かって少々安心した。

 ここで、ユニフェスは「レムリアド・ベルフラント様」と俺に呼び掛けた。わざわざ名指しで顔を向かせた彼を怪訝に思っていたが、その疑問は早々に晴れる。彼はこの後の話を、他でも無く俺に聞かせたかったのだ。

「この考察について、lb-01での検証は不可能です。…しかし、似た条件で確認することは出来ます。…召喚師というのはどうやら光の力を依り代にしているそうですね。それはつまり、lb-01と形は違えど、その身に光の力を宿していることには代わり無いということです。…分かりますか?魔人の男と召喚師の女であればその条件で検証が可能なんです」

 …冷めていた心に、再び憤怒の炎が回る。真っ直ぐ睨んだ俺を前に、ユニフェスは愛想笑いをやめて蔑むような眼を向けた。ヨヒラとマイクが共に俺を凝視して身構える中、シノアだけは俺と同様に眉を寄せてユニフェスを批難する。ユニフェスは彼女のことは構わずに、また淡々と口を開く。

「不思議なことにその事例について報告が無いんですよ。魔人が死産ばかりだからと誰も試さなかったのか、それとも隠蔽されたのか。ですから、これは大きな発見となるわけです。あなたも歴史に名を残せますよ。……報酬は弾みます。lb-01への協力にもなる。それに、聞けばあなたとメーティス様は交際しておられるのでしょう?いずれ子を授かることになるというのであれば、これに乗じては如何ですか?産まれるのが人の子であれば良し、そうでなくても我々が買い取るので処分にも困らない。必要な出費も此方の経費で賄える。いいこと尽くめですよ」

「自分の子を売る親がいてたまるかよ…。それ以前に、あんた恋人が出来たことは無いのか?友達は?家族は?…どうしてそんなにも情の無い行動ばかり出来るんだ…。…この街の連中も大概だが、あんたは余計に質が悪い」

「情……情ですか。それ、利益に繋がるんですか?」

 ユニフェスは鼻で笑ってそう言ってのけた。俺は彼に掴み掛かろうと手を伸ばし、またもマイクとヨヒラの妨害に遭う。しかし今度はそれでは引かない。俺はマイクの額を肘で打ち、立ち上がる勢いで強引にユニフェスへと迫る。ヨヒラの手が腕を掴もうとも、もう一方の手を即座に伸ばし、掴まれている腕で妨害を阻んでその胸ぐらを引っ掴む。ユニフェスは怯えを孕みつつも敵意を明らかにして俺を睨み、俺は鼻先を突き合わせて叫んだ。…彼を殴るつもりなど初めから無く、どうにかこの感情を届けたい一心での行動だった。

「あんたはホントにそれでいいのか!?情を無くして生きた先に一体何が残るってんだ!!」

「金と地位と権力が全てだ!善人ぶって語るなよ野良犬が!!」

 ユニフェスは俺の言葉を遮る勢いで同じように叫んだ。俺のそれと何ら変わらない、心の底から湧き出た怒号だ。…彼は情を知らないのではない。親切を知らないのではない。…この悪意と私欲に満ちたおぞましい世の中で、そう生きることを選んだに過ぎなかったのだ。

 俺は彼の叫びに驚愕した。動きが止まった。その一瞬を見逃さず、マイクは腕を引き、ヨヒラは胸を突き飛ばして俺をユニフェスから引き剥がした。ソファーを巻き込み倒れた俺をその2人が両側から床に押さえ、シノアは此方に視線をやりつつ「お怪我は…?」とユニフェスの胸を触診する。ユニフェスは興奮に息を切らして衣服を整えると、テーブルを乗り越えて俺に駆け寄り、勢いのまま俺の横顔を踏みつけた。靴底に付着した砂利と砂が降り注ごうとも構うことなく、俺は横目でユニフェスを睨んだ。

「いいかよく聞け平の魔人…!この私に、魔人が、気安く、触れるなぁッ!!」

 ユニフェスは指差してそう告げると改めて俺の頭を蹴り飛ばし、「報告は以上です、失礼します!」と足早にドアへ向かった。ソファーの傍に立ったまま固まっていたシノアはそれぞれを相互に見て、拭えない困惑を表情に乗せて「あの…大丈……」と俺に声を掛けかけた。しかしその弱々しい声は、ユニフェスがドアを開け放ちながら発した「さっさと来い!」との命令に遮られ、彼女は仕方無く一礼してユニフェスの背を追い掛けていった。

 漸く2人に解放されて身体を起こすと、すぐにマイクがヨヒラに向かって深々と頭を下げた。ヨヒラはそれを何の感情も無く見下ろすと、続いて俺を一瞥して小さく息をついた。

「も、申し訳ありません!レムリアドには後程厳しく処罰を科しますので…!」

「…処罰はお前より上の者が下すだろう。お前は与えられた指示通りにその男の監視と制御を続けろ。今のようにな」

「は、はい…!」

 マイクはまた深く頭を下げ、ヨヒラが立ち去るまではそうしているつもりのようだった。ヨヒラは彼に対して悪い感情は特に持たない様子で、彼のことは信用していいと判断したようだった。俺には何の計算も無かったが、結果として上層部からマイクへの信頼を強固にすることは叶ったようだ。

 ヨヒラはまた俺を向いた。俺は身構えて立ち上がり、ヨヒラと眼を合わせて発言を待つ。彼はマイク同様に俺の暴走を止めたが、それ以上のことは何もしておらず、一先ず俺から彼に対しての敵意もそれほど無かった。そしてヨヒラも悪人ではないのか、俺の行動を強く否定する姿勢などは取らなかった。

「…お前が現状に不満を持っていようと、俺には関係無い。だが剰り激しく動き回るようなら排除もやむを得ない。死にたくなければ身のフリを弁えることだ」

 俺は返事などしなかった。マイクは焦って「おい…!」とそれを咎めたが、ヨヒラは気にすることなくそのまま立ち去っていった。マイクは足音がある程度遠退いてから身体を起こし、面倒そうに頭を掻いて俺を見た。俺はそのアイコンタクトの意味を理解して小さく頷いた。

「…謝りに行くぞ」

「行きませんよ」

「いいから、ついてこい」

 そうやり取りを交わしてマイクに腕を引かれながら事務室まで走る。ヨヒラがどれ程の聴力か分からないので、このように見せ掛けておく必要がある。マイクは俺を事務室に連れて入ると、

「じゃあ俺だけで謝ってくるから、ここで大人しくしてろよ。俺が戻るまでに事務の人に教えてもらってお詫び状書いとけ。いいな」

 と一方的に告げてユニフェス達を追って走り出していった。…フリをするのは此処までなので、本当にお詫び状まで書いてやる義理は無い。何ならこのまま普段の仕事に戻っても構わないだろう。…ただ、さっきの今で能動的に何かをしようという気は全く湧かなかった。

 どうしようかと考えたものの、このまま立ち去っても会話を聞いていた事務員が不審がるかもしれないと思ったため上辺だけ指示に従っていることにした。

 まずは手透きの人を探して声を掛けよう、と歩き出したそこへ、尋常でない勢いでドアを開け放って鎧の女性が飛び込んできた。彼女はそのまま支援局の窓口に駆け込もうとしていたが、俺の姿を見つけると鞘入りの剣を抱き直して急いで傍まで近寄った。…それは今や防衛部の一員となって会う機会も無くなっていたかつての仲間――ロベリアだった。

「何だ、どうした?何をそんなに慌てて…」

「詳しく話す時間は無いの!今は事実だけ言うから、レムくんは先に向かって!後から応援は寄越すから!」

 『時間が無い』『応援』…これだけで乱闘沙汰の空気を感じた俺は速やかに思考を切り替えて「分かった、言ってくれ」と促す。しかし俺はバーでの一件で警戒が強まり自身の装備を没収され、一々その使用許可を貰わなくてはならない。少し時間を食うかもしれないなどの危惧があった。…しかしそれらは全て吹き飛ぶ。

「ツェデクスが街に攻めてきたの!防衛部の精鋭はほぼ全滅、それもたった1人の指導者によって…!…レムくん、君が行かなきゃいけないことだと思う…。…その指導者は…――」

 そう、因縁の彼…リードが街を攻めてきたのだ。

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