魔法書の姿をした何か
「あの顔は今思い出しても傑作だったな」
「だが、思い出話をすると打撃が飛ぶ、あれの前では決して言うなよ?」
宿舎代わりの宿の一室、少女は気軽に手渡された少年の魔法書を食い入るように読み進める。少年は手渡すなり公衆浴場に行ってくると姿を消している。
「なんだこれなんだこれなんだこれ…」
理路整然と整理し、記述された魔法式。古式と呼ばれる今ではあまり使われない魔法式の概念説明、詳細、解説も数多く記載されており、さながら魔法式の辞書のような塩梅だ。また、用語には術式で組まれた付箋が付き、容易に辿ることができる。
それだけなら<世界記録>の写本や、高級な辞書にもある便利な機能ではあったが、少年の魔法書には少女が持つ記憶にある概念が数多くあった。魔法書の基礎術式を構築し、少年に与えた”先生”なる人物が、同じ起源を持つ事の証左だ。
しかし、記載されている魔法式の精緻さは、その分野を必要として覚えた記憶のある少女にとって、ある意味では芸術的で、そして狂気じみた偏執さで解析し整理されたものだった。
ページを捲る。記載のある基礎魔法式は、緻密で精神圧迫量も最小限。基礎的なものだけが数多く並んでいるが、組み合わせと規模拡大、それを積み重ねる事で戦闘用の魔法式へ容易に発展可能なものばかりだ。
星辰変異、神力影響、魔素残留値、精霊偏在値…、新式であれば式が自動処理するため意識する事のない概念、それらも偏執的に調整した古式の発展形とも呼べる代物である。
古式の戦闘用規模の魔法式を扱える少女は、自分は他よりはちょっとだけ優秀、というある意味での優越感があったのだが、そんなものはどんぐりの背比べである事が突き付けられたようなものであった。
「何なのよ、この”先生”って人は…、どうしてこんな天才が開拓村で畑仕事しながら教師やってんのよ」
夕食の際などに少年から、魔法式を教えてくれたという青年先生の人となりは多少は聞いていたが、この魔法書自体に記録された概念や魔法式、知識は、現在主流にある新式に真っ向から喧嘩を売る内容だ。喧嘩を売るだけならまだいい。新式自体が、新式というには程遠い、使い勝手が多少良い古式を基にした亜流でしかないという事実を叩きつけている。
また、少女にとって理解しやすい概念での整理は、少し読み進めただけで自分の中のいくつかの魔法式の改良へつながっていた。通常、他人の魔法書の解読、研究には最低でも一ヶ月程度はかかる。少年の魔法書には、それが無い。おまけに、その概念さえ理解してしまえば、他の一般的な魔法使い達の能力の底上げも容易な程、発想を形にするための基礎概念が詰まっていた。
「…ただ、護符には適さないって事なのね」
少女の理解できる概念…、コストと使用者の問題から素材の発展が適わない”ハードウェア”である護符には、この魔法書の式を適用する余地が無い。太古から伝わり、最もこなれた古式から選びぬかれた魔法式を組み込まれたのが工房製の護符だ。安定した動作、耐久力のバランスが完成し過ぎている。
恐らく、新式を使っての量産ではそのバランスが崩れるため、中央で数多く出回っている新式の護符は安かろう悪かろうになってしまう。
「鉱石ラジオもICラジオも、チューニングさえ完璧なら聞ける内容は一緒だものね」
魔法式が現実界面に転写する結果がラジオの「内容」だとすれば、チューニングが面倒だろうが、既に合わせていようが、音が良かろうが大きかろうが、大差は無い。逆に聴き取れなければ意味がないので、無駄な増音は必要ない。
ラジオから聞こえるのが音楽であればチューニングとアンプ、スピーカーの性能も重要になるかもしれないが、音源に近いレベルで音楽を流す事のできるラジオ…、そのクラスの護符は、城塞防御対策や、災害級魔獣、上級魔族との大規模戦闘で使われる高位魔道具と同レベルであり、生活必需品としての護符というハードウェアに期待される性能はそこまで求められていない。
「ん? ああ、閲覧制限か…」
いくつかの用語を辿って読み進める内、参照しようとしたページの魔法式とその研究記録が閲覧できない。タイトルは「常駐型・・・・」。見ているのに文字が理解できない。多分、初日に少年の心を覗こうとした際、接続を切った原因だろう。幻術と精神干渉による防御式が起動している。
この魔法書自体が一種の護符だ。少年の許可の下で閲覧できているが、そうでなければ今見ているページのような状態が、全てのページで起こりえるのだろう。
「さって、彼が帰ってきたら色々聞いてみないとね…」
少女は魔法書を閉じると、下唇をぺろりと舐めた。
「え、ええええええ…」
手遊び代わりに、護符片とその解析を続ける少年の脇で、少女は頭を抱えていた。
「もう一度言うけど、俺、貰った魔法書を全部見れる訳じゃないよ」
あっけらかんと言われた。少女が閲覧できたページを示すが、内容を確認できないという。
「先生が言うには、式の研究や概念の理解が進めば読めるようにした、んだって。それよりもすごいね、先生の作った魔法書を3割も読めるなんて!」
素直に賞賛されてしまう。余計に少女は頭を抱えた。ただ、先生と呼ばれる青年の考えも多少は理解できた。この魔法書の概念は偽りの新式を駆逐し、古式の復古と大幅な発展が望める「真の新式」だ。だが、理解するには式の概念を正しく把握するだけの技量が必要で、理解しないまま使えば暴発する危険性がある。
新式は式干渉を除き、術式に編まれた安全措置のお陰で暴発しても術者が被害を被ることは少ないが、古式とこの古式を基にした魔法式群は、かつての古式と同じく暴発すると術者にバックファイアが起こりうる。
生活魔法などの小規模ならまだしも、戦闘用魔法式では危険性が跳ね上がるだろう。そこを見越して、幻術と精神干渉術式による事前防御措置が取られている訳だ。
時折、ある世界からの来訪者が訪れたこの世界において、コンピュータの概念を伝えた人物は多くなかったのだろう。唯一の例外は賢者だが、歴史書の断片を見る限り賢者は初期のスタンドアロン型までしか扱った事は無かったようだ。
他の転生者についても祝福により常人を超える能力を持った者が殆どであったため、他人に扱えるレベルで解析し整理し、概念を構築したような奇特な者は居ない。
先のスタンドアロン型と対比する意味では、ネットワークの概念を用いた大規模な構想すらこれには記載されているだろう。魔法書に使われている素材は、母の工房にあったものの中でも上質なものと同等だ。それは、人族一人の脳の持てる情報量に匹敵する。
母親には、転生者である事を漏らすと不要なトラブルを抱えると強く言い含められていたが、青年が少年の才能を見込んで伝えたこの魔法書は、現在の人族の魔法の概念に風穴を通り越して焦土と化す危険性も持っている。前世の記憶を基にするなら、標準的なエンジニアが持つ概念を魔法式に正しく適用、広めることができたなら、現在までの魔法式の常識がひっくり返る。
それで、生活魔法しか使えない魔力無しなんて、何の冗談よ。そう言い出したくなるのを飲み込む。
「なんだかあてが外れたけど、私が読み取れた範囲でこの魔法書を理解するための勉強、してみる?」
「うん! どうしてもアイオーとかランタイムとかマクロとかカンスウ?とかわからなくってさ、先生も先生で最後まで悩んでたし」
ある程度まではカンのようなもので理解しているが、青年先生が深く理解しているであろう概念を把握するにはまだ、少年は知識も経験も足りていない。その事も自覚していた為、少女の申し出に飛びついた。