【番外編】扉の向こう
「……ふう、命拾いしたわ」
応接室の奥にある小さな控室で、セシル・モレ侯爵令嬢は胸を撫で下ろしていた。
ドアの隙間にぴったりと耳を押し当て、息を潜めて外の様子を探っていた彼女の額には、うっすらと汗が浮かんでいる。
最初は生きた心地がしなかった。
『氷の騎士』と恐れられるあのガイヤ・フォン・レオンハルト卿が、恐ろしいほどの殺気を漂わせて屋敷に乗り込んできたのだ。私のせいでヴィルロワ家が滅ぼされる、エナが騎士団の牢獄にぶち込まれてしまう、とパニックになっていたセシルだったが――
「……喜んで、お受けいたします、ガイヤ様」
ドア越しに聞こえてきた親友の蚊の泣くような声と、それに続く甘い沈黙に、セシルは目を丸くした。怒鳴り合いどころかプロポーズが成立している状況に頭が追いつかず、ドアノブを握りしめたままフリーズしてしまう。
そこへ外からジャンの呑気な声が聞こえてきて、応接室には和やかな空気と紅茶の香りが漂いはじめた。セシルは自分が完全に空気を読まなければならない立場だと悟った。
こっそり扉を数ミリだけ開けて外を覗くと、あの「氷の騎士」が、見たこともないような優しい笑顔でエナの手を包み込んでいる。エナの頬は熟したトマトのように真っ赤だ。
(ちょっと待って、エナ。貴女、憧れの人のこと『身分の違う雲の上の人』って言ってたわよね!? なんでそんな、何年も連れ添った夫婦みたいな空気出してるの!?)
セシルの脳内で、過去のあらゆるピースが急速に組み合わさっていく。
三年前のハンカチ。自分がお揃いでエナに贈った、イニシャル「C・M」のハンカチ。そして、あの雨の日の待ち合わせ。
あの時のハンカチはエナが無くしたのではなく男の人に渡していたもので、しかもそれがガイヤ様だったのだ。
で、ガイヤ様は「C・M」の刺繍を見て私だと勘違いして、三年必死に手柄を立てて私に求婚してきて……でも実際好きだったのはエナで……?
あまりにも複雑すぎるすれ違いの真相に気づいた瞬間、セシルは思わず吹き出しそうになった。
自分が抵抗していたあの縁談は、最初から全部「親友の当て馬だっただけ」だった。
セシルの胸に、じわじわと安怠感が込み上げてくる。
恐ろしい氷の騎士との婚約は完全に回避できたし、親友のエナは大好きな人と結ばれて超ハッピーエンドになった。おまけに自分は愛する下級騎士の彼と駆け落ちしなくても、堂々と付き合える。
――レオンハルト家との縁談はガイヤ様側の「手違い」で処理されるのだから。
何もしてないのに大勝利ではないかと、あまりの幸運に笑いが止まらなくなったセシルは、控室のソファの上で小躍りした。
しかし喜びも束の間、セシルはある重大な問題に気づく。
(ちょっと待って。私、今ここからどうやって出ればいいの……?)
応接室は今、完全に「二人だけの世界」だ。
ガイヤ様がエナの手に熱い接吻を贈っている音が、微かに聞こえてくる。
今「やあやあ、実は全部聞いてました~! おめでとう!」なんて出ていったら、間違いなくガイヤ様の剣で一刀両断される。氷の騎士の羞恥心を侮ってはならない。
二人が庭に散歩にでも出るまで息を止めて気配を消そうと、セシルは自らの気配を極限まで殺し、ソファの影に潜んだ。
それから三十分後。
「それでは、エナ。明日、正式に公爵家から子爵閣下へお話しに伺う。……また明日」
「はい、ガイヤ様。お気をつけて」
ようやくガイヤが去り、馬車の音が遠ざかっていった。
応接室でぽやんと夢心地のため息をつくエナのもとへ、控室の扉がバンッ!!と勢いよく開いた。
「エナッ!!!」
「きゃああっ!?」
飛び出してきたセシルに抱きつかれ、エナは目を丸くした。
「セ、セシル!?ごめんなさい、すっかり忘れ……ううん、隠れていてくれたのね!」
「ちょっとエナ! 聞いてないわよ! 三年前のハンカチって何!? 身代わりに行かせたらまさかの本命と遭遇って何!? 私、控室で息が止まるかと思ったんだから!」
「ご、ごめんなさい……! 私も何が何だか……」
真っ赤になってしどろもどろになる親友を見て、セシルは耐えきれずに爆笑した。
「あははは! いいのよ、最高の展開じゃない! 私、お父様に怒鳴られて死ぬ覚悟でここに来たのに、まさかエナのプロポーズ立ち会うことになるなんて!」
「もう、セシルったら……」
「でもね、エナ」 セシルは親友の肩をがしっと掴み、真顔になった。
「感謝してよね? 私が『あの雨の日に絶対行きたくない』って言わなかったら、貴女たちずっとすれ違ったままだったんだから! 私と私の彼は、貴女たちの恋のキューピットよ!」
「ふふ、そうね。本当にありがとう、セシル。……あ、セシルの彼とのことも、今度ガイヤ様に相談してみようかしら。ガイヤ様の後押しがあれば、おじ様も反対できないんじゃない?」
その言葉を聞いた瞬間、セシルの目が輝いた。
「……エナ。貴女、やっぱり最高の親友だわ!!持つべきものは近衛騎士団長夫人の親友ね!!」
「まだ夫人じゃないわよ!それに、その肩書だって彼が努力して手に入れたものなんだし」
「はいはい、ごちそうさま!本当にもう、さっそく彼の自慢話なんだから~!」
雨上がりの陽光が差し込む応接室で、二人の令嬢の賑やかな笑い声がいつまでも響き渡っていたのだった。




