第38話 蝉と花
かきみだれた着物を直しもせず、憤怒の表情で叫ぶ。
女当主の声は、黄泉穴へ吸いこまれるようにして消えていき、意味を為さない音の羅列と化した。だが、当の本人は、不気味な絡新婦のように、手足の先を畳に突き立て、穴の縁から抜け出ようともがいている。
『光雄、こちらへ来い』
『使狗使神の法は、己の身を呪う外法ぞ』
『あなたの敵は、明石殿と小夜殿です』
『怜子嬢とともに黄泉路を行くがいい』
『さあ、怜子と一緒に来い!』
耳の奥から蟲たちのささやきが聞こえ、最後の一言は女当主の声のように思えた。知らず、ふらりと前へ出た足が自然と止まる。
目の前に穏やかな怜子の顔があった。仮面が外れ、切り落としたはずの首は胴体とつながり、両手で僕のほおを挟み込むようにする。生前の、元気で、我がままで、自信たっぷりだったころの彼女の姿がそこにあった。
「怜子……」
その名を呼ぶ。返答はなく、代わりにゆっくりと口づけを受けた。その間も、二人の逢瀬を邪魔するように、声が、魂を吸い取れ、亡き者にしろ、と騒ぎ立てている。それは亡者たちの声であり、女当主の声でもあるのだろう。
しかし、屋敷にかけられた術が解けつつあるのか、静謐な薄膜のようなものが失せていき、ささやく蟲たちの声を、遠い蝉の鳴き声が搔き消していく。
怜子の唇が離れていく際に、使狗使神の法も破れたことがわかった。
半ば以上、化け物とかしていた己の姿が、もとの小さく痩せた人の体に戻っているのを感じる。遠くから、殺せ、殺さぬか、明石も小夜も満身創痍、いまなら殺せるはずだと叫ぶ声がする。黄泉穴の縁から這いだそうともがいている女当主の声だ。
「殺せ! 殺さぬか! わしの命を聞けぬというのか!」
絶叫に近い声は、なりふり構わず、怜子に言うことを聞かせようとしている。その声が響くたびに、怜子の顔に亀裂が入り、澄んだ目に黒い影が宿る。けれど、女当主を振り返り、怜子は、はっきりと首を振ってみせた。
「あわれなものね。あなたの力は、すでに尽きかけているわ。わたしは光雄が好き。この人を愛しているもの。こんな、ささやきなどに負けるものですか」
くすりと笑って僕の顔に自分の顔を近づける。
「光雄、あなたはまだ来てはだめ。日の光のもとへお帰りなさい。だいじょうぶ、心配しなくても、いつかは会えるのだから」
再び、名残惜し気に口づけをすると、僕のなかに残った蟲のかけらを吸い取ったのだろうか、ぺろりと唇を舐めてみせた。あわせて生気も吸い取られたかのようで、僕はその場に座り込んでしまった。
その首根を抱くようにしたと思うと、すいと離れて怜子が黄泉穴へ向かった。いまにも穴の縁から逃げ出さんとしていた女当主を背後から捕らえる。
「ねぇ、どこへ行くの。つれなくせずに、ともに参りましょう」
「うるさい。離せ、離さんか!」
もがく影たちを見つめながら、僕は明石と小夜さんに支えられて立ちあがった。ごうごうと周囲の風をすいこむようにしている黄泉穴へと近づく。怜子の顔には、幾筋もの亀裂が走り、その目は赤黒く染まって、少しずつ化け物とならんとしていた。
「さあ、祓って。叔母様とともに」
赤黒い目から赤黒い涙を流しながら微笑む。
「はやく。おねがい、あなたの記憶に美しく残れるうちに」
その体が、がくがくと震え、怜子が怜子たる限界が近づいていることを示していた。僕は小さくうなずきながら小夜さんから匕首を受けとり、女当主の胸元に狙いを定める。
「よ、よせ。わしを何者と心得るか。怜子も黄泉へ帰るのだぞ。おまえと怜子には手を出さぬ。二人で悠久の時を生きれば良かろう」
早口にまくしたてる女当主の言葉に怜子が首を振り、僕はそれにうなずいてみせた。涙で視界が歪むけれど、怜子ごと、女当主の胸を貫き、匕首から手を離した。
「ありがとう」
微笑む怜子とは対照的に、おのれ、おのれ、貴様なんぞに、貴様らなんぞに、と喚きたてながら、力尽きた女当主も黄泉穴へと引きずりこまれていく。その姿が穴の底へ沈み、とぷんと音を立てたと思うと、最初から何も無かったかのように、黄泉穴が消えうせ、一瞬の静寂が満ちる。
あとに残ったのは、夏の夜の蝉と、杜鵑草の花びら一枚。




