後編
彩華。広瀬くんね、好きな人がいるんだって。
どうする? それでもまだ、広瀬くんのこと、好きでいられる?
「どうしたの? 愛菜ちゃん」
彩華の声で我にかえる。
「お箸、止まってるよ?」
私の前でお弁当を広げている彩華が、そう言ってくすくすと笑う。
「いつも私の話を聞かないくらい、パクパク食べるくせに」
「え、あ、うん。あのさ、彩華」
私は笑っている彩華の前で箸を置く。
「あの……この前言った、彼と友達になったらって話だけど」
「あ、うん。私、話しかけてみたよ」
「えっ!」
「テスト期間中にね。愛菜ちゃんが帰ったあとに何回か」
「うそぉ……」
「ごめんね。ちゃんと報告しなきゃって思ってたんだけど、昨日も愛菜ちゃん急いで帰っちゃうし」
そうだったのか……テスト中にそんなことしてたのか。
でも、一夜漬けでいっぱいいっぱいだった私とは違って、学年トップクラスの彩華には、そのくらいの余裕はあったんだろう。
ただ驚いている私の前で、彩華はにっこり微笑んで言う。
「話してみたら、すごく話しやすくて。楽しかった」
「え、ああ、そう。そうなんだ……」
「でね、今度一緒に野球観に行かないかって話になって」
「や、やきゅう?」
「愛菜ちゃんも一緒に行かない?」
それって……もしかしてデートなんじゃ……。
「あっ!」
私は彩華の前で声を上げた。
「どうしたの? 愛菜ちゃん」
彩華が首をかしげて私を見る。
ああ、そうか。わかった。わかってしまった。
広瀬くんの好きな人って……きっと彩華だ。
どうしてこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
彩華が広瀬くんに話しかけて、仲良くなって。それで広瀬くんが彩華のことを好きにならないわけがない。
彩華はいつだってヒロイン。誰にでも好かれて、いつだってハッピーエンドなんだ。
その日の帰り。本当は彩華とアイスクリームを食べに行く約束をしていた。
だけど放課後になって、急に彩華が言ってきた。
「ごめん。愛菜ちゃん。アイス屋さん、今日じゃなくてもいい?」
「え、別にいいけど」
「あのね……今日、彼が……一緒に帰らないかって」
彩華が申し訳なさそうにそう言った。私の胸がぎゅうっと痛む。
「あ、そう。よかったじゃん」
彩華に返す言葉が、冷たいと自分でも思った。
「本当にごめんね?」
私の前で、彩華が両手を合わせる。私はそんな彩華に言う。
「野球もふたりで行って来ればいいよ。もう私は必要ないね?」
「え、愛菜ちゃん……そんなことない。愛菜ちゃんのおかげで私……」
「いいよ、もう! ふたりで仲良くやってればいいじゃん!」
なんだか無性にイライラした。そんなこと言うつもりはなかったのに。彩華はなんにも悪くないのに。
恥ずかしさと悔しさでパニックになりながら、バッグの中に荷物を詰め込み、ダッと教室を飛び出した。
「愛菜ちゃん!」
背中に私を呼ぶ、彩華の声が聞こえる。
でももう駄目だった。これ以上、彩華の隣で笑っている自信がなかった。
中二の時のような、もやもやした気持ちが、雨雲のように私の中に広がる。
ケンちゃんの時も、翔太の時も、大丈夫だったのに。遠藤くんの時だって、ちゃんと我慢できたのに。
だけど絶対見たくない。彩華と仲良くする、広瀬くんの姿なんて……絶対見たくない。
校門を出て右に曲がって、私は走った。どこまでもどこまでも、息を切らしながら走った。
駅から電車に乗ろうかと思ったけれど、泣きながら家に帰るのも嫌で、そのまま踏切を渡って走った。
だけど住宅街まで来て、私は突然立ち止まった。
道路の端っこに座り込んで、生垣の中をのぞきこんでいる人。それは私の好きな人。
「ひ、広瀬くん!」
私の声に広瀬くんが振り向く。そしてすぐに生垣の方を向いて、小さく「あっ」と言った。
「猫、逃げちゃった……」
「なんでここにいるの! 彩華は?」
「あやか?」
広瀬くんがぽかんとした顔で立ち上がる。
「あやかって誰?」
「え、だって彩華と一緒に帰るんじゃなかったの?」
「は? 俺、そんな約束してないし。あやかなんて人も知らないし」
「で、でも彩華と野球観に行くんじゃ……」
「だからあやかって誰?」
その時私を呼ぶ声が聞こえた。
「愛菜ちゃん!」
必死に私に向かって走ってくる彩華の姿……と、その後ろにいるのは……坊主頭の山田?
「よかったぁ。急に出て行っちゃうから、愛菜ちゃんすごく怒ってるのかと思って……」
彩華が息を切らしながら、泣きそうな声で言う。
「すぐに追いかけたんだけど、愛菜ちゃんもういなくて……山田くんも一緒に探してくれたの」
呆然とする私の前で山田が言う。
「おい、林。お前そんなに佐藤とアイス食いに行きたかったのかよ?」
違う、違う。そうじゃなくて。
「それから、林。お前も一緒に野球観戦行かないか? 佐藤が林も一緒じゃなきゃヤダって言うから」
野球? 山田と? 彩華が?
「えっ、ちょっ、ちょっと待って! 彩華の好きになった人って……もしかして山田?」
「ま、愛菜ちゃん! そんな大きな声で言わないで」
彩華が山田の隣で、真っ赤になった顔を隠す。
な、なんだ。そういうこと? 彩華がかっこいいって言ったのは山田のこと? そう言えば私、肝心な「広瀬くん」の名前、彩華に伝えていなかった。
「な、なーんだ」
私はおかしくなってげらげら笑った。そして少し涙が出た。広瀬くんがそんな私のことを、不思議そうな顔で見ている。
「で、どうするんだよ? 林も行くのか? 野球」
「彩華と山田と私? 三人で行くなんておかしいよ」
「じゃあ、広瀬も行くか?」
突然山田が広瀬くんに振った。え、ちょっと待って……。
「べつにいいけど?」
「えっ! いいの? 知らない人たちなのに?」
「佐藤さんのことは知らないけど、山田のことは知ってるし」
「な! 俺たち幼稚園の頃からのライバルだしな!」
山田の声にうなずいた広瀬くんが言う。
「それに林さんのことも……知ってるし」
「わ、私のことを?」
広瀬くんの顔が急に赤くなった。山田がそんな広瀬くんのことをにやにやと見ている。
「気をつけたほうがいいぜ、林。こいつヤバいストーカーだから」
「わー! バカ、黙れ! 言うな!」
「好きな子のあとつけたりしてさぁ、マジでヤバいし、こいつ」
「だからっ、言うなって!」
広瀬くんの顔がもっと赤くなった。なぜだか私の顔も赤くなった。そんな私のことを、彩華がにこにこしながら見ている。
「なんかお邪魔みたいだから、俺たち行くか」
「そうだね。山田くん」
山田と彩華が笑っている。
「じゃあ、またね。愛菜ちゃん」
返事もできない私の前で、彩華がにっこりと手を振った。
「い、いつから私の名前、知ってたの?」
広瀬くんと一緒に住宅街の中を歩く。マンションとは反対の、駅へと向かう道。広瀬くんが私のことを、駅まで送ってくれると言ったのだ。
「一年の時の体育祭で……玉入れしてる林さんがかっこよくて……」
「は?」
「みんな手抜きしてるのに、必死にやってるんだもん。林さんだけ」
何だかそれって、逆にかっこ悪い。
「それからすごく気になって。教室の中のぞいたり、あとつけたり、彼氏いないのか探ったり」
広瀬くんが私の顔をちらりと見た。
「……引くよな? こんなやつ」
私は首を横に振る。
「私だって同じようなことしてた」
「俺のあとつけてたよな」
「気づいてたの?」
「だって下手すぎるもん」
そう言えば、広瀬くんが私のあとをつけていたなんて、一度も気づいたことがない。
広瀬くん、私よりよっぽど、ストーカーの素質あるよ。
私たちはゆっくりゆっくり歩いた。早く歩いたら、すぐ駅に着いてしまうから。私はもっと、広瀬くんと一緒にいたかった。
そして歩きながら、私はたくさん広瀬くんと話した。
「猫好きなの?」
「うん。でもうちのマンション、ペット飼えなくて」
「私も猫大好き! だけどうちは弟がアレルギーで」
「この前自分のこと、猫アレルギーだって言わなかったっけ?」
「あ、あれは咄嗟の嘘」
私たちは顔を見合わせて、くすりと笑う。
「あんなに足速いのに、どうして部活やらないの?」
「俺、陸上部に入ってたんだけど、去年のリレーで野球部の山田に抜かされて。悔しくて部活辞めて、ただ山田に勝つためだけに一年間自主練した」
どうやら広瀬くんは、執念の人らしい。
そんなことを話していたら、すぐに駅に着いてしまった。
「そ、それじゃあ」
「うん」
広瀬くんに背中を向ける。だけど改札に入ろうと定期を出した手を、いきなり広瀬くんに掴まれた。
「や、やっぱり待って!」
私は驚いて広瀬くんを見る。広瀬くんは気まずそうに私の手を離す。
「お、俺たち付き合わない?」
「えっ!」
突然の言葉に耳を疑う。
「付き合えばもっと、お互いを知ることができると思うんだ」
広瀬くんが照れながらも、真っ直ぐ私のことを見て言った。
どうしよう。嬉しいけど。そんなこと言われたことないから、何て答えたらいいのかわからない。
「わ、私なんかで……いいの?」
だって私は所詮脇役。ヒロインじゃない。
「何言ってるの? 俺、林さんじゃなくちゃ、嫌だ」
顔がぶわっと赤くなる。それにつられるように、広瀬くんの顔も赤くなる。
「林さんには突然かもしれないけど……俺は一年前から、ずっと林さんだけを見てたから」
ああ、もうやめて! これ以上恥ずかしいこと言われたら、私どうにかなってしまいそう。
「い、いいよ?」
私はぼそりと広瀬くんにつぶやく。
「私ももっと、広瀬くんのこと、知りたいし……」
最後はもう、聞こえないほどの心細い声だった。
だけどそんな私の前で、広瀬くんが笑ってくれた。
「ありがと。愛菜ちゃん」
突然名前で呼ばれて焦ったけど、広瀬くんはもうずっと前から、私のことをそう呼びたかったんだって、あとから聞いた。
一週間後。
山田がチケットを取ってくれたので、四人で野球を観に行った。わいわい騒いで、彩華も嬉しそうで、広瀬くんともいっぱい話せて、とても楽しい一日だった。
駅へと向かう帰り道。少し前を歩く、彩華と山田。私は広瀬くんと並んで、その後ろを歩く。
私たちとすれ違う男の人が、何人も振り返って彩華を見た。
こんなふうに街に出ると、あらためて思う。本当に彩華は美少女なんだ。きっと山田は苦労するんじゃないかなぁ、なんて思ってしまう。
すると山田の手がさりげなく伸びて、彩華の手を握った。彩華はそれを振り払うことなく、ぎゅっとその手を握りしめる。
目のやり場に困って、あわてて視線をそらした。すると私を見ている広瀬くんと目が合って、また焦った。
もうどこを見たらいいのか、わからない。
「さ、さっきの見た? みんな彩華のこと、振り返ってたでしょ?」
私の言葉に広瀬くんが答える。
「え、そう? 俺、愛菜ちゃんのことばっか見てたから気がつかなかった」
広瀬くんはそう言ったあと、小さく微笑んで私に言う。
「俺の中のヒロインは……愛菜ちゃんだけだから」
一週間、広瀬くんと付き合ってわかったこと。
広瀬くんは安っぽい恋愛ドラマみたいな恥ずかしいセリフを、さりげなく口にする。そして私が真っ赤になるのを見て、自分も赤くなってしまうのだ。
だけどそんな広瀬くんの言葉は、私に自信を持たせてくれる。私でもいいんだって思わせてくれる。
中二の時のような、あんなもやもやした気持ちを、私はもう感じることはない。私は前よりずっと、彩華に優しくしてあげられる。
ふたりでもじもじしながら歩いた。前にいるふたりは、そんな私たちに気がつくことなく、楽しそうにおしゃべりしている。
私も何か話さなきゃと思ったけど、なんだか照れくさくて話せない。
そんな私の手を、広瀬くんが握った。男の子と手をつなぐのなんて幼稚園以来だったけど、ちっとも嫌じゃなかった。
広瀬くんと手をつないで思った。もっともっと広瀬くんのことを知りたいって、そう思った。
「今度はふたりだけでどこか行こう?」
いたずらっぽく耳元でささやかれるその声に、私は「うん」とうなずいて笑った。