さくらとおねえちゃんのはなし
「さーくーらー?どこ行った?」
「桜なら、お母さんと買い物行ってるよ」
桜の姿を探しながら家を練り歩く父に、私は代理で答えた。
桜のスコップを持ったまま、父は困った顔で「うーん、じゃあこれは庭に置いとくか」と呟く。
「どうしたの?桜のでしょ、それ」
「ああ、名前シールが剥がれたから付け直したんだよ。せっかく格好いいローマ字にしたんだけど、何故か母さんに怒られちゃって」
「当たり前じゃん。ひらがなじゃないと困るよー。桜が読めるわけないじゃん」
「あ、そうか。もしかして漢字もダメか」
「ダメ」
「うわー、作り直しだ」と父はスコップに貼り付けたシールを、爪を立ててカリカリと剥がそうとする。
「お父さん」
「何だ?」
「妹の名前を付けた日のこと、思い出したよ。私が決めて、お父さんとお母さんが漢字を決めた、咲良のことを」
父の手が止まる。
ゆっくり顔を上げて、私の言葉を待っていた。
「私、忘れてた。大事な初めての妹の名前を、私が決めたこと。ずっと、ずっと忘れてたんだ」
「は」
父の口から音が漏れる。
「は、はは」
「お父さん?」
「は、あっはっはっはっは!!!!」
父は笑っていた。
げらげらと、腹を抱えて面白そうに笑う。
「忘れてたぁ?円香、お前そんな、たかが五年……いや、六年前のことをもう忘れたのか!?」
「え……ち、違う。私が言ってるのはもっと昔の話で……咲良の、一人目の妹のことを……」
「一人目も二人目もないだろ!円香の妹は『さくら』一人じゃないか」
ぱしん、と冗談っぽく私の肩が叩かれる。
大した力じゃないのに、何故か膝から力が抜けてよろめいてしまった。
父の人差し指が空中で字を書く。
それは、どう見ても『桜』という字ではなかった。
「花が咲くように、たくさんの人を笑顔にする良い子になって欲しいからこの字にしたんだ。思い出したか?」
違う。
違う、違う違う。
それは一人目の、死んだ「咲良」の名前だ。
二人目の、「桜」のものじゃない。
私は父の手から、桜の大事な赤いスコップを奪い取った。
新品の名前シールには、マジックで漢字が二文字。
『咲良』
玄関が開く音がして、母の元気な「ただいまぁ」という声がした。
たくさんの買い物袋を持ちながら「さぁちゃん!先に手、洗って来て!」と慌ただしく台所へ駆けていく。
「お母さん、これ見て」
テーブルの上に買ってきた食材を出している母。
その目の前に、赤いスコップを突きつけた。
母の顔色がサッと変わる。
「何、これ……ちょっとお父さん!漢字で書いたら、さぁちゃんが読めないじゃない!」
「ごめんごめん、作り直すよ」
……何が、起きているの?
どうして、みんな普通にしてるの?
桜は……さぁちゃんは、「咲良」とは違う子なのに。
ぱた、ぱたぱたぱた。
廊下を走る軽い足音。
小さな身体が私の足に飛びついた。
指先から私の身体が冷えていくような感覚。
目線を向けるのが、怖い。
ぎゅうっ、と柔らかい手が私の服を引っ張った。
静かに目を向けると、ちょっと癖毛な黒髪が目に入る。
「さくら」
どちらのつもりで、私はその名前を呼んだのだろう。
どちらの妹であってほしいと思ったのだろう。
私にしがみついた妹は顔を上げた。
それから、ずいぶん見慣れたいつもの妹の顔のまま。
「おねえちゃん」
私にも桜にも似ているようで、どこか違う知らない声で、ひどく嬉しそうに私を呼んだ。




