さくらの話
「咲良」
ずっと忘れていた。
桜が生まれるずっとずっと前に、生まれてくるはずたった初めての妹。
私はその妹の姿を、一度も目にすることはなかった。
「咲良ちゃんは、お空に帰っちゃったんだ」
そう言った父の悲しい目。
「ごめんね」
そう言って涙をこぼす母が、まだ幼かった私には怖かった。
触れてはいけない。
口にしてはいけない。
覚えていてはいけない。
そうやって、記憶の一番深いところに押し込めて、閉じ込めた妹。
桜───いや、咲良はスコップを放り投げ、土まみれの手で私の頬に触れた。
氷水に浸したかのように冷たい手だ。
「おねえちゃん。おねえちゃんは、わたしのこと嫌い?」
私は、それに答えられない。
答えられるはずがない。
私は咲良の顔を知らない。
咲良の声を、笑い方を知らない。
咲良の好きなものも、好きな遊びも嫌いなことも、何も知らないのだ。
だから、震える声で言えたのは、私にとって確かなことだけだった。
「私……私、は、桜の花が好きだったの」
それは、私の一人目の妹との、初めてのお話だった。
眠る時に、桜に絵本を読むのと同じように、ゆっくりゆっくり語りかける。
「あなたが、お母さんのお腹にいる時から決めてたの。漢字は、お父さんとお母さんが一生懸命考えたんだよ」
妹の、冷たい小さな手を包むように握る。
自分の体温が少しでも、この子の手を温めればいいと思った。
「ごめん。ごめんなさい。ずっとずっと、一人にしてごめんね」
咲良。
生きていたら、どんな遊びが好きになったのだろう。
何色が好きになっただろう。
プリンは気に入っただろうか?私と一緒にアイスを食べに行ってくれたりしただろうか。
「あなたと一緒におままごとをして、一緒に遊んで、おやつを半分こしたかった。お姉ちゃんになりたかった。あなたの名前を呼びたかった」
咲良は私の目を見たまま動かない。
心の奥底まで見透かそうとしているかのように、じっと私の言葉を聞いてる。
「だから私、大切な妹に世界で一番だいすきな花の名前を付けたの」
咲良は私の手を振りほどいた。
そして、傍らに落ちていた下手くそな工作を掴み上げる。
新聞紙とティッシュで作られた、不格好な桜の木だ。
「わたしもね、さくら、すきだよ」
耳元で誰かが囁いた。
それは私にも桜にも似ているようで、どこか違う知らない女の子の声だった。
振り向けば、春のような柔らかな風が吹き付ける。
はらはらと薄い桃色の花弁が庭に降り注いだ。
五月の空に桜の花が舞っている。
「うわぁ!!さくらだ!」
黄色い声と、お腹に重たい衝撃。
思わず尻もちをついた私に、飛びついてきたのは妹だった。
桜の花が咲き誇る、立派な枝を一振掲げている。
「見て見て、おねえちゃん!さくらのお花だよ!本物になっちゃった!」
キラキラ輝く瞳で子犬のように庭を駆け回る様子は、いつも通りの私の妹……桜の姿そのまんまだ。
「すごーい!あした、わたしのお誕生日だからかな!?ホントにさくら咲いたよ!」
嬉しそうに走る妹に向かって「さくら」と呼びかけた。
「桜」
「なぁに?おねえちゃん」
「さくら」
「んー?なに?」
「さくら?」
「うん。さくらだよ?おねえちゃん、なんで泣いてるの?」
妹の名前を呼んだ。
桜の身体を抱きしめて、何度も、何度も声の限りに呼び続けた。
泣いて、名前を呼んで、また泣きじゃくった。
会うことのできなかった一人目の妹。
彼女との別れが恐ろしくて、泣くことすらできなかった幼い私を取り戻すように。
「咲良」
「桜」
私の、妹たち。




