エピローグ「辺境の竈に宿る光と、遥かなる空の青」
結婚の誓いから半年が経過した、ある穏やかな秋の朝。
ヴァルト領の空は、どこまでも高く澄み渡るような深い青色に染まっていた。
かつては岩肌と枯れた大地しか見えなかった城館の周囲には、豊かな土壌が広がり、見渡す限りの畑が黄金色の実りをつけている。
精霊たちが土に宿り、風を巡らせることで、この地は王国でも有数の豊穣な土地へと変貌を遂げていた。
台所の窓からは、眩しいほどの朝の光が差し込んでいる。
ヴィオラはすっかり見慣れたエプロン姿で、朝食の準備に取り掛かっていた。
まな板の上で小気味よい音を立てて野菜を刻む彼女の足元で、エルナが背伸びをしながら手伝いをせがんでいる。
「かあさま、きょうのスープはなに?」
「今日は、エルナが昨日畑で採ってきてくれた、一番大きなお芋のスープよ」
「やったあ! あまくておいしいやつだ!」
エルナが両手を挙げて飛び跳ねる。
その元気な声に、竈の火の番をしていたヨハン爺が目を細めて笑った。
ヴィオラは鍋に野菜を放り込み、ゆっくりと木べらでかき混ぜる。
相変わらず彼女には見えていないが、鍋の周囲には無数の精霊たちが集まり、楽しげに光の粉を振りまきながら温度を調整していた。
扉が開く鈍い音がして、朝の鍛錬を終えたレオンハルトが台所に入ってくる。
彼の額にはうっすらと汗が浮かび、首に巻いたタオルでそれを無造作に拭っている。
「おはようございます、旦那様」
「とうさま、おはよう!」
「ああ、おはよう」
レオンハルトの返事は相変わらず短いが、その声のトーンは以前のようなどこか張り詰めた冷たさを完全に失っていた。
彼はエルナの頭を大きな手でくしゃくしゃと撫でた後、ヴィオラの隣に立ち、鍋の中を覗き込む。
「いい匂いだ」
「もうすぐ完成しますから、席についてお待ちくださいね」
ヴィオラが微笑みながら彼を見上げると、レオンハルトは小さく頷き、食堂の方へとは歩かず、そのまま台所の長椅子に腰を下ろした。
彼にとって、この台所で料理が完成するまでの過程を眺める時間が、一日のうちで最も心安らぐ瞬間なのだ。
やがて完成したとろみのあるスープが木椀に注がれ、湯気とともに甘く豊かな香りが立ち昇る。
3人が小さな丸テーブルを囲んで座り、一斉に匙を動かし始めた。
レオンハルトがスープを一口飲み、小さく息を吐く。
そして、何も言わずにヴィオラの方へ視線を向け、ほんのわずかに目尻を下げた。
言葉はなくても、その表情が「美味しい」という何よりの賛辞であることを、ヴィオラは誰よりも理解している。
『ああ、私は今、生きている』
ヴィオラは胸の奥で、その確かな重みと温かさを噛み締めた。
誰かの顔色をうかがうためではなく、愛する家族の明日を作るために、彼女はこの台所に立っている。
窓の外では、精霊草の淡い光が、秋の柔らかな陽差しに溶けて優しく揺れていた。
◆アルフレート・フォン・ヴェルテ視点
同じ日の夜。
王都の王宮では、他国の使節を歓迎するための華やかな夜会が開かれていた。
シャンデリアの眩い光と、張り詰めたような香水の匂いが広間を満たしている。
アルフレートは金糸の軍服を隙なく着こなし、新たな婚約者となった大公家の令嬢の手を取って、優雅なステップを踏んでいた。
周囲からは、非の打ち所がない完璧な王太子としての称賛の視線が注がれている。
曲が終わり、令嬢に一礼して壁際に下がったアルフレートは、従者からグラスを受け取ると、静かにバルコニーへと出た。
夜の冷たい風が、火照った頬を撫でる。
彼はグラスの冷たさを指先で感じながら、王都の空を見上げた。
雲一つない夜空には、無数の星が冷ややかに瞬いている。
アルフレートの視線は、無意識のうちに遥か北方の空へと向けられていた。
『あの冷たい辺境の地で、彼女は今も、あの柔らかな笑顔で笑っているだろうか』
かつて自分が切り捨て、二度と手の届かない場所へと追いやった少女の姿が、脳裏を掠める。
胸の奥に走る微かな痛みは、一生消えることのない彼自身の罪の証だった。
しかし、その痛みから逃げることはもうしない。
彼はグラスを高く掲げ、誰に聞こえるでもない声で、夜風に向かって静かに呟いた。
「幸せでいろ、ヴィオラ」
祈りのようなその言葉は、冷たい風にさらわれてすぐに消え去った。
アルフレートはグラスを一気に飲み干すと、北の空から視線を外し、背筋を伸ばして再び光のあふれる広間へと戻っていく。
彼もまた、自らが選んだ茨の道を、後悔を抱えたまま歩き続けなければならないのだ。
華やかな音楽が鳴り響く王都の夜は、辺境の温かな静寂とは対極のまま、更けていった。




