番外編「不器用な守護者たちと、夜更けの聖域」
領地の境界を見回る夜間警備は、季節が春に向かっているとはいえ、まだまだ骨の折れる任務だった。
若い騎士のルークは、冷たい霧雨に濡れたマントを重そうに引きずりながら、城館の裏門をくぐり抜けた。
ルークは下馬し、一緒に巡回に出ていた先輩騎士たちも、一様に疲労の色を濃くし、口数も少なく馬を厩舎へと引いていく。
鎧の隙間から入り込んだ湿気と冷気が、体温を容赦なく奪い、指の感覚を麻痺させていた。
「おい、ルーク。さっさと着替えて兵舎のストーブに張り付こうぜ。このままじゃ凍え死ぬ」
「はい。指がうまく動かなくて、剣の留め金が外せませんよ」
ルークがかじかんだ手をさすりながら答えたその時だった。
城館の1階、普段は夜半には完全に火が落とされているはずの台所の窓から、温かなオレンジ色の明かりが漏れているのが見えた。
それだけでなく、霧雨の湿った匂いを切り裂くように、香ばしく焼けた肉と、胃袋を直接掴むような濃密な香辛料の匂いが漂ってくる。
疲労と空腹で限界を迎えていた騎士たちの足が、見えない糸に引かれるようにピタリと止まった。
「……なんだ、この暴力的なまでに食欲をそそる匂いは」
「まさか、ヨハン爺さんが夜食を作ってくれているのか?」
騎士たちは顔を見合わせ、吸い寄せられるように台所の裏口へと近づいていく。
そっと木扉を開けると、そこには彼らの予想を裏切る光景が広がっていた。
巨大な竈の前に立っていたのは、ヨハン爺ではない。
つい先日、この領地の正式な女主人となったばかりのヴィオラだった。
彼女は袖をまくり上げ、白いエプロン姿で大きな鉄鍋の中身を木べらでゆっくりとかき混ぜている。
その傍らでは、ヨハン爺が申し訳なさそうに野菜の皮を剥いていた。
鍋からは、ごろごろとした大きな獣肉と、領地で採れた根菜が濃厚なソースで煮込まれる、とろけるような音が響いている。
「あ、あの……奥様」
ルークが戸惑いながら声をかけると、ヴィオラは振り返り、柔らかな微笑みを浮かべた。
「おかえりなさいませ。冷たい雨の中、警備のご苦労様です」
「なぜ、奥様がこんな夜更けに台所に立っておられるのですか。我々の食事など、使用人に任せておけば……」
先輩騎士が慌てて頭を下げるが、ヴィオラは静かに首を横に振った。
「私が、作りたかったのです。皆様が冷え切った体で戻られると聞いて、少しでも温かいものを食べていただきたくて」
ヴィオラはそう言うと、深い木皿に煮込み料理をたっぷりと注ぎ、焼きたての厚い黒パンを添えて騎士たちに差し出した。
湯気とともに立ち昇る香りが、騎士たちの理性を一瞬で吹き飛ばす。
彼らは礼を言うのももどかしく、無作法に木皿を受け取ると、台所の隅の長椅子に腰を下ろして一斉に匙を動かし始めた。
ルークが煮込まれた肉を一口頬張った瞬間、目を見開いた。
肉は噛む必要がないほど柔らかく解け、濃厚な旨味と香草の爽やかな風味が口の中いっぱいに広がる。
ただ美味しいだけではない。
冷え切っていた内臓の芯から、燃えるような熱がじんわりと全身の血管を駆け巡り、こわばっていた筋肉の疲労を嘘のように溶かしていくのだ。
料理の表面には、彼らには見えない微小な精霊の光が溶け込んでおり、それが彼らの身体機能を急速に回復させているのだった。
「……うまい。なんだこれは、涙が出るほどうまい」
先輩騎士が、本気で目元を拭いながら唸るような声を上げる。
ルークも無言でうなずき、器についたソースを黒パンで綺麗に拭き取って口に押し込んだ。
胃袋が満たされると同時に、この荒涼とした辺境の地で命を懸けて戦うことへの誇りと、安堵感が胸を満たしていく。
「お粗末様でした。足りなければ、まだ鍋にありますよ」
ヴィオラが嬉しそうに鍋の底をかき混ぜる音を立てる。
その姿は、高貴な辺境伯夫人というよりも、帰りを待つ家族のように温かかった。
ルークは空になった木皿を両手で持ち、深く頭を下げた。
『俺たちは、この光を守るために剣を振るうのだ』
台所に集まった騎士たちの心に、言葉にしない強固な誓いが共有される。
外の雨音は、いつの間にか優しい静寂へと変わっていた。
竈の火がパチパチとはぜる音と、鍋の煮える音だけが、深夜の聖域に心地よく響き続けている。




