第11話「辺境の拒絶と、精霊の森が剥く静かな牙」
翌朝、厚い雲の隙間から差し込む冷たい光が、執務室の机を白く照らし出していた。
レオンハルトは羊皮紙に向かい、羽根ペンを力強く走らせている。
ペン先が紙を擦る硬い音が、静まり返った部屋に規則正しく響いていた。
インクの焦げたような匂いと、古い紙の乾いた香りが鼻を突く。
彼の横顔には、昨夜の微かな迷いや震えは微塵も残っていなかった。
あるのは、己の守るべきものを明確に定めた男の、岩山のような揺るぎない覚悟だけだ。
最後に辺境伯の印章を熱した蝋に押し当て、重厚な封を完成させる。
彼はその書状を手に立ち上がり、足早に応接室へと向かった。
応接室では、昨日から滞在している精霊神殿の使者が、苛立たしげに毛皮の絨毯を踏み鳴らして待っていた。
使者はレオンハルトの姿を認めるなり、高慢な笑みを浮かべて顎を上げる。
「辺境伯爵。ようやく賢明な決断を下されましたか。愛し子を王都へ移送する馬車の準備はすでに整っております」
レオンハルトは無言のまま、手にしていた書状をテーブルの上に放り投げた。
羊皮紙が乾いた音を立てて滑り、使者の目の前で止まる。
「これは、何です」
「王都への返答だ。ヴィオラ・ヴァルトラーフは私の正式な妻であり、彼女を手放す意思は一切ない」
使者の顔から、すっと血の気が引いていくのが見えた。
次いで、怒りで顔を真っ赤に染め上げ、テーブルを激しく叩く。
「正気ですか! これは王命であり、神殿の総意でもあるのですぞ! 大愛し子を辺境に囲い込むなど、神への明確な反逆だ!」
使者が声を荒らげたその瞬間だった。
応接室の温度が、急激に氷点下まで下落した。
暖炉で赤々と燃えていたはずの薪の火が、音もなく一瞬で青白い炎へと変貌する。
使者は寒さに歯の根を合わさず、恐怖に目を見開いた。
窓の外から、季節外れの猛烈な吹雪がガラスを叩きつける音が響き始める。
しかし、それは雪ではなかった。
無数の光の粒が、吹雪のような猛烈な勢いで窓の周囲を飛び交い、城館全体を外敵から遮断するように渦を巻いているのだ。
さらに、応接室の床板の隙間から、青白く発光する精霊草の蔓が蛇のように這い出し、使者の足元へと急速に伸びていく。
「ひっ……!」
使者は悲鳴を上げ、後ずさって壁に背中を打ち付けた。
精霊たちが明確な敵意と拒絶を示している。
神に仕える身である使者にとって、精霊から直接的な怒りを向けられることほど恐ろしいものはない。
「精霊たちは、ここを離れることを望んでいない」
レオンハルトの低い声が、青白い炎に照らされた部屋に重く響く。
「これ以上この地に踏み入るというのなら、相手になるのは私だけではない。この大地そのものが、王都を敵とみなすだろう」
使者は腰を抜かしかけながらも、必死にテーブルの上の書状をひったくり、逃げるように応接室を飛び出していった。
廊下を走る見苦しい足音が遠ざかり、やがて馬車が慌ただしく中庭を出発していく音が聞こえてくる。
それを確認すると同時に、部屋を満たしていた異常な冷気と青白い光が、嘘のように引いていった。
暖炉の火は元の温かいオレンジ色に戻り、床板を覆っていた精霊草も跡形もなく消え去っている。
レオンハルトが小さく息を吐き出すと、背後の扉がそっと開いた。
ヴィオラだった。
彼女は不安げに手を胸の前で組み、レオンハルトの広い背中を見つめている。
レオンハルトは振り返り、数歩歩み寄って彼女の冷えた手を取った。
彼の手のひらの分厚いタコと、微かに残るインクの匂いが、ヴィオラの心をひどく落ち着かせる。
「もう、大丈夫だ」
レオンハルトの静かな声に、ヴィオラは深く頷いた。
繋がれた手から伝わる温もりが、これからの戦いを乗り越えるための確かな鎧となって、彼女の心を包み込んでいた。




