6
夜が明けて、やがて昼になった。
いつものように図書館に行くアルベルト。
今日、手にしていたのは百科事典。
受付の女性がアルベルトに話しかけていたが、今日は気にならなかった。
エルディナの名を出しても、女性はやはり知らなかった。
図書館の司書でさえ知らない。
その事実が、じわじわと重くなってくる。
その夜。
ベッドの上で百科事典を開く。
次こそエルディナが載っているかもしれないという期待は、もうしなくなっていた。
百科事典は最後の望みだった。
ここになければ、もう本から得られる情報はないだろう。
あとは、調査隊が戻ってくるのを待つしかない。
ページをめくっていき、私は百科事典の本をパタンと閉じた。
仕事をしていたアルベルトがこちらを向く。
「どうした?」
私は一瞬口にするのをためらった。
「……なかったわ」
「そうか……」
彼が椅子から立ち上がり、こちらに向かって歩いてくる。
そして、ベッドに腰を下ろした。
「ありがとう。今まで本を借りてくれて」
(ここは、どこなの――?)
「次は、調査隊の話ね。そこから手がかりが見つかるかもしれないわ」
(いつまで、探せばいいの? 本当に、帰れるの……?)
アルベルトがハンカチを取り出して私の目元に押し当てた。
どうやら、涙がこぼれていたらしい。
「今日はもう休め」
アルベルトは百科事典を鞄に戻し、ベッドに入る。
そして、私にもシーツを掛けた。
温かかった。
その時、玄関のドアを叩く音が聞こえた。
風の強い日で、窓がガタガタと音を立てている。
そこに、玄関のドアをドンドンと強くたたく音がした。
アルベルトは起き上がり、玄関へ向かう。
玄関には、使用人と慌てる騎士が立っていた。
「こんな遅くにどうした?」
「隊長、火事です! 騎士団寮が燃えてます!」
「火事だと!?」
「はい! すぐに寮へ来てください!」
「わかった」
アルベルトは着替えた後、すぐに馬に乗って寮に向かう。
彼は鞄の中の私に向かって、吐くなよ、と短く言った。
馬が走り出した途端、激しく揺さぶられる。
(き、気持ち悪い……)
やがて、揺れがおさまってくる。
鞄から外を覗くと、熱風が頬を撫でた。
その熱に思わず、目を細める。
四階建ての寮から炎が上がっていた。
焦げた匂いが鼻を刺し、喉の奥がひりつく。
ぱちぱちと木が弾ける音が、嫌に大きく響いていた。
寮の西側が炎に包まれ、生き物のようにうねったそれは、窓から外へと舌を伸ばしている。
黒い煙が空へと立ちのぼり、夜空を覆い隠していた。
寮の前では怒号が飛び交い、あちこちで人が走り回っている。
「早く逃げろ!」
「水を早く運べ!」
「怪我人は、こっちだ!」
建物から騎士や使用人が駆け出してくる。
誰かが怒鳴り、怪我人を抱えた騎士が走り、バケツの列が寮へ向かって伸びていた。
アルベルトが低く息を吐いた。
「西側か……風向きが悪いな」
短く状況を見極める声だった。
彼はすぐに視線を巡らせ、周囲の動きを確認する。
指示を飛ばす騎士、水を運ぶ列、崩れかけた壁――すべてを一瞬で把握しているようだった。
その時、一人の騎士が駆け寄って来る。
「隊長! 応援ありがとうございます!」
私は慌てて、頭を引っ込めて身を隠す。
「第二部隊の奴らは無事か?」
「はい、全員避難済みで、現在消火活動に回ってます!」
「俺も消火に回ろう」
「隊長」
騎士が低い声で言った。
「また、魔女の仕業かもしれません」
その言葉に、胸がひやりと冷えた。
「そうか……とにかく、今は火を消そう」
アルベルトは馬を騎士に託して、鞄を少し離れた木の根元に置いた。
そして、彼が離れる気配がした。
鞄の隙間から、そっと外の様子を伺う。
騎士たちは一列に並んで、水の入ったバケツを手渡ししている。
寮に近い騎士がバケツの水を炎にかけていた。
けれど、炎がおさまる様子はない。
運悪く風の強い日で、風に煽られた火は勢いを増していく。
「おい、カーテンが……!」
その時、燃える寮の窓からカーテンが飛ばされる。
燃えるカーテンが夜空を舞い、木の枝に引っかかった。
そしてそれは木の枝から外れて……鞄を覆うように被さった。
(え!?)
いきなり目の前に現れた火に驚き、鞄の奥へ逃げる。
鞄から出るには、火に向かって行かなければならない。
(でも、ぬいぐるみの体じゃ……)
考えている間に、カーテンの火が鞄の蓋に燃え移った。
焦げ臭さに、思わず鼻を押さえる。
すぐに黒い煙が、鞄の中に充満していく。
魔法で身を守ろうとするが、むせて集中できない。
だんだん鞄の中まで、熱くなってくる。
バシャッ―ー
鞄が揺れた直後、水が膝の上まで流れ込んでくる。
一瞬で、火が消えた。
すぐに水は引いていき、煙の臭いだけが残る。
(……た、助かった……えっ!)
今度は鞄が大きく揺れた。
「リゼット! 無事か!?」
アルベルトの切羽詰まった声。
どうやら、鞄の火を消してくれたのは彼だったらしい。
震える手が、私を鞄からすくい上げる。
近くに、空のバケツが転がっているのが見えた。
見上げると、彼の瞳が揺れている。
「……大丈夫よ、ありがとう」
「……良かった」
そのまま彼の胸に抱き寄せられた。
心臓の音は早鐘を打つように激しい。
先程彼が呼んだのは、”エリザ”じゃなく”リゼット”だった。
胸の高鳴りが落ち着く前に、火事の喧騒が意識を引き戻した。
「アルベルト、寮は……」
彼の手の力が緩み、寮に視線を向ける。
炎の勢いは衰えず、四階まで到達している。
バケツでの消化は、あまり効いていないようだった。
寮を呆然と見つめたまま、アルベルトが呟いた。
「寮はもう、駄目かもしれない……」
炎が夜空を焦がしている。
風が強くなっていた。
「……いいえ。まだ、終わってないわ」
「リゼット、何をする気だ?」
アルベルトの手の中で、体の向きを変えて寮を見据える。
燃え続ける寮。
バケツを運ぶ人々にも疲労が見える。
寮の傍に、あるものを見つけた。
呼吸を整えて、頭の中に鎮火させるイメージを作る。
「水の精霊よ、深き底より目覚めて――その流れを解き放て」
「……なんだ? 何も起きないが……」
次の瞬間、突然地面が震え出す。
地震だと誰かが叫ぶのが聞こえた。
直後、寮のすぐそばから、水柱が上がった。
その高さは四階建ての寮を優に超えていた。
上がり切った大量の水は、弧を描いて寮に流れ落ちる。
「な、なんだあれは!?」
「井戸だ、井戸から水が噴き出してる!」
水柱は、離れた場所の井戸から吹き上がっていた。
絶えず吹き上がり続ける井戸水は、寮の炎の勢いを押さえつけている。
ジュウッ、という音とともに白い煙が上がっていく。
「おい、火が……火が消えていくぞ!」
「今だ! 水をもっと運べ!」
周囲の人々の目に力が戻り、バケツが次々に運ばれていく。
アルベルトを見上げると、信じられないものを見るような目で寮を見ていた。
彼はハッとして、私をベルトに付けてバケツの列に向かう。
彼のコートの隙間から、炎がおさまっていく寮が見えた。
井戸からの水はバケツを運ぶ人々にも、雨のように降り注いでいた。
その雨が、近づいても熱さを感じさせなかった。
****
やがて、寮の火事は鎮火した。
井戸水の勢いもおさまり、今は少し溢れるくらいになっている。
地面は水浸しで、歩くたびに水音がする。
火事がおさまった後は、慌ただしかった。
団員の被害の把握、避難先の確保……。
第二部隊は、今回の火災原因の調査も任された。
空が明るくなってから、ルーカスと調査に出かけた。
寮の周りはまだ水浸しで、焦げ臭い。
「火事はまた魔女の仕業なのに、調査なんて必要あるんですかね?」
寮の周りを調べている時に、ルーカスが言った。
「……魔女か。本当にそうだろうか?」
「あいつらに決まってますって。魔女なんて火事の一つや二つ、平気で起こしますよ」
ルーカスの反応は普通だ。
私自身、リゼットと出会った時はそうだった。
けれど、彼女と過ごした日々が、魔女をひとくくりにすることに抵抗を感じさせる。
「……いや、そう判断するのは、きちんと調べてからだ」
「隊長は、魔女を庇うんですか?」
「そういうことを言ってるんじゃない。……決めつけは、真実を見誤る」
ルーカスは納得していない声を出したが、調査は真面目に行っていた。
けれど、結局原因は分からなかった。
一晩中動いていた体に、さすがに疲労が滲んでいた。
早めの帰宅を促され、自宅に着く。
ぬいぐるみを外して、机に置く。
「リゼット」
もう一度呼ぶが、返事はない。
窓の外を見ると、まだ夕方だったことに気付いて、ため息をついた。
清潔なタオルで、ぬいぐるみの顔を拭く。
昨夜のことで、全身が黒ずんでしまった。
あの時――自分の鞄を置いた場所が燃えていたのを見た時は、血の気が引いた。
ぬいぐるみがエリザの形見で、大切であることに変わりはない。
けれど、あの時はリゼットのことしか頭になかった。
リゼットを失うかもしれないと……気付けば体が動いていた。
あの時の魔法についても、聞きたいことが多くある。
夜になるのが、待ち遠しい。
それから数日が過ぎた。
あれからリゼットは喋らない。
「リゼット」
俺の声だけが、部屋に虚しく響く。
彼女は、ぬいぐるみの体から抜け出せて、帰ったのだろうか。
ぬいぐるみを見て、ため息をつく。
今日、火事の時に井戸水が噴き出したのは、自然現象だと報告を受けた。
「あれは、リゼットの魔法じゃなかったのか……?」
ぬいぐるみに問いかけるが、返事はない。
そのことが、なぜか胸を苦しくさせた。
それから、さらに数日が過ぎた。
変わらない日常。変わらない部屋。
――ただ一つ、違うのは。
机の上のぬいぐるみに、声をかけることが増えたことだった。
「……馬鹿みたいだな」
自嘲気味に呟いて、椅子に腰を下ろす。
最初は危険な魔女だと思って警戒した。
けれど、兄の名を呼ぶ彼女に、なぜかエリザを重ねた。
それだけじゃなかったのだと、今は分かる。
それが、いつしか一緒に過ごすことに心地よさを感じて。
エリザのぬいぐるみに入った魔女だからではなく、リゼットが気になるようになっていた。
いつか元の姿に戻れた時には、会ってみたいとも思えるくらいに。
こんなに突然の別れが来るなんて、思ってなかった。
机の上のぬいぐるみを撫でる。
「……挨拶くらい、しろ」
「なんの挨拶?」
「勝手にいなくなったら……は?」
ぬいぐるみが、首をかしげている。
胸の奥に明かりが灯ったようだった。
「残念だけど、いなくなってないわよ」
「……リゼット、なのか?」
「えぇ」
****
返事をした瞬間、彼が目尻を下げて微笑んだ。
すぐに咳払いをして引っ込めようとしていたが、口元はわずかに緩んだままだ。
その顔に、胸が落ち着かない。
あの水の魔法を使った後、突然体が動かせなくなった。
夜もずっとただのぬいぐるみのままだった。
アルベルトは、そんな私に毎日話しかけていた。
「リゼット」
「悪ふざけは、よせ」
「……いないのか?」
「また、魔法を見せてくれないか?」
「おやすみ……リゼット」
私を呼ぶ声に、応えることが出来ない。
寂しそうな彼の表情に胸が締め付けられた。
体を動かして、自分の体を確認する。
「凄い……火事の時あんなに汚れてたのに、すっかり綺麗になってる」
「当然だ。エリザの大事なぬいぐるみだからな」
彼は気付いているだろうか?
火事の後から、彼はぬいぐるみに「エリザ」と声をかけたことは無かったことを。
「そうね、大事なものだものね」
「あぁ」
「あの……そういうわけで、まだここに居てもいい?」
彼は小さく息を吐く。
「……今さら、何を言ってる。戻れる方法が見つかるまで、ここにいろ。むしろ……いや、何でもない」
「ありがとう! じゃあ、改めて……これからもよろしくね」
「あぁ」
私は彼の大きな手と握手した。
温かくて、大きな手だった。
いつか、この手と離れなければいけない。
これ以上、彼に気持ちが向かないようにしようと、そう心に決めた。




