第2話 ガラスのステップ
劇場の裏口を抜けた瞬間、空気が変わった。
暖かかった。
シオンは思わず立ち止まる。
廊下の床は磨かれていて、天井照明が白く反射している。
外とは匂いまで違った。
酒。
香水。
機械油。
甘い食べ物。
シオンは無意識に周囲を見回す。
視線が落ち着かない。
ローズはそんなシオンを振り返る。
「こっち」
シオンは慌てて後を追った。
廊下の途中で、スタッフらしい男とすれ違う。
男はローズを見るなり姿勢を正した。
「お疲れ様です、ローズ」
ローズは軽くうなずくだけ。
シオンには視線すら向けない。
それが逆にありがたかった。
「……人気者なんだ」
歩きながらシオンが言う。
「仕事だから」
「みんな、あんた見る時ちょっと緊張してる」
「そう?」
「気づいてないの?」
ローズは少し黙った。
「気にしたことない」
エレベーターの扉が開く。
二人が乗り込む。
シオンは壁際へ寄った。
鏡張りの内装に、自分の姿が映っている。
汚れていた。
場違いだった。
ローズは前を向いたまま言う。
「汚れてるのは服」
「……」
「君自身じゃない」
シオンは返事をしなかった。
代わりに鏡から目を逸らした。
最上階で扉が開く。
ローズの部屋は劇場の上にあった。
静かだった。
広すぎるくらい広い。
白い壁。
黒いソファ。
大きな窓。
生活感が薄い。
ホテルみたいだった。
シオンは入り口から動けなかった。
ローズが靴を脱ぐ。
動作が綺麗すぎて、シオンは少し笑いそうになる。
「なに」
「……いや。なんか全部綺麗だなって」
ローズは自分の手を見る。
「毎日整備されるから」
その言い方が少しおかしくて、シオンは小さく吹き出した。
ローズは数秒遅れて首を傾げる。
「今の、笑うところ?」
「うん」
「学習する」
真面目だった。
シオンは今度こそ笑った。
ローズはキッチンへ向かう。
「食べる?」
シオンの腹が反応した。
恥ずかしくなるくらい大きな音だった。
ローズはそちらを見る。
「正直」
「うるさい……」
ローズは冷蔵庫を開ける。
中は妙に整っていた。
並び方まで正確だった。
数分後、温かいスープがテーブルに置かれる。
シオンは固まった。
湯気が立っている。
こんなちゃんとした食事、いつぶりか分からなかった。
「食べない?」
シオンはスプーンを掴む。
熱い。
塩味がする。
ちゃんと美味しい。
シオンは夢中で食べた。
途中でローズを見る。
ローズは向かいに座ったまま、じっとこちらを見ていた。
「……食べないの?」
「私は必要ない」
「腹減らないの?」
「減る機能はある」
「あるんだ」
「人間に近づけるため」
ローズは淡々と言う。
「でも栄養は必要ない」
シオンはスープを飲み込む。
少し考える。
「じゃあ、美味しいとかも分かるの」
ローズは止まった。
「分析はできる」
「好き嫌いは?」
「……まだ曖昧」
シオンはスプーンを置いた。
「じゃあ今のは?」
「今?」
「このスープ」
ローズは少し考える。
長かった。
まるで、本当に答えを探しているみたいに。
「君が、美味しそうに食べてるのを見るのは嫌じゃない」
シオンは黙る。
胸の奥が少し変な感じになる。
だから誤魔化すみたいに言った。
「変なの」
「よく言われる」
食事が終わる頃には、雨音が遠くなっていた。
ローズが立ち上がる。
「踊る?」
シオンは目を瞬かせる。
「今から?」
「嫌?」
「……嫌じゃない」
ローズは部屋の中央へ歩く。
壁一面の鏡。
天井スピーカー。
ここが練習室なのだと分かった。
音楽が流れる。
静かなピアノ。
ローズがシオンへ手を差し出す。
「まず歩き方」
「ダンスなのに?」
「全部そこから始まる」
シオンはぎこちなく手を取った。
ローズの手は相変わらず少し冷たい。
「肩の力を抜いて」
「難しい」
「呼吸」
「してる」
「浅い」
「そんなの分かるの?」
「心拍数が上がってる」
「……便利だな」
ローズは真面目に答える。
「多分」
シオンはまた笑った。
その瞬間だった。
ローズの動きが止まる。
ほんの一瞬。
視線だけがシオンへ向く。
「なに」
「……いや」
ローズは言葉を探すみたいに沈黙した。
「君、よく笑う」
シオンはきょとんとする。
「変?」
「分からない」
ローズは静かに言う。
「でも、多分。悪くない」
その夜。
シオンはソファを借りた。
柔らかすぎて落ち着かない。
暗い部屋。
窓の外にはネオン。
シオンはいつもの癖で、靴を履いたまま眠ろうとした。
「脱がないの」
ローズの声。
シオンは反射的に身構えた。
「……すぐ逃げられるから」
ローズは少し黙る。
「ここから?」
「どこでも」
シオンは視線を逸らした。
「寝てる時、物取られたことあるし」
静寂。
ローズは何も言わない。
ただ、部屋の照明を少し落とした。
「この部屋で、君の物を取る人はいない」
シオンは返事をしなかった。
信じきれなかった。
でも。
靴を履いたまま眠るのが、少しだけ馬鹿らしく感じた。
シオンはゆっくり靴を脱ぐ。
それを見たローズは、小さくうなずいた。
数分後。
シオンはソファで眠っていた。
誰かのいる部屋で、安心して眠ったのは初めてだった。




