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第9話 石咲アンナの釣り

 石咲アンナは有島修司が河野みちるに告白されているのを、見た。


 見たその日から修司を避けるようになった。


 ———でも有島さんそれって縛られてません?

 ———石咲さんにキープ扱いされてますよ。


 河野みちるが有島修司に言った言葉がずっと頭の中を反芻している。

 自分はそんな女だったのかと気づかされた。

 自分がどんなに最低な女だったのかと気づかされた。

 やっぱり、自分は最低だと思った。


 周りからは美人だ、完璧だと思われている偽りの自分が嫌いだった。自分をさらけ出せない自分が嫌いだった。


 そのくせ自分から離れていく人間は引き留めたがる。そんな我儘な自分が大っ嫌いだ。

 その事実をようやく突きつけられて、ようやく受け入れられるようになった。

 彼には自分よりもっとふさわしい人間がいる。男の気持ちに向き合わず、キープをして優越感を得るような自分なんかより、あの河野みちるのような自分の気持ちを正直に伝えるような子の方が百倍いい。


 相手の気持ちどころか、自分の気持ちにすら向き合わない。


 そんな女の何処がいいんだか。


 ◆


 キィー……!


 近所の湖の駐輪場。

 そこに石咲アンナは自転車を停める。

 肩に釣り竿がはみ出たリュックサックを下げ、真っ白なワンピースを揺らし、麦わら帽子が風で飛ばないようにキュッと深く被った。

 ピロンとリュックの横ポケットに入れているスマホにメッセージが届く。相手は絵潟春で『ねぇ今日もリョウちゃんの部屋来ないの?』とある。アンナはそれを未読無視した。気が付けばラインのアプリの未読通知が20件も溜まっている。


「今日は釣れるかな……」


 そんな思いを胸に湖のほとりに立ち、いつものようにミミズを釣り針にさし、水面へと投げ入れる。そして二番目の兄からのお下がりの折りたたみ椅子を開き、腰かける。


 一人だ。


 静かにただ水面が揺らめき、太陽を反射してキラキラと輝くこの光景。

 これが私は嫌いじゃなかった。

 だから、別に釣り自体は好きじゃないが、こうして水のほとりに腰を掛けるのは好きだ。


「釣れますかな?」


 誰かが近くにいるとは思っていなかったので心臓が飛び出るかと思った。

 そろりと横目を隣に向けると、杖をついたおじいさんがそこに立っていた。

 この人……! この間私が水の中に入った時に怒鳴り込んできた人だ!


「釣れんでしょう? この湖は近くの奴らがみんな釣りに来る。だから魚も賢くなっとるんですよ」


 だが老人はアンナに気が付いていないのか、そもそも顔を覚えていないのかにこやかに水面を見ながら話しかけてくる。


「は、はい。釣れないですね。ルアーじゃなくて餌釣りしてるんですけど、それでも釣れないです」


 アンナは顔を見られないように麦藁帽子のつばを下に引きながら答える。


「ほ? 確かに……」


 老人はアンナの座っている椅子の横に置いてあるプラスチックパックを見る。そしてそれを見ると納得したように。


「下手なルアー釣りなら魚にミミズだと思わせることができませんが、ミミズそのものを使っている餌釣りなら魚にとっては魅力的に見えるでしょう。ならいつかは釣れます。気長に待つべきですな」

「それでも釣れなかったら?」

「む?」

「おじいさん。実は私、一度も釣れたことがないんです。男友達に付き合って釣りのやり方は覚えたけど。私って運がとても悪いみたいで……友達のエサには魚が食いつくんですけど、私の餌に魚が食いついたことは一度もない。いや、食いつかれたことはあったかな? ちょんちょんって餌の端をつついている反応はいつもしていて。でも……いつも選ばれないから、ハハ……ッ、いざ選ばれそうになると焦って引き上げちゃうんです」

「逃げ癖があるんですな」

「……そうかもしれません。いつもそうなんですよね。いつも待つばかりの癖に、いざ相手が来たら怖くなる」

「ふむ。なら逆にルアー釣りに切り替えるという手もありますな」

「無理ですよ。いつもみんながやっているのを見ていただけで、自分からやろうなんて思ったことがないんですから。簡単な餌釣り(これ)しか、やったことがないんですから」

「それでも。今までのやり方でダメなら、やってみたらいい。やってみると意外と釣れるもんですよ。待つだけが釣りじゃありません」

「……釣れますか?」

「釣れます。必ず」


 アンナは竿を上げた。そこには水につかってふやけて白くなったミミズが針に刺さったままだった。アンナはリールを巻いて釣り針からリュックの中に納まっていたルアーを取り出し、切り替える。

 昔の友達とおそろいの銀色のミノーのルアー。それを結び付けた竿を、アンナは振るった。

 立ち上がり、ジッと糸の先を見つめながら。


「ん? あんたはこの間水ん中入っていたクソガキ……!」


 老人はアンナの顔を見て、眉尻を上げて杖を振り上げる。

 だが、一心不乱にリールを巻き、竿を動かす彼女の姿を見て、毒気を抜かれたように杖を振り下ろした。

 一投目は何も釣れなかった。

 アンナは、少し右に歩き、先ほどとは別の場所に二投目を投じた。

 老人は何も言わずに、アンナが何投(なんとう)何投(なんとう)も投げ続けるのを黙って見続けた。


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