152話 『空』
屠龍、すなわち龍を屠る剣。
その勁技を目の当たりにした俺は、あまりにも美しい太刀筋に思わず目を奪われてしまった。
八卦奥伝のように炎や雷をまとうわけではない。四象奥伝のように神獣を象ることもない。両儀奥伝のように天地を撼るがすわけでもない。
それはただの斬撃だった。
ただの人間が龍を斬るために編み出され、磨き上げられ、引き継がれてきた一刀だった。人間が到達し得る究極の剣というものを形にすれば、こうなるのではないかと思わせる閃き。それが目に焼きついて離れない。
おそらく鬼界に行く前に見ても、この勁技の真髄を理解することはできなかっただろう。
赤茶けた砂礫の大地に穿たれた龍穴と、その龍穴から天を衝くように伸びた人面蛇身の巨躯。アレを見たからこそ、幻葬一刀流の創始者がどれだけの研鑽を積んでこの勁技を編み出したのかを理解できるのである。
むろん理解できるからといって斬撃を止められるわけではない。
天の鎖と地の棘で身動きを封じられている状態では防御も回避も不可能だ。今の俺にできるのは、迫り来る剣が自分の身体を断ち切るその瞬間まで太刀筋を見据え続けること、ただそれだけだった。
――惜しい。
我知らずそう思う。屠龍の剣は美しく、俺にとって限りなく理想に近い一刀だったが、決して理想そのものではない。
何故なら俺の理想は剣聖を討つ剣だからだ。龍を討つための剣は俺にとって理想の剣たりえない。
そこまで考えたとき、俺の脳裏に閃くものがあり――次の瞬間、その閃きは一陣の剣風と共に微塵に砕け散った。
斬、と。
右肩から左腰にかけて駆け抜けた剣聖の一閃は、身体を縛めていた鎖と棘ごと俺を斜めに両断した。
そして、返す刀で心装の黒い刀身をも叩き斬る。
「ぐ――かはッ!」
臓腑もろとも身体を斜めに裂かれた激痛と、魂の具現たる心装を砕かれた衝撃。かつて感じたことのない悪寒をおぼえた俺は、喉の奥からせりあがってくるものを飲み下そうとして果たせず、口から大量の血を吐き出した。
同時に、宙づりにされていた俺の身体は束縛から解き放たれ、地上めがけて落下していく。
普段であれば何ということもない高さだったが、今の俺にとっては致死の墜落だ。心装が砕かれてしまってはソウルイーターの復元も働くまい。
俺は頭から地面に叩きつけられる寸前、最後に残った勁をふりしぼって薄氷のごとき勁を展開する。そうやって落下の衝撃を弱めた直後、頭蓋を揺らす衝撃と共に俺の身体は地面に激突した。
「があッ!?」
すさまじい衝撃が、ただでさえ激痛に苛まれていた身体をさらに痛めつけてくる。意識を失わなかったのはほとんど運の領域だった。
地べたに仰向けに転がった俺の視界に鬼ヶ島の空が映し出される。高みにあってこちらを見下ろしている父の姿も見えた。
朦朧とする視界のせいで、父の顔はかすんで見えない。
かわりに俺の脳裏に浮かんだのは、額に角を生やした少年の顔と、鬼界での修行を終えた最後の日の記憶だった。
◆◆
「『空』を会得するために必要なこと?」
西都の城壁に腰かけたカガリが俺の問いを受けて難しい顔をする。
このとき、俺は四劫のうち三つまでは会得していたものの、最後の『空』については取っ掛かりすら得られていない状態だった。
もともと四劫――勁打は鬼人族の中でも秘伝とされている武術であり、人間である俺に手ほどきはしないと言われていた。『空』以外の三つにしても、四兄弟との死合の中で俺が独自に会得したものであり、カガリ達から助言をもらったわけではない。
俺自身、カガリたちに助言を請おうとはしなかった。それなのに最後の死合後にカガリに『空』のことを尋ねたのは、気まぐれに類するものだった。
まあ正直、もしかしたら気の良い末弟殿が餞別代わりにヒントをくれるかも、と期待したことは否定しないが、それも本気のものではない。カガリが拒否すればすぐに話を引っ込めるつもりだった。
その俺に対し、カガリは何やら思い悩む様子を見せる。
「うーん、ハクロ兄から必要以上に助言をするなって言われてるからなあ……ただでさえ空が一か月で『成』も『住』も『壊』も会得したせいで、俺やドーガ兄がこっそり助言してるんじゃないかと疑われてるところだし。このうえ『空』まで会得された日にはハクロ兄に何て言われるか」
カガリは否定的な言葉を口にしつつも、うーんうーんと迷うように首をひねっている。
そんな相手を見て、これは脈があるかも、と思った俺はさりげなく言葉をつけくわえた。
「もちろん無理にとは言わないが、俺が四劫を極めることができたら、カガリとの死合も今まで以上に白熱するだろうなあ」
「ぐ……それは確かにそうなんだよ! 空との『空』の撃ち合いとか、考えただけでぞくぞくするっ」
カガリがぶるりと身体を震わせる。中山四兄弟の末っ子は決して戦闘狂というわけではないが、血の気が多いことは否定できない。
ややあってカガリは意を決した様子でキッと俺を見据えた。
「よし、わかった。空が『空』を会得するために必要なことを教えてやる!」
「おお!」
何事も言ってみるものだ、と思いつつ俺は期待を込めてカガリを見る。
そんな俺にカガリは力を込めて言った。
「『空』に必要なのはただ一つ、自分自身を知ることだ」
「自分自身を知る? 何か哲学的なことか?」
「いやいや、そんな小難しい話じゃないさ」
カガリはひらひらと手を振って笑う。
が、すぐに表情を真剣なものにあらためて俺を見た。
「前にもちらっと言ったけど、一口に四劫と言っても『空』とそれ以外の三つは別物だ。『成』も『住』も『壊』もそれぞれに型があるけど『空』にはそれがない。なにせ『空』は同源存在を通じて使い手の望みを形にする奥義だからな、使い手の数だけ『空』があるのさ」
そう言うと、カガリは教師よろしくピッと人差し指を立ててみせた。
「たとえば、強くなりたいと望む使い手が二人いるとする。こいつらの『強くなりたい』という望みは同じだ。けど、何のために強くなりたいのかによって力の顕れ方は異なってくる。敵を倒すために強くなりたいと思う奴は攻めに特化した『空』を会得するだろう。反対に、味方を守るために強くなりたいと思う奴は守りに特化した『空』を会得する」
同じ望みを持つ者でも会得する力は正反対になる。だからこそ、『空』を会得するためには自分自身を正確に知らなければならない。漫然とした望みを抱いているだけでは、使い手も同源存在も望みを形にできないからだ。
そこまで語ったカガリは、ここで声の調子を変えて軽く肩をすくめた。
「まあ、中にはそこらへんをくみとってくれる同源存在もいるんだけどな」
「そうなのか?」
「ああ。鬼人の中にも四劫を極めずに空装を会得した奴はいる。というより、そっちの方が多いな。同源存在との相性が良いとそういうこともあるんだ。ただし、そういう奴の空装は不完全な場合がほとんどだけどな」
不完全な空装と聞いて、反射的にウルスラの顔を思い浮かべる。ウルスラは空装を使えるが、その力が不完全なものであることは当人も認めていた。
ウルスラはそれを自身の力量不足ゆえと考えていたが、ひょっとすると原因は他にもあったのかもしれない。
そんなことを考えながら、俺はカガリから聞いた話をもう一度脳内で咀嚼する。
カガリの言わんとすることはわかるし、それは正しいという直感もある。だが「父を倒す」という明確な望みを持つ俺は今に至るも空装を会得できていない。俺の同源存在殿は今日まで空装を求めるこちらの要求をことごとく拒んできたのだ。
これはどういうことなのか。俺が眉根にしわを寄せて考え込んでいると、不意にカガリが口をひらいた。
「俺が思うに、空は難しく考えすぎだと思うぞ」
「なに?」
「最初に言っただろ。必要なのは空自身を知ることだ。同源存在も親父殿も関係ない。まっすぐに自分のことだけを見据えてみろ」
カガリは言う。
同源存在とは心の中、魂の奥に棲むもう一人の自分。いかなるごまかしも欺瞞もきかない裸の本性。
なればこそ、使い手が心からの望みを抱いたとき、それは必ず同源存在の望みと重なる。
重ならないのであれば、何かが使い手の望みを歪めているのである。自分自身を知るということは、その歪みを明らかにすることだ。
カガリはそう言ってにやりと笑ってみせる。
ここまで語ったのだから、必ず『空』を会得して自分とまた死合をしてくれよ。闊達な笑みがそう物語っていた。
◆◆
――自分自身を知る、か。
朦朧とする意識の中で過日のカガリの助言を思い返す。
あの後、幾度か頭をひねったものの、結局空装を会得するには至らなかった。今になってようやくその理由に思い至る。
父を倒すという望みは明確だった。だが、倒すといっても色々ある。剣で上回ってそれでよしとするのか。叩きのめして膝をつかせたいのか。首をはねて殺してしまいたいのか。
父に対する俺の感情は複雑だ。幼い頃は憧れ、長じては畏怖し、追放されてからはいつか見返してみせると念じ続けた。そして今は父を超えたいと願っている。
時に敬い、時に畏れ、時に恨み、時に挑み――父に向けた俺の感情を形にしたら、ひどく歪な像ができあがるに違いない。
はっきり言えるのは、物心がついてから御剣空の心の中には常に父の存在があったということだ。敬意も畏怖も怨恨も超克もすべてが本物。俺の望みは父に認められることであり、父を見返すことであり、父を斬ることであり、父を超えることである。
こんな複雑怪奇な望み、いくらソウルイーターといえども叶えられるわけがない。俺自身、自分の望みに明確な形を与えることができなかった。ゆえに俺は今日まで空装を会得することができなかったのである。
だが、俺は確かに見た。自分の望み、自分の理想にかぎりなく近い屠龍の一刀を。
屠龍は龍を屠るために編み出され、歴代の御剣家当主が受け継いできた破邪の剣だ。その剣を父を討つ剣へと変換する。俺にとっては龍など二の次三の次であり、何よりも優先するのは父の撃破だ。ソウルイーターに見せられた過去の出来事、過去の人物のことを思い出してもその気持ちは変わらない。
今現在、屠龍を扱える剣士はおそらく父ひとりだけ。俺が父と戦い、鬼人族と御剣家が相討った結果、龍が復活して大陸を滅亡に追いやる可能性もあるだろう。
だが、それがどうしたというのか。
真に大陸の平和を憂うなら、こうして父と戦う前に打つ手はいくらでもあった。鬼人族に自重をうながし、御剣家に過去の真実を真摯に訴え、両者の間を取り持つことで平和的に事態を解決することも不可能ではなかっただろう。少なくとも、それを試みることはできた。
だが、俺はその手段を選ばず――もっと言えば考慮すらせず、父と戦える状況を整え、父と戦っても良い理屈をこねあげ、こうして戦いを挑んだのである。世界がどうなろうと、龍がどうなろうと知ったことではなかった。俺はただただ父と戦いたかっただけ。エマ様に恨まれたくないと息子に情けをかけながら、その夫と戦うことに微塵もためらいをおぼえなかった。
あまりと言えばあまりに歪なその精神。
この戦いは俺の私欲に端を発した私戦である。俺はそのことをはっきりと認めた。
同時に、どれだけ私欲に満ちていようとも、父と戦い、これを倒すことが自分の望みであることを自覚した。
――自らの歪な望みを自覚し、その望みをかなえる理想の剣を思い描く。
このとき、俺の中で初めて『それ』は全き形を得た。
すでに勁は尽き、心装は折れ、身体は死に体。だが、それがどうしたというのか。もとよりこの身は空っぽのがらんどう。振り出しに戻ったと思えば懐かしくさえある。
「ぐ……くぅぅ!」
地べたに横たわったままの身体を叱咤し、歯を食いしばって立ち上がる。そして、ともすれば倒れそうになる身体で懸命に地面を踏みしめながら空を見上げた。
己を見下ろす父と目が合う。視界が朦朧としていた先ほどとは違い、今度ははっきりと目が合った。
路傍の石ころを見る目ではない。確かな戦意を満たし、明確に俺を敵と見定めた剣士の目だ。その事実に我知らず身体が――心が震える。
俺はぐっと奥歯を噛み、こみあげてくるものを飲み下すと、真っ向から父の目を見返した。
そして、折れた心装の柄を握る右手に力を込める。どくん、どくん、と俺以外の何かの鼓動が柄を通して伝わってきた。
「父上。僕は今こそ貴方を超える」
強い決意と、ほんの少しの感傷を込めて言い放つと、刀身が半分になった心装を構える。
そして、俺はその言葉を口にした。
――空装励起