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137話 クィントス家


 激しい剣戟けんげきの音が修練場にこだましている。


 御剣家は柊都しゅうと内部に複数の修練場を所有しており、通常、それらは青林八旗が共同で使用している。だが、柊都しゅうと北東に位置するこの修練場は例外的に使用部隊が定められていた。


 例外が許された部隊の名は青林第三旗。


 三旗は青林八旗の中でも指折りの精鋭集団として知られており、その武勇と功績を認められて式部から専用の修練場を与えられていた。当然、いま修練場で剣を打ち交わしているふたりも三旗の旗士である。


 木刀ではなく心装によっておこなわれる打ち合いは、一歩間違えれば命を失いかねない危険を帯びているが、当人たちはまったく意に介していない。


 それどころか、剣を交えるたびに両者の剣戟は速く激しくなっていった。



「はあああああ!!」


「おおおおおッ!!」



 ガギンッッ! と甲高い音をたてて心装同士が激突する。


 両者の心装から発される光は、片や黄金、片や漆黒。目にも留まらぬ速さで打ち交わされる二色の斬撃は華やかな迫力に満ちている。


 激しい擦過さっかおんをまき散らしながらしのぎをけずる両者の斬り合いは、すでに五十(ごう)を超えて六十(ごう)に近づきつつあった。


 このまま斬り合っていてもらちが明かないと判断したのか、あるいは初めから申し合わせがあったのか、ふたりの旗士は同時に抜刀の文言を口にする。



「刈り取れ、ハルパー!」


千切ちぎれ、オルトロス!」



 使い手の意思に従い、それぞれの心装が変化を遂げる。


 黄金の心装は巨大な鎌に。漆黒の心装は双頭刃そうとうじんに。


 双頭刃は二本の刀を柄頭つかがしら――柄の先端部分――で重ね合わせ、両端に刀身を配した特殊な刀である。通常の刀とは一線をかくした攻撃が可能になるが、使いこなすには相当な習熟が求められる。


 双頭刃そうとうじんを持った心装使いはニヤリと楽しげに笑った。野性味を感じさせるりの深い顔立ちは自信に満ち満ちている。その自信が確かな実力に裏打ちされていることをハルパーの心装使い――御剣ラグナは良く知っていた。



「ラグナ様、参ります」


「来い、ルキウス!」



 青林第三旗の副将ルキウス・クィントスは心装を腰だめに構えるや、地面を蹴り砕く勢いで両足に力を込め、一気にラグナに肉薄した。


 ラグナの大鎌は長柄ながえ武器。敵に懐に入られてしまうと取り回しが難しくなる。一方、両端に刃を備えたルキウスの双頭刃そうとうじんは接近戦でこそ真価を発揮する武器だった。


 舞うように双頭刃そうとうじんを操りながら、息もつかせぬ連続攻撃でラグナに後退をいていくルキウス。


 防戦一方に追い込まれたラグナは、しかし、慌てることなく的確にルキウスの攻撃を受けとめ、受け流し、あるいはかわして、相手の刃が身体に触れることを許さない。それを見たルキウスはわずかに口角をあげると、一気に全身のけいを高めて勁技けいぎを解き放った。



「幻想一刀流 かり!」



 至近距離から放たれる炎の勁技けいぎ。猛火が渦を巻いてラグナに襲いかかる。


 容赦などかけらもない一撃だったが、ラグナは巧みに心装を操り、鎌の刃で無造作に炎の渦を叩き割った。


 ハルパ-は不死の魔物や巨人種さえ葬り去る心装だ。いかに第三旗の副将が放った勁技けいぎといえど、ハルパ-の刃にかかれば野辺のべ焚火たきびと変わらない。炎の渦は一瞬のうちに搔き消え、焦げたような臭いがルキウスの鼻腔びくうを刺激する。


 自身の攻撃がしのがれたことを確認したルキウスは素早く地面を蹴って後方に飛び、ラグナと距離をとった。そして、稽古の終了を告げるように顔に笑みをたたえて言う。



「お見事です。勁技けいぎに対する反応も申し分ありません」



 短く、けれど心からの賞賛を口にしたルキウスだったが、言われた方は素直に賛辞を受け取らなかった。


 ラグナは厳しい視線でルキウスを見据える。



勁技けいぎといっても奥伝おうでんはおろか中伝でさえなかったではないか。なぜ奥伝おうでんを使わない? これでは子供の稽古と変わらない」



 不満もあらわに抗議してくるラグナを見て、ルキウスは相手の客気かっきを抑えるようにからからと笑う。



「ラグナ様、幻想一刀流は破邪の剣にして護民の太刀。初伝程度ならともかく中伝、ましてや奥伝おうでんは稽古相手にぶっぱなすものではありませぬぞ」


「しかしだな」



 何か言い返そうとしたラグナを制するように、ルキウスは悪戯っぽく口の前に人差し指を立てた。



「ここは柊都しゅうとの中ですよ、ラグナ様。いくら人払いしたとはいえ、抜刀した上に奥伝おうでんを打ち合ったりすれば、けいのうねりをごまかしようもありません。たちまち奥方エマ様や許嫁アヤカ殿の耳に入ってしまいます。先日も無茶をするなと叱られたばかりでしょう?」


「……む」


「俺も俺で親父殿に拳骨をもらいたくはありませんのでね。秘密の稽古は秘密の場所でするのが男のたしなみというものです」



 そう言ってぱちりと片目を閉じるルキウスに、ラグナは不満そうな顔をしながらも言い返さなかった。


 もともと本気で不満をおぼえていたわけでもない。ラグナはルキウスに対して何かと不満を口にするが、それはルキウスならどんな不満をぶつけても受けとめてもらえるという信頼――肉親に対する甘えのようなものだった。


 肉親といっても両者の間に血のつながりはない。しかし、ルキウスの父ゼノンはラグナの傅役もりやくであり、その息子であるルキウスも小さい頃からラグナに近侍きんじしてきた。ふたりはそれこそ兄弟のように育てられてきたのである。


 実際、ラグナは実の兄などよりもはるかにルキウスを慕っており、また頼りにしていた。だからこそ母や許嫁、あるいは同期生たちには言えないようなことも言ってしまう。


 先の御剣空の帰郷以来、胸をさいなむ重苦しい感情を払えずにいるラグナは、己の焦りと苛立ちを無関係のルキウスにぶつけてしまっていることを自覚して口をつぐんだ。


 そんなラグナにルキウスは優しい声音で告げる。



「今日の稽古はこのあたりにしておきましょう。まだまだとおっしゃりたいでしょうが、人でも物でも張りつめてばかりでは簡単に折れてしまうもの。肩の力を抜いて身体を休めるのも大切なことです。折よくここに芝居の券がありますゆえ、許嫁殿を誘って街に繰り出されてみてはいかがですかな?」



 そう言って懐からふたり分の入場券を取り出したルキウスを見て、ラグナは戸惑ったように目を瞬かせる。


 その芝居の券は最近柊都(しゅうと)で評判になっている一座のものだった。三旗で若い旗士たちが話題にしていたのをラグナも耳にしている。



「……ずいぶんと用意がいいな?」



 ラグナが怪訝そうに問いかけると、ルキウスはぽりぽりと頬をかいて明後日の方向を見た。



「いや、実は五旗の副将殿を誘うために用意したものだったのですが、先日あえなくそでにされてしまいまして。男ひとりで芝居見物でもありませんし、こうして取っておいたのです。このまま俺の懐で腐らせてしまうよりは、ラグナ様に使っていただいた方が有意義というもの。あ、券の期限は今日までですので、許嫁殿を誘うなら早い方がいいですよ」



 ルキウスがしれっとした顔で芝居の券を差し出すと、ラグナは渋面になりながらも券を受け取った。


 そして言う。



「要らぬ世話と言いたいところだが、助言はありがたくもらっておく――試みに問うが、本当に五旗の副将を誘うために芝居の券を買ったのか?」


「もちろんですとも」



 莞爾かんじとした笑みを浮かべるルキウスをラグナは黙って見つめていたが、ややあって根負けしたようにうなずいた。



「わかった。礼を言う」


「はい、ゆっくり楽しんできてください。親父殿には俺の方からうまいこと言っておきます」






 その後、修練場から立ち去るラグナを見送ったルキウスは、先刻の明るい態度とは打って変わって気づかわしげな表情を浮かべた。


 何かを案じるように眉根を寄せるルキウス。そのルキウスの背後から、不意に張りのある男性の声が響いた。



「若の様子はいかがであった、ルキウス?」


「あまりよくありませんな、親父殿」



 突然の声に驚く素振りも見せず、ルキウスは落ち着いた声音で応じる。くるりと振り向いたルキウスの視線の先には、父であるゼノン・クィントスの姿があった。


 癖のある髪の毛をはねるがままにしている息子とは対照的に、ゼノンは腰まで届く長い髪を香油で丁寧に撫でつけており、身体からは麝香じゃこうの匂いを漂わせている。青林八旗でも屈指の伊達男として知られる父を前に、ルキウスは小声で付け加えた。



「焦りが胸を去らぬ様子。やはり、先の一戦で不覚をとったことが心のきずとなっているのでしょう」



 それを聞いたゼノンは短く「そうか」とうなずいた。その顔にはルキウスと同様、ラグナを案じる色がある。


 過日の鬼人族との戦いで、ラグナは鬼神相手に剣を交えて深手を負った。そして、その鬼神はラグナの兄である御剣空によって討たれている。


 その事実がラグナに与えた影響は大きく、傷が治ってからというもの、ラグナは昼夜を問わずに鍛錬を重ねるようになった。襲撃以前のラグナも十分すぎるくらい鍛錬に励んでいたのだが、襲撃以後のラグナの鍛錬ぶりは何かにりつかれたかのように過酷を極め、寝食の時間さえけずっていた。


 見かねたゼノンとルキウス、それに母とアヤカのいさめもあり、一時期よりは落ち着いてきたように見えるが、それでもラグナが今なお焦燥にさいなまれていることをゼノンは察していた。


 三旗の旗将きしょうの口からため息がこぼれる。



「若は先ごろ二十歳を前に奥伝おうでんを修得なさった。将たるの資格を得たことは自信につながったはずだ。敗北によって失ったものを取り戻すことができると期待したのだがな」


「残念ながら、そうはならなかったようです。先ほども稽古で中伝、奥伝おうでんの使用を求められました。今のままでは足りないと考えておいでなのでしょう」


「焦りは目を曇らせ、判断力を鈍らせる。このままでは危険だな」



 ゼノンの言葉にルキウスも深刻な顔でうなずく。心装使いといえど人間だ。ほんの少しの焦り、気の迷い、注意不足が原因で命を失った旗士は枚挙まいきょいとまがない。


 平時ならともかく、鬼人族が本格的な動きを見せている昨今の情勢を考えるに、今のラグナの状態は非常に危険だった。それこそ汚名返上のためにひとりで鬼人の軍勢に突入しかねない。


 小さく嘆息する父を見て、ルキウスは言いにくそうに口をひらいた。



そら殿の存在がラグナ様の焦りに拍車をかけているように見受けられます」


「さもあろう。己が敗れた鬼神を討ちとった――それだけでも意識せずにはいられない相手だ。それにくわえて、先だってはベルヒの策謀で危地におちいった同期生を助けるべく、敢然かんぜんと鬼人の将に挑みかかった。あの三日間の激闘を知らぬ者は青林八旗にひとりもおらぬ」



 ラグナもゼノンたちと共にあの戦いを南天砦なんてんさいから遠望していた。意識するなと言う方が無理であろう。


 あのときは当主式部(しきぶ)から手出し無用の厳命が出ており、また、空が戦っている理由も明らかになっていなかった。ベルヒ家の策謀と、空が鬼界に踏み込んだ経緯が明らかになったのは、空が鬼人の軍勢と共に姿を消して以後のことである。


 事情を知ったラグナは、すぐさまクリムトたちを助けるために鬼界におもむくことを望んだが、この願いは式部によって却下された。ゼノンも反対せざるを得なかった。鬼界の過酷さを考えれば、御剣家の嫡子にあてもなく鬼界をさまよい歩くような真似をさせるわけにはいかなかったのである。


 だが、事態を表面的に見れば、空は御剣家を勘当されてなお同期生のために死地におもむいた勇士であり、ラグナは嫡子であるにもかかわらず同期生のために動かなかった薄情者だ。先の鬼神との戦いを思い出して、ラグナの評価を下げた者はひとりやふたりではないだろう。


 今回の一件を経て、家中では空を嫡子の座に戻す動きが出始めているが、これは空に対する期待とラグナに対する失望が形をとったものと言える。


 ゼノンとしても座視できる状況ではなくなっていた。


 小細工をろうして今回の事態を招いたベルヒ家に対し、ゼノンが不満を抱くのは当然のことであったろう。


 ラグナを支持しているという意味で、ベルヒ家とクィントス家は同じ立場に立っている。そのため、一部の旗士たちは今回の一件にクィントス家も関わっているのではないか、と疑っている。


 そのこともゼノンの苛立ちをかきたてる一因になっていた。



「ギルモアめ。策士が策におぼれるのは勝手だが、こちらまで道連れにされてはたまったものではないな――それはさておき、若はどちらに行かれた?」



 錯雑さくざつとした思考を持てあましたゼノンは、小さくかぶりを振ってからルキウスに問いかける。


 気分を切り替えるためだったが、ルキウスの答えを聞いたゼノンは再び眉根を寄せることになった。


 もっとも、それは息子であるルキウスも気づかないくらいかすかな反応であったが。



「俺が芝居の券を渡しましたので、許嫁殿を誘いに行かれました」


「……ふむ」


「若の焦りは許嫁殿にも関わっておりましょう。空殿に奪われてしまうのではないか、と。幸い、許嫁殿は空殿にまつわる噂に関心を示しませんし、ラグナ様に対してもこれまでと同じように接してくださっている。そんな許嫁殿と共に芝居見物をすれば、ラグナ様のすさんだ心も癒やされるというものです」



 実はアヤカにも話を通してある、とルキウスは悪戯っぽく笑う。


 ラグナにアヤカを誘うように仕向けておいて、肝心のアヤカがラグナの誘いを断ったりしたら目も当てられない。この点、三旗の副将に抜かりはなかった。


 それを聞いたゼノンはと言えば、小さくうなずくだけでルキウスの案を良いとも悪いとも評さなかった。


 ゼノンは思う。


 たしかにルキウスの言うとおり、アヤカは空の話に関心を示さない。先の敗北と今回の一件でラグナに対する態度を変える旗士が出る中、アヤカの態度は一貫して好意的なままだ。ラグナに対しても、またゼノンやルキウスに対しても同様である。


 その意味でルキウスの言葉はまったく正しい。ゼノンの目から見ても、アヤカの態度に欺瞞ぎまんは感じられない。


 一方で、アヤカが許嫁という立場から動こうとしないことも事実だった。


 実のところ、これまでゼノンは何度かアヤカに対し、正式に婚儀を挙げて名実ともにラグナの妻になってはくれまいか、と持ちかけていた。ラグナがそれを望んでいることは明らかだったし、ゼノンとしてもアズライト家と正式につながりを持ちたかったのである。


 アズライト家は帝国でも有数の名家であり、その後ろ盾を得ることができればベルヒ家などと組む必要もなくなる。ゼノンはギルモアがラグナを傀儡かいらいにしようとしているのではないか、と疑っており、可能ならベルヒ家と手を切りたかった。そして、アヤカとラグナの婚儀をその第一歩としたかったのである。


 だが、この申し出に対してアヤカの返答はいつも同じだった。その返答とは、正式に婚儀を挙げるのはラグナが御剣家の当主になってからにしたい、というもの。アヤカによれば、これはアズライト家の強い意向であるとのことだった。


 今代の御剣家当主にはすでに一度嫡子を変えた前歴がある。アズライト家は再びそれが起こることを危惧しており、ラグナとアヤカの婚儀に二の足を踏んでいる、とアヤカは説明した。


 実際、アズライト家の当主からも書状が来た。


 貴族の世界において、政治状況によって許嫁が変わることはさして珍しくないし、後ろ指さされることでもない。だが、一度ひとたび誰かの妻になると誓った女性が、状況が変わったからといって夫を変えることは非難の声をまぬがれない。許嫁と正妻では立場がまるで違うのである。


 帝国三名門のひとつであるアズライト家は、外聞に対しても注意を払わなければならないし、そもそも婚儀を急ぐ理由もなかった。


 ゆえに、どれだけゼノンがラグナの立場が盤石であり、嫡子の座が揺らぐことはないと説明しても「それならばなおさら婚儀を急ぐ理由はあるまい。ラグナ殿が当主になってから正式に婚儀を挙げればよいではないか」と言われてしまうのである。


 そう言われてなお押し返せば、それこそラグナの立場が不安定であると白状するようなもの。ゼノンとしても諦めざるを得なかった。


 これだけ見ればアヤカは父親の指示に従っただけであり、ラグナに対して誠実を欠いたわけではない。ただ、アヤカがラグナの妻になるべく父親を説得しようとしなかったことも事実である。


 その点がゼノンの胸中に一抹いちまつの不審を植えつけていた。



「……父上、どうかなさいましたか?」



 難しい顔で考え込んでしまったゼノンを見て、ルキウスが不思議そうな顔をする。


 その声でハッと我に返ったゼノンは、今しがたの暗い思考を払い落とすようにかぶりを振った。



「いや、何でもない。ところでルキウス、この後に何か予定はあるか? ないのであれば稽古をつけてやってもよいぞ」


「おお、それは願ってもない! そろそろ父上に我が子に追い抜かれる悲哀を味わっていただきたい、と思っておりました!」


「ふふ、高言を吐くではないか。実力をともなわない虚勢であれば、ただでは済まないと思え」



 そんな言葉を交わしながら、クィントス家の父子が互いに不敵な笑みを浮かべながら向かい合う。


 そうして先刻に優る激しい稽古が始まろうとした、まさにその寸前、修練場にひとりの旗士が駆け込んできた。


 使者の印である腕輪をめたその旗士は、ゼノンとルキウスを前に緊張した面持ちで口をひらく。



「申し上げます! 御館様より、青林第三旗ゼノン様、ルキウス様、ならびに十位までの旗士は早急に大広間に参集するように、との御言葉でございます!」


「承知つかまつった。ただちに御意に従うと御館様にお伝え願いたい」


「かしこまりました! それでは御免ごめんッ」



 使者は一礼するや、きびすを返して足早に立ち去っていく。


 その姿を見送ったルキウスが低い声で話しかけてきた。



「……父上、何事でしょうか?」


「わからん。だが、旗将きしょう副将だけでなく、十位以上の旗士をすべて集めるとなると相当の大事であることは間違いない。それこそ敵襲であってもおかしくないが、警鐘は鳴っておらぬ」


「敵襲ではないが、敵襲に匹敵する何か、ということでしょうか。ともあれ、すぐに皆を集めて参ります。ラグナ様には申し訳ない仕儀になってしまいましたが……」


「仕方あるまい。あるいは鬼界で何か動きがあったのかもしれぬ。同期生の安否がわかれば、若の心労も少しは晴れよう」


「確かに。それでは父上、また後刻」



 そう言うとルキウスもまた足早に修練場を後にする。


 ゼノンはすぐに息子に続こうとしたが、自分でもよくわからない理由でその場で足を止めてしまう。ふと己の手を見やったゼノンは、わずかに指が震えていることに気づいた。


 恐怖? そんなわけはない。ゼノンはどんな敵を前にしてもじたことはなかったし、今も恐れなど感じていない。


 ならば、これは恐怖ではなく武者震いのたぐいだろう。何かが起こるという予感。何かと戦うという予兆。


 第三旗の旗将きしょうは震える手をぐっと握りしめると、唇の端を吊りあげるようにして小さく笑った。




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