第五十六話 強さの形
笑い声が聞こえてくる。ヒヒヒ、ヒヒヒという甲高い笑い声が。
おぞましくも不快な声。夢寐にこの声を聞くようになってから、ウィステリアに安眠というものはなくなった。
正直にいえば、同源存在の存在を知ってからもその認識はあまり変わっていない。こんなものが本当にもう一人の自分なのかという思いは、常にウィステリアの心の中にたゆたっている。
今もまた、魔神は笑っている。想像を絶する破壊の嵐が吹き荒れるカタラン砂漠を見て笑っている。
魔物の大群が迫ってきたと思ったら、恐るべき氷の嵐によって一網打尽にされ、その直後に巨大な光の奔流が氷の嵐をも飲み込んで視界を銀色に染め上げる。
ウィステリアには何が起こっているのか分からない。ただ、分かることもある。今、眼前で繰り広げられているのは神域の激闘だ。ソラがつくった不可視の防壁から一歩でも外に出ようものなら、その瞬間にウィステリアは粉微塵になって消滅するに違いない。
己にできるのは黙って見ていることだけ。せめて戦っているソラの邪魔にならないよう、地面にへたりこんでいればよい。
筆頭剣士にあるまじき無様な姿に、知らず自嘲の笑みがこぼれる。もしかすると、魔神は情けない宿主を見て笑っているのかもしれない。だとすれば自分は初めて同源存在と心を通わせられたのかもしれぬ――ウィステリアがそんな後ろ向きな考えにとらわれたときだった。
「ウィステリア」
「は、はい!?」
不意にソラに声をかけられて、ウィステリアは慌ててうつむいていた顔をあげる。まったく予期していなかったので、聞きようによっては「ひゃい」と聞こえたかもしれない。
慌てるウィステリアとは対照的に、ソラは冷静な声で問いかけてきた。
「訊くが、この攻撃、なんとかする手段はあるか? 具体的にいうと、十秒くらい肩代わりしてくれるとありがたい」
それを聞いたウィステリアは、呆然としつつも改めて眼前の光景を見やった。
ソラは左手を掲げて魔力の壁を築き、西の方角から殺到する銀色の濁流を防ぎとめている。それはあたかも押し寄せる洪水をせき止める堰のようで、ウィステリアの視界には激しくせめぎ合う二つのエネルギーがはっきりと映し出されていた。
耳をつんざく轟音。激突の余波で飛び散る魔力の飛沫。
この飛沫を浴びただけでウィステリアの身体は飴のように溶けてしまうだろう。肩代わりなどできるはずがない。すべての力をふりしぼり、一秒の半分でも耐えられたら上出来と言わねばならない。
震える声でそのことを告げると、ソラは何事か考え込むようにうなずいた。
「そうか。となると、ここは正攻法だな」
「せ、正攻法、ですか?」
「うん、このまま距離を詰める」
敵の攻撃を防ぎつつ、歩いて敵に近づいていく、とソラはいう。何度目のことか、ウィステリアは唖然とした。
その反応を予期していたのか、ソラは説明を続ける。
このまま耐え忍んだところで、敵の力が先に尽きるという保証はない。槍の穂先を盾で受け流すように、敵の放つ光線を受け流すという手もあるが、この敵の攻撃は有効範囲が広すぎてうまく受け流せそうにない。下手をすると、受け流そうとしたせいで今の均衡が崩れ、こちらが吹き飛ばされてしまう。
であれば、受け流すなどという小細工をせず、真っ向から攻撃を受けとめながら敵との距離を詰めるのが一番の上策であろう――ソラはそういった。
いうだけでなく、実行に移した。想像を絶するエネルギーを真っ向からはじき返しながら、一歩一歩、地面を踏みしめるように進んでいく。
改めていうまでもないが、敵がいるのは砂漠の彼方。ウィステリアの視界にすら映らない遠方である。その敵と歩いて距離を縮めようとすれば、いったいどれだけの時間を必要とするのか。
時間だけではない。その間、敵の攻撃を防ぎとめる魔力は莫大なものとなるだろう。
それに、今のカタラン砂漠はただ歩くことさえ難しい。高熱のせいであたりの砂が溶け出してきているのだ。足を踏み入れれば、たちまち骨まで焼けただれてしまうだろう。
ソラのいう「正攻法」が無謀な試みであることは誰の目にも明らかだった。たぶん、ソラだってわかっているに違いない。それでもソラが行動に出たのは、たとえ無謀であったとしても、じっとしているよりはマシであると考えたからだろう。
いかなる手立ても講じず、ただ漫然と状況が好転するのを待つよりは、無謀であっても自分から行動すべき。それは敵に主導権を与えないためでもある。
――強い、と思った。
魔神の笑い声と己の無力さにおしつぶされ、自嘲の笑みをこぼすだけのウィステリアなど比較にもならぬ。
足手まといを見捨てて戦う、という選択肢だってあるだろうに。そうすれば、きっと戦いようなどいくらでもあるに違いない。
だが、ソラはウィステリアを見捨てようとはしなかった。おそらく、そんな選択肢を思い浮かべることさえしなかった。
そこまで考えたウィステリアは、ソラが無謀な正攻法を選んだもう一つの理由を悟ったような気がした。
たぶん、何もせずにひたすら敵の攻撃に耐えているだけだと、ウィステリアが妙なことを考えると思ったのだ。ウィステリアの元々の目的は悪霊に乗っ取られる前に自らを葬ること。そして、前述したように、いま防壁の外はウィステリアを灰塵に帰するだけの魔力が吹き荒れている。
危険だ、とソラは考えたのだろう。だから、行動することで「先」を指し示した。声をかけて気を紛らわせることもした。もしかしたら、ウィステリアが自嘲の笑みをこぼしたことにも気づいているのかもしれない。
この危機的状況にあって、どうして足手まといの弱者のことまで気にかけることができるのか。
――強い、と思った。力はもちろんのこと、心が強い。
そして、それが先刻の疑問――これほどの力を持っていながら、どうして人としての容を保っていられるのか――の答えなのだろうとも思う。
どれだけ強大な力を宿しても歪まない、呑み込まれない、動じない。
パズズの笑い声ひとつで動揺している自分とはあまりにも対照的な在り方に、ウィステリアはめまいにも似た羨望をおぼえる。
と、そのとき、耳を圧するように轟いていた轟音に変化が生じた。
同時に、ソラがかすかに眉をひそめて口をひらく。
「威力がまた一段と上がった……いや、これは攻撃を収束させているのか? どうやら向こうさん、焦れてきたらしい」
「焦れて……?」
「いつもならすぐに吹き飛ぶ敵が、いつまでたっても吹き飛ばないものだから、力を一点に集中させようとしているんだ。ずいぶんと気が短い幻想種だな、魔力はまだ十分残っているだろうに」
この攻撃を長時間続けられない理由でもあるのかな、とソラはいう。
「たとえば、あまりの高熱のせいで周囲の味方まで巻き込んでしまうから、みたいな」
「……その推測が当たっていた場合、敵に新手がいることになってしまいますが」
「ん、たしかに。ま、理由はともかく、敵が動きを変えてきたのは事実だ。ここはつけこむべきだな――ウィステリア」
「はい!」
今度はちゃんと答えられた。
「威力を絞れば、そのぶん攻撃範囲は狭まる道理だ。うまくやれば向こうの息吹を受け流すこともできるだろう。俺が息吹を逸らしたら、クラウ・ソラスに乗ってリーロオアシスにいる人たちに伝えてくれ。敵はベヒモスだ」
「ベヒモス……わかる、のですか?」
「ああ、同源存在が教えてくれた。そっちも何か反応があったみたいだが?」
それが魔神のことを指しているのは明らかで、ウィステリアは思わず下を向いてしまう。
「笑い声は、聞こえています……ですが、それ以外は何も……」
「そうか。ま、別に慌てることはないさ」
肝心なときに役に立てないとうなだれるウィステリアに対し、ソラは責める風もなく、あっけらかんと応じた。
「この前もいったが、同源存在は十人十色、心装を会得するやり方も百人百様だ。ゆっくり急いで、ものにすればいい」
「ですが、この危急のときに何の役にも――」
言いかけて、それが益体もない繰り言になっていることに気づき、ウィステリアは口をつぐむ。
そんなウィステリアを見て、ソラは一瞬困ったような顔をしたが、すぐに何事か思いついたようで、いかにもわざとらしく口の端を吊りあげた。
「俺の役に立ちたいなら、そうだな、この危機を乗り越えて二人とも生き残ることができたなら、何でも一つ言うことをききますとか言ってくれると、いやが上にもやる気になるぞ」
「……? あの、それでお役に立てるなら、一つといわずいくらでも言うことを聞きますが」
ウィステリアが戸惑いつつ応じると、ソラはまた困ったような顔をした。
その直後、再び轟音が轟いて敵の攻撃の圧力が強まる。ソラはウィステリアとの会話を打ち切って敵がいる西の方角に向き直った。その顔が一瞬ほっとしたように見えたのは、たぶんウィステリアの気のせいだろう。
その証拠に――
「十数えた後に動く。準備しておいてくれ」
次にソラが発した言葉は毅然として、動揺などかけらも感じさせなかった。