第一話 殿下の隣の椅子
二十二の蝋燭の前に、今夜も殿下の席は空いていた。
エルムハルト公爵邸の晩餐室は、磨かれすぎた銀器が燭台の光を冷たく弾いていた。長卓の中央に父と私。私の右隣に、ジュリアン殿下のための椅子が一つ。背もたれの彫り模様が、誰の手にも温められず、夜気の中で硬く見える。
「お嬢様」
侍女頭のマルタが、給仕の少女に小さく目で合図をした。前菜の皿が下げられる。殿下の前の香草スープは、湯気が消えてからすでに長く、表面に薄い膜のようなものが張り始めていた。マルタが皿に手を伸ばし、縁を持ち上げる。その親指に、ほんの一瞬だけ力が入ったのを私は見ていた。
父は黙って二杯目のワインに口をつけていた。何も言わない。何か言えばかえって私を傷つけることを、父は十六年、よく分かっている。
「お嬢様。本日は、お幸せな日でございます」
マルタが私の背後を通る時、囁くように言った。私のためだけの一言だった。私は微笑んだ。微笑む練習は、七年でずいぶん上達していた。
メインの皿が下げられる頃、玄関の方で人の気配がした。父が目を上げる。執事が長身を低く折って、こちらへ近づいてきた。
「公爵様、お嬢様。王宮よりお遣いがお越しでございます」
父が頷くと、執事の後ろから若い文官が入ってきた。深く礼をして顔を上げる。私のほうへ視線が向くのは、礼の最後の一瞬だけだった。彼の目は、私の隣の空席へ滑った。気の毒に、と言いたげな表情を、職業的に押し殺している。
「殿下より、お詫びを申し上げるよう仰せつかりました。本日はヴェロニカ様のお付き添いで、急ぎお越しになれず」
ヴェロニカ様の、お付き添い。
七年で何度聞いた言葉だろう。数えたことはない。数え始めたら、何かが折れる気がしていた。
「承知いたしました」
私は文官に頭を下げた。文官は深く礼をして退いた。
父が黙ってナフキンを置いた。料理はまだ三皿残っていた。
「セレスティア」
呼ばれて私は顔を上げた。父の声に、いつもより少しだけ間があった。
「今夜は、ここまでにしようか」
「いいえ、お父様」
私は微笑んだ。微笑む練習の、七年分。
「最後まで、いただきます」
父は私を見つめた。何か言いかけて、やめた。何度もそうしてきたように。父は私の人生を決めないと、私が六歳の春に約束してくださった。母を喪った私に、父は静かに告げたのだ。「お前が望むまで、私は介入しない」と。あれから十六年、父はその約束を守り続けている。
最後の皿まで、私は黙って食べ終えた。マルタが皿を下げる時、誰も殿下の席に触れなかった。
自室に戻り、扉を閉めた。
寝台の脇の小卓に、ささやかな焼き菓子と二十二本の蝋燭が並んでいた。マルタが朝のうちに用意してくれたものだ。本来なら、殿下と分け合うはずだった菓子。隣に座って、燭台越しに笑ってくださるはずだった七年目の夜。
私は鏡台の前に腰を下ろした。
鏡の中の二十二歳の私。深い藍のドレス。母の形見の首飾り。耳元には、四年前を最後に殿下からの贈り物が途絶えてからは、婚約者の名で職人から慣例で届く真珠。慣例の真珠。誰が選んだのかも分からない、慣例。
二十二本の蝋燭に、一本ずつ火を灯した。
火を吹き消す前、私は鏡の中の自分に話しかけた。声に出すつもりはなかったのに、唇が動いた。
「私の二十二の春は、ここで終わるのですね」
そう言って、息を一度吸い、蝋燭を吹き消した。
二十二本の灯火が、一斉に消えた。
灯りが落ちた鏡には何も映っていなかった。それで、ちょうどよかった。
翌朝、王宮の貴族の間は薄曇りの光に満たされていた。戴冠前儀礼まで三月。広間の中央には進行表が広げられ、各家の名と役割が記されていた。私の名は、王太子妃候補の欄に変わらず並んでいる。
王妃アデルハイト陛下の御前で、各家の貴婦人が順に挨拶を述べていく。儀礼の手配。献納の品。警備の差配。招待状の宛名。
私の番が来ると、私は立ち上がり、礼をした。
「慈善行事の差配は、いつも通り、私が承ります」
王妃陛下は静かに頷かれた。それから、ほんの少し息子のほうへ視線を向けられた。
殿下のお席の隣には、ヴェロニカ様が座っていらした。乳姉妹。フェルマー伯爵家の養女。常のことだった。常のこと、になっていた。
「セレスティア様には、本当にいつも申し訳ないのですけれど」
ヴェロニカ様が扇の縁に口元を寄せた。
「昨夜も殿下と二人で、朝までお話をしてしまって。お疲れでいらっしゃるでしょうから、今朝は殿下を労って差し上げてくださいませね」
広間の空気がわずかに止まった。
私の左斜め前、リンドホルム侯爵夫人の扇が最初に閉じた。続いて、その向こうの伯爵夫人。隣のご令嬢。さらにその先。扇が一斉に閉じる音は出ない。ただ視界の端で、白い羽根が静かに伏せていく。誰も笑わなかった。誰も口を開かなかった。
王妃陛下が息子をご覧になった。一拍、何もおっしゃらなかった。それから視線を逸らされた。
殿下が何か言おうとした。「セレスティア」と私の名前を呼びかけて、続きを呑まれた。
私はその一拍を見ていた。
「承知いたしました」
私は王妃陛下に向かって礼をし、自分の席へ戻った。ヴェロニカ様は不思議そうな顔をしていらした。何が起きたのか分かっていない顔だった。
その朝会で、私は一度も殿下の方を見なかった。
公爵邸に戻ったのは夕刻だった。
書斎で書きかけの手紙の続きを書こうとしたが、ペン先が紙の上で止まった。インクが少しだけ滲む。それを見てから、私はようやく、自分が何の手紙を書こうとしていたかを忘れていることに気づいた。
そこへマルタが来た。手に銀盆を持ち、その上に一通の封書が乗っていた。
「お嬢様。教会本部より、お届け物が」
私は顔を上げた。
銀の封蝋。
公爵家の朝の受け取り台には、年に何度も書状が積まれる。けれど銀の封蝋は儀礼用の格式だった。叙任の通達、祝賀、訃報。本来、個人宛に銀の蝋を用いることはない。
マルタがわずかに眉を上げた。彼女もそれを知っていた。
「お嬢様のお名前で、こちらへ」
私は封書を受け取った。指先に伝わる紙の重さが、いつもの書状と違った。それから宛名を見た。
「エルムハルト公爵令嬢 セレスティア様」
差出人は聖アンゼルム教会本部。署名は枢機卿アロイス・フォン・リンデンベルク。
私はペーパーナイフを取った。蝋を割ると、銀の細片が机に小さく散った。便箋を開く。記された言葉は、短かった。
「次代の聖女として、お迎えに上がります」
その下に、教会本部の紋章が押されていた。
私はもう一度宛名を見直した。
私の名前だった。誰の婚約者でもなく、誰の代理でもない、私自身の名前だった。
二十二の蝋燭はもう吹き消されていた。けれど机の上の便箋の上に、薄く銀の粉が散っているのを、私はしばらく見ていた。
七年で初めて、私自身の名前で、書状が届いたのだ。




