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17-2 悪役令嬢アンジェリークの悪夢

 「リリアンさんのお菓子をいただく会」は、会自体はその後もつつがなく進行し閉会した。フェリクスとイザベラがリリアンの製菓の腕前を褒めちぎりつつ退出し、いつものように皆で片付けて。令嬢たちは初めて見た菓子作りに興奮冷めやらず、カフェテリアに移動し、閉門時間になるまで話は尽きず──リリアンはずっとアンジェに何か言いたそうだったが、二人になる機会がないまま、校門の馬車寄せでそれぞれの馬車に乗った。


 帰宅してすぐ、アンジェは制服を着替えもせずに乙女ゲーム「セレネ・フェアウェル」を書きつけたノートを机に広げ、自身の誕生日パーティーに関する部分を穴が開くほど読み返した。


 ──生徒会会員はみな招待するからと主人公(リリアン)を招待する攻略対象(フェリクス)。きっと悪役令嬢(アンジェ)主人公(リリアン)が断ると思っていたのだろう、来ることを知って、どうにか来させないように浅知恵を働かせたに違いない。閉じ込められた主人公(リリアン)を助けに来て、思いの丈を告白する攻略対象(フェリクス)。パーティー会場に現れた二人に悪役令嬢(アンジェ)は驚愕し、主人公(リリアン)にグラスを投げつけるが、それは彼女を庇った攻略対象(フェリクス)に当たる。攻略対象(フェリクス)の声が、冷たく遠くなっていく──


「…………」


 このメモを書きつけた時は、書きながら泣いていた。自分がこんな愚行をしでかすとは信じられなかったし、それほどまでに追いつめられていたのだということが悲しくもあった。何よりも、優しく微笑みかけてくれた筈のフェリクスの声音が冷たく醒めて行くのが耳にこびりついて耐えられなかった。


 ノートはあちらこちらが涙で少したわんで、インクが滲んでいる箇所もある。アンジェはそれを指先でなぞりながらきつく瞳を閉じる。


(……このシナリオを、理解した時は)

(心が壊れてしまうかと思ったのだわ……)


 入学したばかりのアンジェにぴったりと寄り添い、優しく微笑みかけるフェリクスが、あれほど冷たい声音でアンジェリークと呼ぶなんて。それがやがて訪れる未来なのだとはとても受け入れ難かった。夢で見るのは祥子がゲームをプレイしている場面の時もあったし、夢の中で自分自身が悪役令嬢(アンジェ)となって、グラスを攻略対象(フェリクス)に投げつける感触で飛び起きたこともある。目が覚めて、いつもの自分の寝室だと理解するまでに何秒かかっただろう。湯浴みでもしたのかというくらいぐっしょりと汗をかいていて、その後は一睡もできなかった。


 窓の外はもうすっかり日が暮れて暗い。手許を照らす魔法ランプの炎が微かに揺れる。


「…………大丈夫…………」


 壊れてしまいそうな胸を押さえて、アンジェは必死に呟く。


(フェリクス様は……今も変わらず、わたくしを愛して下さっている……)

(それは間違いないと言えましてよ……)


 君を愛してしまっている。


 自分が書きつけた文字が、自分自身を嘲笑っているかのようだ。


(……違う、違うわ……)

(見えない力が、また働くのだとしたら……)

(……リリアンさんが、書庫に閉じ込められてしまう……)

(それを防ぐ方法を案じなければ……)

                   

【ありがとうございました、アンジェ様】


 そう言って自分を見上げた少女の、潤んだ瞳のなんと美しかったことか。

 たったそれだけのことが──どうして、こんなにも、この臆病な心を奮い立たせるのだろう?


(……一人で考えてばかりではいけないわ。事が起こる前に、リリアンさんにきちんとお話ししましょう)

(それが一番彼女を守ることになるはず……)

(まずは……)


 アンジェは通学鞄から交換日記を取り出し、一番新しいページを広げた。




*  *  *  *  *




 翌朝、最悪な夢を見つつも登校したアンジェを、いつものようにフェリクスが出迎えた。アカデミーで顔を合わせない日はないというのに、この婚約者は毎朝、長年離れていたオシドリ夫婦がようやく再会した瞬間のように嬉しそうに笑ってアンジェの手を取る。その彼も、見えない力によって想いの向く先が変わり、あの冷たい声を出すようになるのだろうか? ……アンジェにはやはり、ゲームのあの場面と目の前のフェリクスがどうしても結びつかなかった。


「パウンドケーキをお土産にいただいて帰ればよかった、とイザベラと話していたんだ。王宮(うち)の者や父上達にも召し上がっていただきたかった」

「それはきっと、リリアンさんも国王陛下も、皆様もお喜びになりますわね」


 いつものように和やかに話しているうちに校舎の入り口に着いた。門のところにはリリアンが待っていたが、いつものようにニコニコと笑ってはおらず、何か怒ったような顔で仁王立ちしていた。アンジェは鞄から交換日記を取り出し、すぐに渡せるように手に持つ。


「おはようございますっ殿下っアンジェ様っ」


 リリアンは妙に語気粗く挨拶しながらアンジェから交換日記を受け取る。


「おはようリリアンくん、どうしたんだい、ご立腹だね」

「違いますっでも当たってますっ」

「なんだいそれは」


 ことにフェリクスに対しては当たりが強くなり、噛みつかんばかりの勢いだ。フェリクスはキーキー威嚇する子リスのようなリリアンに若干の戸惑いを隠せない。


「今日はっアンジェ様とっピクニックしますっ秘密の反省会なので殿下はどうかご遠慮くださいっついて来ないでいただきたいですっ」

「こらっリリアンさん、フェリクス様になんて口の聞き方をなさるの!」

「知りませんっアンジェ様と二人でピクニックするんですっ!」


 アンジェが注意するとリリアンは頬を膨らませてそっぽを向く。


「かっ……」


 可愛い、と口からこぼれ出そうになって、アンジェは咄嗟に口を手で覆った。リリアンが怒っているらしい理由も、フェリクスに妙な態度を取る理由も全く分からない。だがふわふわの頬がぷっくり丸く膨らんだ様子は、まさしく子リスが頬袋に木の実を詰めたかのようではないか。いけないわアンジェリーク、可愛さに誤魔化されては。王族にあんな態度はよくないのだと、スカラバディとして注意しなくては。


「リリアンさん、よろしくないわ、どうなさったの!?」

「ピクニック来てくださるんですかっそしたらやめますっ」


 アンジェがフェリクスの許を離れてリリアンの肩に手を乗せるが、リリアンは更にぷいとあさっての方を向いてしまった。アンジェは慌てて頷いて見せる。少し離れたところでフェリクスが生まれて初めてチョコレートを食べた子供のような顔でニコニコニコニコとしているが、アンジェには気付く由もない。


「行くわ、行きますわ、ですからいつものリリアンさんにお戻りになってフェリクス様にお詫び申し上げなくては」

「来てくださるんですね?」


 ぐるりと振り向いてアンジェの顔をずいと覗き込む、頬袋が丸い子リス。


「絶対ですね?」

「え……ええ」


 アンジェが顔を赤くしつつ頷いて見せると、リリアンは更に顔を寄せ、そこから不意ににこりと笑って見せた。


「約束ですよ、アンジェ様っ」


 そのままアンジェの手を握ってくるくるその場を回ったかと思うと、アンジェをフェリクスの前まで押して行って、アンジェの右手を持ち上げてフェリクスの前に差し出す。フェリクスがきょとんとしつつ左手を出してその手を受け取ると、にんまり笑ってうんうんと頷き、王子に向かって深々と礼をして見せた。


「王子殿下、大変失礼いたしました」

「あ、ああ、いや」

「失礼なのでお先に失礼しますっ」


 そのままぱたぱたと校舎の方に走って行ってしまう。


「あ、ちょっと、リリアンさん!?」


 アンジェの声にも反応せず、リリアンの姿はあっという間に見えなくなってしまった。フェリクスとアンジェは二人して手を重ねたまま呆然とその場に立ち尽くすしかできない。自然と互いに顔を見合わせて、相手が自分と同じようにキツネにつままれたような顔をしているのを確かめ合い──


「ふふっ、彼女は今日はどうしたんだろう」

「本当ですわ、ふふふ、後でよく言っておきます」


 二人して吹き出した。


「いや、いいよ、拗ねた子猫のように奔放で可愛らしいね」

「お優しいですわね、フェリクス様」


 フェリクスが上機嫌なのが少し気にかかるものの、可愛いという言葉には全くの同意しかない。アンジェはフェリクスの腕にもたれるようにしてクスクス笑い、フェリクスも優しくその肩を抱いたのだった。




*  *  *  *  *




「私、気がついちゃったんです」


 森のピクニックが始まってすぐにアンジェがリリアンに朝のことを問い質したところ、リリアンはニコニコしながら答えた。


「私が殿下にうんと嫌われれば、見えない力が私と殿下を婚約させようとしても、殿下がこんな子と結婚は嫌だなって思うだろうって。だから私がうんと変な子になり切ればいいんです、アンジェ様」

「だから、サロンの時も、時々おかしなご様子でしたのね……?」

「はい、頑張りました」


 得意げな顔で言いながら、リリアンは森の動物たちと交換したナッツを頬張る。


「あの後どうでしたか? 殿下は私のこと、呆れてましたか?」

「……どちらかというと逆効果なような気もしますわ……?」

「ええー」


 サンドイッチを食べながら首を傾げたアンジェに、リリアンはがっくりと肩を落とした。


「いい作戦だと思ったんですけど……何で逆効果なんですか? 変だなあ……」

「貴女はご自分がとても可愛らしいのだということを、もう少しご自覚されるべきね。可愛らしい子は何をしても可愛らしくてよ」

「私、可愛くなんてないですよお……」

「可愛らしくてよ、頬をあんなにまん丸にして」

「ええー、ドン引きの不細工顔になったと思ったのになー……」


 リリアンはギンガムチェックのピクニックシートの上にごろりと転がった。森の中にぽかりと開けた広場は、木々の梢に丸く切り取られた青空が、額縁の中の絵画のように見える。


「逆効果ならもうやりません。殿下にもちゃんと謝ります」

「そうなさいな、驚いていらしたわ」


 アンジェはクスクスと笑い、木のカップに注いだお茶を飲んだ。二人の周りにはいつかのように動物や小鳥が集まり、リリアンが小さく切ってやったパンやチーズを嬉しそうに食べている。切株にはまたたくさんの果物やナッツ。ハンカチポーチと、その上にちょこんと置かれたミミちゃん。アンジェも小さな野りんごを手に取ると、その表面を布巾で丁寧に磨いた。リリアンは寝転んだまま、その様子を横目に見る。


「アンジェ様」

「なあに」

「交換日記、読みました」


 紫の瞳の中の空に、小さな白い雲が映っている。


「……そう」

「ありがとうございます、ちゃんと書いてくださって。……お誕生日のパーティーがそんなことになるなんて、想像もつきませんでした」

「わたくしも……初めて夢に見た時は、信じられませんでしたわ」

「夢の中のアンジェ様、めちゃくちゃ意地悪で嫌な人ですね」

「そうさせているのは夢の中のリリアンさんでしてよ?」

「そうでした」


 リリアンはゆっくりと身体を起こした。りんごを拭いているアンジェをじっと見つめて、にこりと笑う。


「こっちのアンジェ様は、お優しい方で良かったです」

「……ありがとう」


 アンジェは微笑みながら、磨き終えたりんごを切株の上に置き、ナイフで四つ切にする。そのうち二つをリリアンの皿に乗せてやると、リリアンはきゃあと歓声を上げ、早速一切れを手に取った。


「ありがとうございます! 野りんご大好き!」

「ええ、蜜がぎっしりと詰まって美味しいこと」


 早速一口齧る正ヒロイン。悪役令嬢も一切れを頬張る。少し硬くて酸味もあるが、実の全体が透き通るほど詰まった蜜が爽やかな甘みをもたらす。リリアンはしょりしょりとりんごを咀嚼し飲み込むと(まさしく子リスだとアンジェは思った)、少し考え込むように首を傾げていたが、やがてうん、と一人頷いた。


「アンジェ様。私、お誕生日パーティーで、アンジェ様にお菓子を作って差し上げたいです」

「……そう仰ると思っていたわ。王宮の菓子厨房(ペストリー)に入れるなんて、滅多にない事でしょう? お気持ちはとてもよく分かりますけれど……お菓子はなしで、お一人にならないよう普通にご出席いただくのではいかが?」

「それも……そうですけど」


 顔をしかめたアンジェに、リリアンは首を振りながら笑う。


「私のお菓子でアンジェ様をお祝いできたら、素敵だなと思ったんです」

「お気持ちが嬉しいわ、ありがとう……わたくしも、リリアンさんのお菓子をまたいただきたいですわ。けれど……シナリオでは閉じ込められるのは書庫でしたけれど、書庫ではない所かもしれなくてよ?」

「はい、分かってます」

「フェリクス様が……他の人でも、必ず都合よく助けに来て下さるかどうか、……分からなくてよ?」

「一人にならないように、うんと気をつけます」


 だんだんとリリアンの口調が意固地になってきているのが分かる。アンジェはため息をつき、近くに寄って来たうさぎの背をそっと撫でた。


「……どうして、そんなに……」


 口に出して聞いてしまうのは、ずるいだろうか。


「フェリクス様に嫌われようとしたり、危険を顧みずにお菓子を作ると言ってくださったり……してくださるの?」

「だって……」


 リリアンは無邪気に──あるいは全てを見透かしているかのように、アンジェを見つめて優しく微笑む。


「私、アンジェ様のこと、大好きですから」

「……そう……」


 真正面から、真っ直ぐに、わたくしだけを見て。

 きっぱりと言い切る少女のまなざしを、他の誰にも渡したくない。

 この感情の名前は──何と言っただろうか、わたくしも知っているだろうか。


「ありがとう。わたくしも、リリアンさんが大好きですわ」

「えへへ、嬉しいです。両想いですねっ」


 リリアンは悪戯っぽく笑うと、ちろりと舌を出して見せた。


「アンジェ様、もし閉じ込められて助けに来たのが殿下だったら、私、ずーっとこの顔してます」


 アンジェが見惚れる間もなく、リリアンは両手で顔をギュッと押し潰す。頬の肉が押し上げられて、可愛らしい顔が潰れかけのジャガイモのように変形する。アンジェは思わず吹き出してしまい、手を口に当てながら声を上げて笑った。


「ふふふ、もう、およしなさい、変なお顔は」

「こんな顔の奴に、殿下は、愛してるとか言わないはずですっ」

「そうね、そうかもしれないけれど、ふふふふ」


 リリアンも潰れジャガイモ顔のまま笑ったので、アンジェは更に吹き出してしまう。笑う二人に動物たちが興味を持ち、近寄って顔をのぞき込んだりそっと触れて見たりする。リリアンは手近にいたイタチを抱き上げると膝の上に乗せ、毛並みをぐりぐりと触りながら楽しそうに笑い転げた。


「アンジェ様、きっと大丈夫です。なんとかなります」


 またしてもピクニックシートに寝転がり、リリアンはきっぱりと言い切った。アンジェは笑いながら大きく息を吐くと、自分もリリアンの隣にごろりと横になる。


「そうね。きっとなんとかなるでしょう」


 横向きの世界で目線が重なり、二人はクスクスと笑い合ったのだった。






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