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擬態が解けた朔は今までの朔とはまるで別人……いや別狸のように変わった。これまでは普通の狸と同じくらい動物的な行動が多かったのに、今の朔は一言でいえば人間っぽくなった。
まず歩く姿が四足歩行から二足歩行に変わった。擬態していたときは家中の匂いを、ふんすふんすと鼻を鳴らしながら嗅ぎ回っていることもあったのに、今はそういう獣っぽいことはまったくしなくなった。そのかわりとでもいうように、彼は私と一緒にテレビを見るようになった。
内容をきちんと理解しているのかは怪しいが、私が見ているニュースやバラエティー番組をじっと食い入るように見つめている。特にお気に入りなのは子ども番組と食べ物のコマーシャルだ。美味しそうな料理を食べている様子が流れると、朔も口をもごもごしながら見つめている。
たった今も宅配ピザのコマーシャルから目を離さない。とろけてどこまでも伸びるチーズに興味津々な様子だ。
「朔、よだれ出てるよ……」
朔のポカンと開いた口元をそっと押さえて閉じてあげる。それでも彼の視線はテレビに注がれているので、大した集中力だと思う。
「まだミルクしか飲んだことないはずなのに、よっぽど人間のご飯が食べたいんだね」
朔の喉元辺りを優しく撫でると、甘えたような声を出して目を細める。
コマーシャルが終わってしまうと、朔の興味がテレビの画面からソファーの下に転がっていたボールに移ったので、私は彼に気づかれないようにそっとテレビを消した。
ボールにじゃれつくのに夢中な朔が危ないことをしないように気を配りながら、こだぬき育成マニュアルでもう一度きちんと離乳食の項目を調べてみる。初めての食事で一番気を付けなければならなのは、まず柔らかさであるらしい。
豆狸は人間の赤ちゃんとは違い、もうすっかり歯が生えそろっている。だからそれほど神経質になる必要はないが、初めて食べる固形物は注意が必要なのだそうだ。
「柔らかく炊いたおかゆや卵、茹でたささみや白身魚をすりつぶしたものなどが望ましい、か。……なるほど、けっこう手間がかかりそうだけどやってみるか」
なんといっても可愛い朔のためだ。それに、彼にとって生まれて初めて口にする人間のご飯なのだ。少しでも美味しいものを作ってあげたいと思うのが養い親心というもの。
冷蔵庫にはまだ卵がいくつか残っているはずなので、朔にはたまご粥を作るのはどうだろう。時計を見るともう夕方の四時を回っていたので、私は伸びをしてからキッチンへと向かった。
冷蔵庫を開いて軽くため息が出た。中は見事なほどにスカスカだった。じいちゃんの家に来たばかりの頃は食材がたくさん詰まっていたのに、そのほとんどを使ってしまっていた。
こまめに買い物に行けない生活がこんなにも不便だとは思わなかった。
「うーん……たったこれだけでなにが作れるかな……」
卵、牛肉ひとパック、もやし、ピーマン、チンゲン菜、あとはトマトが二つ。これらの食材すべてを使ってしまうと、もう冷蔵庫の中には作りおきしてある麦茶だけしか残らない。今手元にある材料だけで作ることができ、なおかつ男の人にも喜ばれるメニューといえば……あれしかない。
「タケノコの代わりにもやしを使った『なんちゃって青椒肉絲』だ」
タケノコの代わりにもやしを入れて作るのが、この『なんちゃって青椒肉絲』の特徴だ。経済的にもお得だから給料日前の懐にも優しいし、もやしをたくさん入れる事によってかさましもにもなるのでお腹いっぱい食べられる。
もっとも、ただの野菜炒めだと言われればそれまでだが、細かいことには目をつぶる。
「健吾も気に入ってくれるといいけど……」
食材をどんどん細切りにしてフライパンでさっと炒める。朔のご飯も作るため、小さめの片手鍋におかゆを作り、そこに解き卵と中華ス-プの素で薄く味付けする。中華風おかゆの出来上がりだ。
大人組のおかずが一品だけでは寂しいので副菜をもう二品ばかり作ろうとしていると、リビングに取り残されたことに気づいた朔が鳴きながら私の足にしがみついてきた。
「きー!」
不満を含んだ甲高い声を上げて私の足にまとわりつく朔。これは間違いなく抱っこしろと言っているに違いない。
「もう……料理中は危ないからキッチンに入って来ちゃダメでしょ」
この小さな暴君が私の言うことを素直にきくとは思えないが、つい小言が出てしまう。でも、けっきょく厳しい顔ばかりを向けている事もできず、鳴いている朔を抱き上げてしまう私は甘い養い親なのだろう。
朔をリビングのソファ―の上に戻し、丸い頭を撫でる。
「いまみんなのご飯を作ってるところだから、遊んであげられないの。君はここで良い子で待ってて。ほら朔の好きな『ご家族と一緒』がちょうど始まったよ」
再度テレビを付けると、朔の大好きな子ども番組のオープニングが流れ出した。
なぜ朝と夕方の二回に子供向け番組が放送されているか。その理由が朔と暮らすようになってようやく分かった。この時間帯は親たちがご飯を作ったり身支度を整えたりする時間なのだ。そんな忙しいときに小さな子どもの相手をするのはすごく難しい。
私と離れてさびしいと鳴く朔を本心では叱りたくない。でも、夕飯作りの邪魔をされるのは本当に困る。そんなとき、少しの間でも夢中になってくれるテレビ番組があるのは本当にありがたいのだ。
子ども番組を付けたとたん朔の目がキラキラと輝き、丸い耳がテレビの方へと自然と向く。そうなればもうこっちのものだ。そっとリビングからキッチンへ移っても朔の意識はテレビの方へと向いている。
「いまのうちだ!」
とにかく急いで調理を始める。朔が来てからというもの、どんな作業をしていてもいつも急かされているような気持ちになる。
朔のお世話を最優先にするあまり、トイレに行きそびれることも日常茶飯事だし、一息いれるために淹れたコーヒーに口を付ける前に冷めきってしまうことだってよくあることだ。彼から目を離すことにどうしても罪悪感を覚えてしまう。
でも、それも仕方がないことかもしれない。なにしろ朔は好奇心旺盛でやんちゃ盛りだ。誤飲も怖いし、私が見ていないところで怪我をすることだってあるかもしれない。
「よし、完成」
今日の人間サイドの夕飯は青椒肉絲とトマトと卵の炒めもの、チンゲン菜の中華風スープの三品だ。
テレビの前で二本脚で立っている朔は未だ歌のお兄さんとお姉さんたちに釘付けだ。真ん丸の瞳がキラキラと輝き、お兄さんたちのダンスに合わせて体がゆらゆらと揺れ、短い手足を同じように動かしている。あ、意外とリズム感がいいかもしれない。
「はあ……可愛いなあ」
擬態が解けてもうちのこだぬきは相変わらず可愛い。この姿になってからというもの、朔の喜怒哀楽の表情がわかりやすくなったし、なにより幼児のような拙い仕草が悶絶するほど可愛いすぎる。
キッチンの陰からそっと様子を伺っている私に気づいた朔が、甘えたようにくんくんと鼻を鳴らしながら駆け寄ってきた。
抱っこしてもらえることを疑いもしない朔は、両手を上にあげてまん丸い瞳で私を見上げている。
「よしよし、もうお料理終わったから抱っこしてあげるよ。一緒にテレビ見よう」
「きゅーん」
私の鎖骨の辺りに鼻をグリグリと当てて甘える朔。彼の柔らかな毛と高い体温を感じると愛しさがどんどん溢れてくる。
どうしよう……なんか、朔を愛おしく感じるこの気持ちをどうしたらいいのかわからなくなってしまう。
全身をゆだねて懐いてくれる朔が可愛くて、私は朔をしっかりと抱きしめたまま動けなくなってしまった。こんなに私のことを必要としてくれるこの小さな子を、ずっとずっと見守ってあげたい。
気づくと、私は朔のおでこにそっと顔を近づけ、ほわほわの毛並みにちょんと唇を付けていた。ほんの一秒にも満たないちゅうは、私にとんでもない満足感を与えてくれた。
何度でもしたくなってしまう欲求を押さえ、小さな朔の頭を撫でる。いい年してなにやってるんだと密かに自分につっこみを入れる。
私は朔の養い親であって、本当の親ではないのだ。もっと冷静にならないと駄目だ……。
当の朔は「今なにかした?」とでも言いたげな瞳で私を見上げている。
「ごめんね、なんでもないよ。さあ、テレビ一緒に見ようか」
膝に腕に抱えたまま、私はソファーに腰を下ろした。
健吾が玄関の戸を叩いたのはそれからすぐのことだった。来客を知らせるインターホンの音にドアを開けると、膨らんだ買い物袋を両手に下げた健吾が立っていた。
「よお」
軽く挨拶をして方を竦める。
「いらっしゃい。待ってたよ」
私は健吾から買い物袋を受け取ろうと手を出すが、健吾は私の脇をすり抜けて家へと上がり込み、両手に荷物を持ったまま廊下の奥へと歩いて行くそして、キッチン台で荷物を下ろした。
「頼まれてたものは大体買えたぞ。それから、これがレシートとお釣りな」
ハーフパンツのポケットから小銭入れらしき袋を取り出し、レシートと一緒に小銭をリビングのテーブルの上に置く。
昨夜のうちに彼に渡しておいたお金が足りたようでよかった。
「ありがとう。まだ足も全快してないのにごめんね」
「俺がしたかったからいいんだよ、気にすんな」
照れているのか、健吾は頭をかきながら視線を逸らす。
そんな彼を見ていると、なんだか私も昨日のことを強く意識して照れてしまう。いつも通りに振舞おうとすればするほど、どうしていいのか分からなくなり、まるでクモの巣にかかった虫みたいに身動きが取れなくなっていくようだ。
二人の間に沈黙が落ちたとき、私の足元にとてとてと拙い歩き方で朔がやって来た。
「お、朔。元気か」
健吾が朔の目線に合わせるようにしゃがみこんだ。
朔は警戒するように私の影に隠れたまま、胡散臭そうな顔で健吾を見ている。「こいつ、なにしにきたんだ」と言わんばかりの表情だ。
私は朔がそんな表情ができることに驚いた。鼻の頭に皺を寄せ、眉毛なんてないのに眉間を険しくしている。
「お、一丁前に難しい顔するじゃないか。なんだよ、まだ俺のこと警戒してるのか」
「ぐるるる」
小さいなりに威嚇をしているのか、喉の奥で小さく唸る朔。そんな彼の頭を撫でようと健吾が手を伸ばすが、朔がそれを許すはずもなく、健吾の手を小さな手が払いのけた。
「なんだよ俺にも撫でさせろよ」
「シャー!」
私を挟んで二人の攻防が始まるが、どう見ても遊んでいるようにしか見えない。私は彼らを置いてキッチンへと移動する。買ってきてもらった食材を冷蔵庫へしまいながら健吾へ声をかける。
「ねえ、もう夕飯出来てるけどすぐに食べる? それとも、もう少し後のほうがいいかな」
「今すぐ食いたい。腹減った」
健吾がふらりとキッチンへやって来る。その手には朔ががっぷりと噛みついているが、彼はなんでもないような涼しい顔で小脇にこだぬきを抱えている。
「それ、痛くないの……」
思わずそう尋ねると、健吾は朔のほっぺをそっと摘まんでへらりと笑った。
「ん? 見た目ほど痛くないよ。こいつ、なんだかんだ俺のこと嫌いながらも手加減してるんだよ」
「そっか……。本気で噛んでるわけじゃないんだね」
少しホッとした。しかし、このまま人を噛んでもいいと朔に思わせてしまうのはとてもまずい。自分以外の他者を叩いたり噛んだりするのはいけないことだときっちり教えなければ。
「朔、人を噛んだら駄目。健吾の手を離しなさい」
強めに叱ると、朔は耳を垂れてキュンキュンと悲しそうに鳴く。どうして叱られているのか分かっているようで、すぐに健吾の手から口を離した。素直でよろしい。
「うちの朔がごめんね」
「いや、これくらいスキンシップのうちだ。それよりその大皿に乗ってるのが今日の飯?」
「うん。健吾は中華は平気?」
「大好き。すげえ美味そう」
キッチン台の上に乗っている青椒肉絲もどきと卵とトマトの炒め物を見つけた健吾が目を輝かせた。彼はいそいそとそれらをテーブルに運び、待ちきれない様子で席に着く。
「俺のご飯大盛りでお願いします」
「了解」
健吾の目がおかずに釘付けになっている。私は彼のために白米をよそい、チンゲン菜のスープと一緒に彼の前に並べてあげた。朔のご飯もテーブルに並べ、みんな揃って席に着く。
「いただきます」
きっちりと手を合わせてから健吾は豪快に料理を口へ運び、喉をならして飲み込んだとたん、カッと目を見開いて一言。
「うまい!」
その後はもう言葉もなく、彼は料理から片時も目を離さず夢中で食べていた。
「よかった」
私はホッと胸を撫で下ろした。どうやら気に入ってくれたようだ。
朔は初めてのご飯に興味津々で手を伸ばすが、私は彼の魔の手が届く前に朔のおかゆを取りあげた。
「朔はまだ自分で食べるのは無理でしょ。食べさせてあげるから待って」
小さなスプーンに少しだけおかゆを掬って朔の口元へと運ぶ。待ちきれない様子の朔はスプーンにかぷりと食いついた。
その様子をじっと見守る私と健吾。
朔はもにゅもにゅと口を動かし、おかゆの味をゆっくりと確かめるように味わっている。そして、カッと目を見開いた。なんか、……ついさっきも同じようなことしてる人がいたような……。
朔はおかゆが大いに気に入ったらしく、早く次をよこせとばかりに椅子の上に立ちあがった。
「分かった、あげるから落ち着いて」
朔を座らせ、私は二度三度と彼の口にスプーンを運ぶ。面白いようにおかゆを平らげる朔。この様子だったらすぐにもっと色々な料理を食べたがるかもしれない。
そう思っていた矢先、朔の興味の矛先がテーブルの上に乗っていたチンゲン菜のスープに移ってしまった。
またしても椅子の上で立ちあがった朔がテーブルに乗り出し、私のスープをひっくり返す。それらがまるでスローモーションのように見えたがもう遅かった。机の上にスープが飛び散り、朔のお腹がびしょびしょに濡れる。そして、転がったいったスープ皿が運悪く健吾の膝に着地した。
「あ……」
机の上も健吾のハーフパンツもこぼれたスープで汚れてしまった。
健吾が素早く立ちあがり、朔を抱き上げてこれ以上被害が広がるのを防いでくれた。私はその間にテーブルの上を綺麗にする。
「朔、机の上に乗ったら駄目だ。お行儀悪いぞ」
「ごめんね健吾、ズボン汚れなかった」
「俺はそんなにかかってないから大丈夫。ちょっとズボンが濡れただけだ」
「でも、そのままじゃ駄目だよ……」
せっかく来てくれたのにこんな有り様で帰すのは申し訳ない。
「俺よりも朔の方が問題だな」
お腹からつま先までぽたぽたとスープを滴らせている朔は、私の顔を申し訳なさそうに見上げていた。怒られることをしてしまったという自覚がちゃんとあるらしい。
「なあ優希、ちょっと風呂場借りていいか。俺こいつ洗ってくるから、お前はその間にゆっくり飯食ってろよ」
「え、私が朔を洗うよ。この子の養い親なんだから……」
「いいから。お前、朔におかゆ食べさせてばっかりでぜんぜん夕飯食ってなかっただろ」
まだ私がほとんど夕食に手を付けていないことを健吾はちゃんと見ていたらしい。
「でも……」
健吾のことが苦手な朔はバスルームで暴れるかもしれない。そんな心配をしていると、健吾はそれを見透かしたようににやりと笑う。
「俺に慣れるいい機会だ。なあ朔」
嫌な予感がしているのか、朔が憐れっぽい声を出して私を見上げ、健吾の腕の中から助けを求めるように短い手を伸ばした。しかし、まるでお姫様を浚っていく魔王のように悪い顔をした健吾があっという間に廊下へと飛び出していった。
「ははは、抵抗したって無駄だ。ピッカピカにしてやるからな!」
「シャー!」
私が止める間もなくバスルームへ消えて行く二人。朔は毛を逆立てて威嚇していたし、健吾の額には若干怒りの青筋が浮かんでいたような気がするが、健吾の好意にありがたく甘えることにする。
「あのふたり、大丈夫かな……」
不安だけど、大丈夫だと信じたい……。