一般人は斯く語りき
『私は北を目指すよ。今となっては必要や不要に大した意味はないが、今の内により多くの景色を見ておくべきだと思うからね』
そう言ってイオの前から喋る不思議な変異者は姿を消した。ここ2、3陽の内に身の周りで起きている諸々の出来事を加味しても、恐らく誰よりも奇妙な経験をしていたのではないかと繭の中でゴロゴロと寝返りを打ちつつ彼は考える。
それは恐らく思い上がりなどではないだろう。
変異者は喋らず、それまでの関係性に寄らず例外なく攻撃的で、記憶や知性を喪失している。それが一応の通説だった。
倒錯した趣味を持っている自覚のあるイオも変異者の外見こそドストライクに刺さったがその人格、中身に対しては全く共感していなかった。
「……案外、話せれば普通だったな」
今回の出来事でイオにとって最も衝撃的だったのは変異者に言語を扱えるだけの知性があった事ではなく、寧ろそっちだった。
既に有機ネットワーク上では変異者に関する衝撃的な事実が飛び交っている。
曰く──変異者は何らかの方法によって人類の機能を徹底的に破綻させる事が出来る。
「“サツガイ”だっけ?」
初めて聞いた言葉、初めて伝えられた概念をイオは自らの肉の内で反芻する。
あの不思議な変異者曰く、変異者は存在する為にそれを必要とするらしい。
「そこまでして、そこまでやって、何が彼らをそうするんだろう?」
イオの常識では一定の時間を経て成熟した人類は大地に固定され、自身の子孫を育むための住居となる。今こうしてイオが寝転がる肉の繭や血脈の浮き出た壁なんかも、全て血の繋がった彼の親の一部だ。
そうしたかつての親、家々は更に時間が経つと大地と同化し以降は更に広く大きく自分たちを支えてくれる。
“死ぬ”という事がどういう事なのか、イオたち現行人類にはよく分かっていなかった。
彼らはそれをネットワークからの切断、状態の停止、現状回復不可能な沈黙として認識している。
現行人類は未だかつて、他者を決定的に除外する必要や場面に遭遇した事が無かった。
イオたちは太陽の下を歩いていれば疲れる事は無かったし、家の中なら家が疲れを癒してくれる。だからこそ何も無い暗がりに行ったりしなければ存在に不自由は無いし、仮に不幸な事故があっても根本的に深く繋がり合っているイオたちは互いを分配し分け合う事が出来た。
その有り様をあの変異者は“コウゴウセイ”としてイオに説明した。その説明に使われたショクブツやドウブツと言った区分には馴染みが無さ過ぎて、イオはぼんやりと想像する事しか出来なかった。
「分からないなぁ…」
分からない。イオには本当に分からない。知らない。想像すら出来ない。
他者を排除しなければ生きられないぐらいに、変異者のいた世界は狭くて足りていなかったのだろうか?
イオもあの変異者に会うまで、変異者の正体は何かの切っ掛けで変貌してしまった既存の個人だと思っていた。どうやらそれは違うらしくて、変異者の生きていた世界はこの世界と全く異なるようなのだから驚きも一入といったところ。
彼らのいた世界は、一体どんな世界なんだろう?
イオは考える。
彼が思い浮かべたのは、とても正気ではいられないような地獄が濁った世界。あの変異者のように話してみれば案外普通の人々が、必要だからと他者を殺して引き裂く狂った世界。
───初めから自分たちだけで構成された社会と世界を持っていたイオたちには到底考えられない世界だった。
「───そう言えば、最後に〿〿〿〿はこう言っていたっけ」
「『原因が分からず対策も出来ていないが、それは自分ではない誰かに降り掛かった災難───だから自分は大丈夫、なんて考えるべきではないよ』」
イオは明日、自分が変異者のように突然見知らぬ世界に放り出されてみるかもしれないと考えてみた。
………。
「どうしようも無くない?」
少なくとも自分ではどう頑張っても対応出来なさそうだと言う事は存分に理解出来た。




