第1話:目覚めれば、誰もいない楽園
1.窮屈な自室、明日への不安
私の世界は、四畳半の自室と、夜だけ通う定時制高校の往復だけで完結していた。
水瀬 詩織、19歳。定時制高校の4年生。
幼い頃から人間関係がどうしても苦手だった。クラスの「空気」や他人の感情の裏側を読み取ることができず、集団行動にどうしても馴染めない。他人の視線が自分を値踏みしているように感じて怖くなってしまう、社交不安障害(SAD)を抱えていた。中学生の頃から心療内科のメンタルクリニックに通い続けており、強い不安感に襲われるたびに、お腹をひどく下してしまうのが日常だった。
そんな私の唯一の救いは、部屋に溢れる大好きな小説やマンガ、そしてアニメの世界だけだった。
本を読んでいる間だけは、現実の息苦しさや、他人の視線という刃から解放されるからだ。
「明日も……学校に、行きたくないな……」
日曜日のお昼すぎ。ベッドの中で丸まりながら、私はぽつり、と呟いた。
お気に入りのアニメのキャラクターがプリントされたTシャツに、着古したグレーのスウェット。これが私の、一番安心できる部屋着であり、心の防具だった。
不登校気味の私にとって、週明けの学校のことを考える時間は、ただの拷問でしかない。心臓が嫌な音を立てて波打ち、手足から冷たい汗が止まなくなっていく。
私はベッドの隅に転がっていた、小さな頃からずっと一緒のお気に入りのクマのぬいぐるみを、壊れそうなほど強くぎゅっと抱きしめた。
「誰もいない、どこか遠い世界へ行けたらいいのに――」
現実から逃げるようにして、私は枕元に置いてあった処方薬の、抗不安薬と眠剤をお水で一気に飲み込んだ。そして、布団を頭から被って強く目を閉じた。それが、私が眠りに落ちる直前に願った、ちっぽけで切実な逃避の願いだった。
2.ありえない目覚めと、動く親友
ざざーん、ざざーん。
耳の奥に、規則的で大きな水の音が響いていた。
冷たい風が頬を撫で、自室のカビ臭い匂いではなく、鼻腔をくすぐるのはツンとした潮の香りと、南国の植物の匂いだ。
「……んん……」
ゆっくりと目をあける。
最初に見えたのは、シミだらけの自室の天井ではなく、雲一つない、吸い込まれそうなほど真っ青な青空だった。そして、視界の端でさらさらと風に揺れる、巨大なヤシの木。
「え……?」
飛び起きた私の手のひらに触れたのは、湿った布団ではなく、サラサラとした真っ白な砂浜だった。
着ているのは、昨日ベッドに入った時のままのアニメキャラTにグレーのスウェット。パジャマ姿のそのままだ。
あたりを見渡しても、コンクリートの建物も、学校の校舎も、口うるさい大人も、誰もいない。
見渡す限りのエメラルドグリーンの海と、手つかずの大自然が広がっているだけ。
「ここ……どこなの……?」
呆然とする私の枕元には、なぜか私がいつも使っているメンタルクリニックの救急箱が、ぽつんと置かれていた。
他人の目が一つもない、圧倒的な静寂。学校に行かなくていい。誰にも会わなくていい。その事実が、混乱よりも先に、私の心に言葉にできないほどの大きな解放感をもたらした。
「本当に、誰もいないんだ……。私、誰もいない島に来ちゃったのかな……」
ポツリと呟いた、その時だった。
「その通りクマ。ここは時計も時代も関係ない、時空の歪んだ不思議な無人島クマ」
「ひゃいっ!?」
情けない声を上げて飛び上がった。
声のした方を見る。私の腕から転がり落ちて、砂浜にちょこんと座っていたはずの、お気に入りのクマのぬいぐるみが――パチパチとプラスチックの目を動かし、短い手足を器用に動かして、自立して立っていた。
「な、ぬいぐるみ、が……喋った……?」
「ぬいぐるみじゃないクマ。僕は詩織の唯一の親友クマ。学校に行きたくなくて現実逃避した詩織の強い願いに連動して、この島にスリップした影響で魂が宿ったみたいクマ。安心して、まずは生き延びるために、真水の確保と雨風をしのげるシェルターの作成をプロデュースしてあげるクマ!」
生真面目な口調でトコトコと歩きながら、胸を張るクマのぬいぐるみ。
社交不安障害の私だけど、ずっと部屋で一緒にいたクマ相手なら、不思議と恐怖は湧いてこなかった。ただただ、ありえない現実に呆然とするだけだった。
3.人魚と、佐藤上等兵
「でも、プロデュースの前に……どうやら、先客がいるみたいクマ」
喋るクマが短い指で波打ち際を指差した。
釣られるように視線を向けると、そこには、さらにありえない光景が広がっていた。
きらきらとエメラルド色に輝く、美しい魚の尾ひれ。
波に濡れる長い髪を持った、まるでおとぎ話に出てくるような、息を呑むほど美しい『人魚』が、浅瀬に佇んでいたのだ。
「に、人魚さん……?」
私が息を呑んだその時、人魚のすぐ傍の砂浜に、一人の男が倒れ込んでいるのが見えた。
その服装を見て、本とマンガが大好きな私の脳内知識が、瞬時に警告を発する。
日焼けした肌。頭には星のマークがついた略帽に、日除けの帽垂布が風に揺れている。
身体に纏っているのは九八式夏衣と呼ばれる軍服で、足元はゲートルに軍靴をがっちりと巻き、背中には一挺の古い小銃――大日本帝国陸軍の『三八式歩兵銃』をしっかりと背負っていた。
「う、ううん……」
男が荒い息を吐きながら、ゆっくりと上体を起こした。
人魚は男が目を覚ましたのを確認すると、安心したように尾ひれを跳ねさせ、海の奥へと少し距離を取った。どうやら彼女が、海で溺れていたこの男をここまで救い上げて運んできたらしい。
完全軍装の男は、痛む頭を押さえながら、周囲を見回した。
「ここは……どこだ。我が軍の輸送船が、米軍の潜水艦から魚雷攻撃を受けて、海に投げ出されたはずだが……。……ん? 貴様たちは、一体……」
男の鋭い視線が、アニメキャラTにグレーのスウェット姿の私、そして直立不動で立つクマのぬいぐるみに注がれた。
「私は大日本帝国陸軍、歩兵連隊の佐藤上等兵だ。……小娘、その奇妙な衣服はどこの国の軍装だ? あと、その横の動く熊の怪異は一体何だ?」
「え……あ、あの、私は……」
社交不安障害の私の対人センサーが、ガチの旧日本兵の威圧感に一瞬パニックになりかける。お腹がキュルルと鳴りそうになった。
けれど、佐藤上等兵の三八式歩兵銃は錆びつき、彼自身も漂流の疲労でフラフラだった。そして、海からは美しい人魚が心配そうに私たちを見つめている。
「佐藤上等兵、落ち着くクマ。僕の主人の詩織は、ただの不登校の19歳クマ。ここは時代も時計も関係ない無人島。お互いに元の場所には帰れない漂流者同士、仲良くサバイバルを始めるのが生存への近道クマ」
クマのぬいぐるみが、佐藤上等兵の前に進み出て、堂々と交渉を始めた。
佐藤上等兵は呆然とクマを見つめ、それからスウェット姿の私を見つめ、最後には波打ち際の人魚を見た。そして、カチコチだった肩の力をふっと抜いて、三八式歩兵銃を砂浜に置いた。
「……時計も、時代も無関係、か。戦陣訓には載っておらん状況だが、人魚に命を救われた以上、細かいことを気にしても始まらん。……分かった。これより本島における、臨時の生存共同戦線を結成する!」
現代の不登校スウェット少女、喋るぬいぐるみ、命の恩人の人魚、そして戦場から流れてきた佐藤上等兵。
他人の視線が一切ないこの不思議な無人島で、私たちのありえない楽園サバイバルが、いま静かに幕を開けた。
(第1話・完)




