ただいま
出所日を知らされてから荷物の整理を進めていたものの、あっという間に終わってしまった。元々荷物なんてほとんどなかったし、持っていきたいものもあまりなかった。だから「これだけ?」なんて言われるかと思ったけど、案外皆そんなものらしい。
朝食が終わると担当の刑務官さんが迎えに来た。
「じゃあこれから出所式だから、準備が終わったら行きましょう」
私は短く返事をすると寮の部屋を後にした。出所が近くなると元いた部屋から移されてしまうから、よくも悪くもそれほど名残惜しさを感じない。
式のあとには様々な手続きが待っていた。辟易しつつも久しぶりに御家瀬さんに会えるのかと思うと、私は少しだけ緊張した。一度は受け入れてもらえたものの、実際にここを出たとき誰もいなかったらどうしようなどと不安がよぎる。なんたって私は人殺しなのだから。
しかしそんな心配をする必要はなかったと、懐かしい声はすぐ思わせてくれた。私は思わず溢れかけた涙を懸命に押し戻して、背筋を伸ばす。
「ありがとうございます。迎えにきていただいて」
「おかえり。そんなこと気にしないで」
あのときの御家瀬さんはとてもラフな格好だったから、スーツ姿の彼女は新鮮だった。それにあんな話をした人がこんなに大人な服装をしていると不思議な感じがする。いや、もしかするとこれこそが大人というものなのかもしれない。私はガラスにうつる自分の格好がちょっとだけ恥ずかしくなる。
担当官さんはそんな私たちを和やかに見守りながら、出口に案内してくれた。これだけ長くいたのに初めて見る場所があるのも、なんだか不思議な気がする。
「じゃあ伊角さん、頑張って」
「はい、ありがとうございます」
思わず手を振ると担当官さんもどこか寂しそうに手を振り返すものだから、さすがに名残惜しくなった。もちろんずっとはいたいとは思わないけど、ここで過ごした時間は紛れもなく私のものだし、皆と話したことも消えてなくなるわけじゃない。それは私が罪と共にこれからも向き合っていく過去の一つだ。
「模範生だったみたいだな」
「模範囚です。まあでも、普通にしてただけですよ」
褒められたのが照れくさくて、ついそんなことを言う。模範的であれと思ってそうしたわけではないけど、職員さんたちを困らせないように生活をしていたらこんなふうになったのだ。
なんだかまだ外へ出た実感がない。でも私の人生の五分の一以上をここで過ごしたと考えれば、実感なんてわかなくて当たり前だと思う。だって急に飛べるようになったって、どこにいって良いのかも分からない。
「それより遠かったですよね、ここまで。ありがとうございました」
御家瀬さんの足取りがどこか疲れを感じさせたので心配したつもりだったんだけど、彼女はからからと笑った。
「いいんだ、私が運転してきたわけじゃないからね」
私はなるべくバレないようにこっそりと驚いた。運転手が別にいるなんて、御家瀬境界調律事務所というのは思ったよりも大きいのかもしれない。もし大きなビルのフロアにデスクがずらりと並ぶような場所だったらどうしよう。そんなところに私みたいな人間の居場所があるのか、水平線の向こうに雲が現れるようにまた不安が押し寄せてくる。
でも実をいうと車まで来た私はもっともっともっと、驚くことになった。さっきの雲なんかもうどこかに消えてしまうくらいに。
なぜなら車の中から現れた人物の頭には立派な角がついていたからだ。仮装なのかこういう制服なのかも分からない。私は動揺を必死に隠そうとするものの、こんな状況を前に冷静でいられるわけもなく、口を開かないようにするのが精一杯だった。
「彼女がスジャン、私の助手で今日はここまで運転してきてくれた」
「えっと……」
そう紹介される間にも、スジャンさんはてきぱきと私の荷物を車へ積んでくれる。どう見ても丁寧に仕立てられた高そうなスーツで、よくそこまで身体を動かせるなあ、とついつい感心してしまう。完璧な執事のように対応してくれるものだから、だんだんと角のことも気にならなくなってくる。
「スジャンです。御家瀬の保護者です」
そんなことを考えていたら突然、そう挨拶をされた。今までにないくらい混雑した頭をなんとか高速で回転させて出てきた挨拶は、なんだか出来損ないのロボットみたいだった。
「ハジメマシテ。伊角陽咲です」
「あら、角が二人になったよ」
つい御家瀬さんを見る。こんなときに冗談まで処理しきれるほど私はまだこの世界に慣れていないけど、迎えに来てもらっている身だし、とてもそんなこと言えない。でもおかげさまで私のロボット感ある「はじめまして」がごまかせているような気もする。
「スジャンさんの角ってどうやってくっついてるんですか?」
混乱した私の脳は、思ってもいないことを。いや、思ってても言っちゃいけないことを口に出す。「どんな質問!?」とは私が自分自身に一番訊きたい問いだった。御家瀬さんは顔を背けているけれど、たぶんこれは笑いをこらえているんだと思う。
「ああ、いやこれはついているというか」
優しいスジャンさんは懸命に、この小娘になんと説明するべきかを考えている。私は心のなかで流れ星に願い事をする早さで謝罪を繰り返す。
「この子、悪魔だから生えてる」
「ああ、悪魔だから……」
私は故障した。
それからの記憶はあまりないけれど、おそらくそれなりに変なことを言いながら車に乗ったのだと思う。気づけば御家瀬さんは眠りに落ちて、私は運転席のシートからはみ出すスジャンさんの角を眺めていた。漆黒の角がまるでカンテラのようにゆらゆらと揺れて、私を導いてくれるみたいで少し安心する。
「陽咲、本当にあなたのせいではないから心配しないで。今日このあと御家瀬はやりたくないことをやらなければいけない。だから昨日眠れなかった、それだけだよ」
スジャンさんは御家瀬さんより柔らかく余地のある喋り方をするけど、どことなく似たようなところもあって、私はそれを見つけるたびになんだか嬉しくなる。
「やりたくないこと?」
「そう、境界調律師の集まり、会議みたいなものだ」
「会議って聞くとたしかに御家瀬さんは好きじゃなさそう」
起こさないように私たちはくすくすと笑った。だって黙って椅子に座って話を聞く御家瀬さんがどうしても想像できなかったから。突然立ち上がって「このつまらない会議で不当に消費した私の時間は誰に支払わせれば良いんだ?」とか言いそうだもの。
車が街なかへ入ると人が明らかに増えてきた。こんなにたくさんの人を見るのは久しぶりだなと思っていたら、スジャンさんが思い出したようにメロンソーダをくれる。
「これ、御家瀬が陽咲にって。好きなの?」
「好きというか初めて会ったときにね、冷蔵庫に入ってたからどうぞって言ってました」
「なんだそれ」
「ね?なんだそれ、ですよね」
数年ぶりのメロンソーダは記憶よりもとても甘くて、私をさらに安心させる。でも二人がどうして私にここまでしてくれるのか、よく分からない。宝くじに当たったような——もちろん当たったことなんてないけど——非現実感が纏わりついて、時折ふと怖くなる。
「驚いたよ、御家瀬が陽咲の話をしたときは。そんなことしないんだこいつは、分かるだろう?良くも悪くもフェアなんだ」
そこまで言って、スジャンさんはどこか慌てたように真ん中のミラーを覗く。私はなんとなく目を合わせないように、とっさに外の風景へ目を向けてしまう。そこでは信号待ちをする家族連れが笑いながら、大きい紙袋の中を覗いていた。
「もちろん陽咲が来るのが嫌だったわけじゃない。なんていうか、御家瀬はあまり人と仲良くなるのが上手くないんだ。だから誰かをこんな感じで連れてくるなんてことなかったから」
「分かってます、悪い意味じゃないってことは。ただ私もまだ、二人がこんなに受け入れてくれるのが、不思議な感じなんです」
あからさまに落ち込むスジャンさんがなんだか可愛くて、私はついそんな意地悪を言ってしまう。でも嘘を言ったわけじゃない。施設でも出所した後に仕事をさせてもらえず同じ道に戻ってきてしまう人が多いという話は聞いた。だから私のように受け入れてもらえる場所があるというのは、それだけでとても幸せなことなんだろう。だからこそ、夢からさめてしまわないか怖くなってしまうんだ。
にぎやかな街並みが再び落ち着いて、車は高速道路に入った。スジャンさんは相変わらず、少し落ち込んだ表情でハンドルを握っている。私は少し流れのはやくなった景色を見ながら、まだチューニングがうまくいかない心の音にそっと耳を傾けていた。




