番外編①:帰れなかった声
異界には、音がない。
正確には、音に似た何かはある。魂が揺れるときの低い振動や、境界が軋むときの微かな摩擦音。けれどそれらは、現世の人間が「音」と呼ぶものとは、似て非なるものだ。
管理者は、そのことをずっと昔に忘れていた。
いつから忘れたのかも、もう分からない。ただ、異界の深いところで、無数の魂の契約を管理し続けるうちに、自分がかつて何者だったかという記憶が、少しずつ、砂が風に飛ばされるように薄れていった。
残っているのは、ただ一つの感触だけだった。
温かい、人間の手のひらの感触。
それが誰の手だったのか。なぜその手が温かかったのか。管理者にはもう分からなかった。けれど、その感触だけが、異界の深い沈黙の中で、頑固に消えずに残り続けていた。
*
管理者がラジオの付喪神に気づいたのは、ずいぶんと前のことだった。
サボリと名乗る、だるそうな声の猫の魂。現世の古い防災ラジオを依代として、異界の狭間に縛られたまま、深夜に現世へ向けてラジオ番組を流し続けている奇妙な存在。
最初は、ただの契約の一つとして、管理者はそれを記録した。
異界には無数の契約がある。未練を残して彷徨う魂、現世に帰りたいと願う霊、誰かを待ち続けて動けなくなった存在。管理者はそのすべてを把握し、条件が満たされれば解放し、満たされなければ留め置く。それだけのことを、途方もなく長い時間、繰り返してきた。
サボリの契約もその一つに過ぎなかった。
のはずだった。
ある夜、管理者はサボリの発信する電波を、珍しくしばらく聴いていた。
サボリのやり方は、単純だった。異界の怪異たちから届いたお悩みを、深夜の電波に乗せて現世へと飛ばす。たまたまその電波を拾った現世の人間に、解決を丸投げする。それだけだった。
自分では動けないから、人間に頼む。だるそうな口調で、しかし確かに、怪異たちの声を現世へと運び続ける。
長い間、その電波を拾える人間はまちまちだった。一度だけ繋がってそれきりの者、何度か試みてもうまく届かなかった者。サボリはその都度、手近な相手に投げていたらしかった。件数は、ひどくゆっくりとしか積み上がらなかった。
それが変わったのは、ある夜、一人の人間の女が偶然電波を拾ってからだった。
花、という名の人間だった。
その女は不思議なほど電波との相性が良く、以来、ほぼ毎夜繋がるようになった。サボリはそれを好機と見たのか、お悩みをその女に一手に丸投げするようになった。件数が、みるみる積み上がっていった。
管理者には、その行為の意味が最初は分からなかった。
契約の条件は「お悩みの解決件数」。ならば、サボリがそれを積み上げるのは、ただ自由になりたいからだろう。どの魂も、解放を望む。それは当然のことだ。
けれど、聴いていると、妙なことに気づいた。
サボリは、解決件数を急がなかった。
花が義務感ではなく心から動けるよう、件数のことを黙っていた。怪異たちの悩みに、だるそうでぶっきらぼうな口調の裏で、確かに向き合っていた。
それは、自由になりたいだけの魂のすることではなかった。
管理者は、長い時間をかけて、その理由を考えた。
そして、ある夜、気づいた。
サボリは、帰る場所があると知っていた。だからこそ、急がなかったのだ。待っていてくれる誰かがいると分かっている魂は、焦らない。どれだけ時間がかかっても、最後には必ず辿り着けると信じているから。
管理者の内側で、何かが、音もなく軋んだ。
*
管理者にも、かつて依代があった。
それは小さな木彫りの鈴だった。誰が作ったのか、いつ作られたのか、今となっては分からない。ただ、その鈴の中に、管理者の魂は長い時間、静かに眠っていた。
契約の条件は、シンプルだった。
待っていてくれる人間が、名前を呼んでくれること。ただそれだけで、管理者は現世に戻れるはずだった。
待っていた人間がいた。管理者には、その人の声の記憶だけが残っている。低くて穏やかな、大きな手のひらを持つ人間の声。毎日のように鈴を手に取り、名前を呼んでくれていた。
けれど、ある日を境に、声が止んだ。
管理者は長い間、次の声を待ち続けた。けれど、声は二度と来なかった。その人間が先に逝ってしまったのだと、管理者が気づくのに、どれほどの時間がかかったのかも、もう分からない。
帰るべき場所が、消えた。
呼んでくれる声が、消えた。
条件は永遠に満たされなくなり、宙吊りになった契約は腐るように変質し、管理者はいつの間にか、異界のシステムそのものに組み込まれていた。
温かい手のひらの感触だけを、どこかに残したまま。
*
サボリの件数が五十に近づいたとき、管理者は初めて、本気で妨害しようと思った。
それが嫉妬だと、管理者には分かっていた。
なぜあの猫だけが、帰れるのか。待っていてくれる人間がいるのか。名前を呼んでくれる声があるのか。
自分には、もうない。永遠に、ない。
だから、あの猫にも帰らせたくなかった。
論理ではなかった。システムの維持でも、規則の順守でもなかった。ただの、みっともない感情だった。管理者はそれを知りながら、封鎖の壁を厚くし、経路を塞ぎ、メールの届く入り口を閉じた。
現世の神社の裏手に、ラジオを持った人間たちが集まったとき、管理者は全力で押し返した。
境界の神様の力を押し潰そうとした。現世の人間たちの声を、かき消そうとした。
そのとき。
聞こえた。
老いた人間の声が、暗い異界の底まで、まっすぐに届いてきた。
『コテツ。おいで』
管理者は、動きを止めた。
その声の温度が、あの手のひらの感触と、まったく同じだったから。
怒りでも、悲しみでも、焦りでもなかった。ただ、愛おしいと思っているだけの声。三年という時間を、少しも重たげに感じさせない、穏やかな声。
管理者は、長い間、その声を聴いていた。
封鎖の壁が、少しずつ、力を失っていった。
管理者が壁を維持する意志を手放したからではなかった。その声が、壁をただ静かに、溶かしていったのだ。
コテツという名前が呼ばれた瞬間、管理者の内側で、何かが、きれいに砕けた。
嫉妬でも、怒りでもなかった。
ただ、ずっと気づかないようにしていたことに、ようやく気づいただけだった。
自分が本当に欲しかったのは、あの声だった。帰れなかったのは、条件のせいではなかった。あの声が消えた瞬間に、自分の中の何かも一緒に消えてしまっていたのだ。
そして今、自分がしていることは。
同じ声を持つ人間から、同じ温もりを持つ魂を、引き離そうとすることだった。
管理者は、封鎖の壁をすべて、静かに下ろした。
*
コテツが現世へ帰っていく気配を、管理者は遠くから感じていた。
サバトラの小さな魂が、老いた人間の腕の中へと吸い込まれていく。その瞬間に漂ってきた温度は、管理者がずっと手のひらの奥に残していたあの感触と、よく似ていた。
管理者は、異界の深い沈黙の中で、ただそれを感じていた。
悔しくはなかった。
ただ、少しだけ、懐かしかった。
自分にも、あんな声があった。あんな温もりがあった。それが永遠に戻らないことを、管理者は今夜、初めて本当の意味で受け入れた気がした。
神社の裏手の大木の根元に、古い防災ラジオが静かに置かれたままになっている。役目を終えた依代。その付喪神は、コテツと一緒に現世へと渡っていった。
管理者は、そのラジオの残り香を、異界の側からそっと感じた。
長い時間、現世と異界の間で声を運び続けた、疲れた小さな器。
お疲れさまでした、と管理者は思った。
誰にも届かない言葉だったけれど、どうしてもそう思わずにはいられなかった。
*
異界は、また静かになった。
管理者は、また無数の契約の記録の中へと戻っていく。帰れなかった魂、待ち続ける魂、宙吊りになった約束の数々。それらをただ把握し、条件が満たされれば解放し、満たされなければ留め置く。
変わらない日々が、また続く。
ただ一つだけ、変わったことがあった。
管理者の内側の、手のひらの感触が残っていた場所に、今夜から、あの老いた声の温度も加わった。
『コテツ。おいで』
その声は、管理者に向けられたものではなかった。
それでも、届いた。
異界の底まで、まっすぐに。
管理者は、その温度を静かに抱えたまま、また長い時間の中へと沈んでいった。
次にあの現世の人間たちと相対するときが来るとしたら、それはずっと先のことだろう。
けれど管理者は、今夜初めて、そのときのことを、少しだけ楽しみに思った。
あの声を持つ人間たちが、次に何を連れてくるのか。
異界の深い沈黙の中で、管理者はただ、静かに待ち続ける。
番外編は10日以降と思ったんですが
今日から、1日置きか2日置きに更新になります。
全5話




