表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
真夜中の迷い猫ラジオ 番外編  作者: ゆもニャ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
1/5

番外編①:帰れなかった声

 異界には、音がない。


 正確には、音に似た何かはある。魂が揺れるときの低い振動や、境界が軋むときの微かな摩擦音。けれどそれらは、現世の人間が「音」と呼ぶものとは、似て非なるものだ。


 管理者は、そのことをずっと昔に忘れていた。


 いつから忘れたのかも、もう分からない。ただ、異界の深いところで、無数の魂の契約を管理し続けるうちに、自分がかつて何者だったかという記憶が、少しずつ、砂が風に飛ばされるように薄れていった。


 残っているのは、ただ一つの感触だけだった。


 温かい、人間の手のひらの感触。


 それが誰の手だったのか。なぜその手が温かかったのか。管理者にはもう分からなかった。けれど、その感触だけが、異界の深い沈黙の中で、頑固に消えずに残り続けていた。


      *


 管理者がラジオの付喪神に気づいたのは、ずいぶんと前のことだった。


 サボリと名乗る、だるそうな声の猫の魂。現世の古い防災ラジオを依代として、異界の狭間に縛られたまま、深夜に現世へ向けてラジオ番組を流し続けている奇妙な存在。


 最初は、ただの契約の一つとして、管理者はそれを記録した。


 異界には無数の契約がある。未練を残して彷徨う魂、現世に帰りたいと願う霊、誰かを待ち続けて動けなくなった存在。管理者はそのすべてを把握し、条件が満たされれば解放し、満たされなければ留め置く。それだけのことを、途方もなく長い時間、繰り返してきた。


 サボリの契約もその一つに過ぎなかった。


 のはずだった。


 ある夜、管理者はサボリの発信する電波を、珍しくしばらく聴いていた。


 サボリのやり方は、単純だった。異界の怪異たちから届いたお悩みを、深夜の電波に乗せて現世へと飛ばす。たまたまその電波を拾った現世の人間に、解決を丸投げする。それだけだった。


 自分では動けないから、人間に頼む。だるそうな口調で、しかし確かに、怪異たちの声を現世へと運び続ける。


 長い間、その電波を拾える人間はまちまちだった。一度だけ繋がってそれきりの者、何度か試みてもうまく届かなかった者。サボリはその都度、手近な相手に投げていたらしかった。件数は、ひどくゆっくりとしか積み上がらなかった。


 それが変わったのは、ある夜、一人の人間の女が偶然電波を拾ってからだった。


 花、という名の人間だった。


 その女は不思議なほど電波との相性が良く、以来、ほぼ毎夜繋がるようになった。サボリはそれを好機と見たのか、お悩みをその女に一手に丸投げするようになった。件数が、みるみる積み上がっていった。


 管理者には、その行為の意味が最初は分からなかった。


 契約の条件は「お悩みの解決件数」。ならば、サボリがそれを積み上げるのは、ただ自由になりたいからだろう。どの魂も、解放を望む。それは当然のことだ。


 けれど、聴いていると、妙なことに気づいた。


 サボリは、解決件数を急がなかった。


 花が義務感ではなく心から動けるよう、件数のことを黙っていた。怪異たちの悩みに、だるそうでぶっきらぼうな口調の裏で、確かに向き合っていた。


 それは、自由になりたいだけの魂のすることではなかった。


 管理者は、長い時間をかけて、その理由を考えた。


 そして、ある夜、気づいた。


 サボリは、帰る場所があると知っていた。だからこそ、急がなかったのだ。待っていてくれる誰かがいると分かっている魂は、焦らない。どれだけ時間がかかっても、最後には必ず辿り着けると信じているから。


 管理者の内側で、何かが、音もなく軋んだ。


      *


 管理者にも、かつて依代があった。


 それは小さな木彫りの鈴だった。誰が作ったのか、いつ作られたのか、今となっては分からない。ただ、その鈴の中に、管理者の魂は長い時間、静かに眠っていた。


 契約の条件は、シンプルだった。


 待っていてくれる人間が、名前を呼んでくれること。ただそれだけで、管理者は現世に戻れるはずだった。


 待っていた人間がいた。管理者には、その人の声の記憶だけが残っている。低くて穏やかな、大きな手のひらを持つ人間の声。毎日のように鈴を手に取り、名前を呼んでくれていた。


 けれど、ある日を境に、声が止んだ。


 管理者は長い間、次の声を待ち続けた。けれど、声は二度と来なかった。その人間が先に逝ってしまったのだと、管理者が気づくのに、どれほどの時間がかかったのかも、もう分からない。


 帰るべき場所が、消えた。


 呼んでくれる声が、消えた。


 条件は永遠に満たされなくなり、宙吊りになった契約は腐るように変質し、管理者はいつの間にか、異界のシステムそのものに組み込まれていた。


 温かい手のひらの感触だけを、どこかに残したまま。


      *


 サボリの件数が五十に近づいたとき、管理者は初めて、本気で妨害しようと思った。


 それが嫉妬だと、管理者には分かっていた。


 なぜあの猫だけが、帰れるのか。待っていてくれる人間がいるのか。名前を呼んでくれる声があるのか。


 自分には、もうない。永遠に、ない。


 だから、あの猫にも帰らせたくなかった。


 論理ではなかった。システムの維持でも、規則の順守でもなかった。ただの、みっともない感情だった。管理者はそれを知りながら、封鎖の壁を厚くし、経路を塞ぎ、メールの届く入り口を閉じた。


 現世の神社の裏手に、ラジオを持った人間たちが集まったとき、管理者は全力で押し返した。


 境界の神様の力を押し潰そうとした。現世の人間たちの声を、かき消そうとした。


 そのとき。


 聞こえた。


 老いた人間の声が、暗い異界の底まで、まっすぐに届いてきた。


『コテツ。おいで』


 管理者は、動きを止めた。


 その声の温度が、あの手のひらの感触と、まったく同じだったから。


 怒りでも、悲しみでも、焦りでもなかった。ただ、愛おしいと思っているだけの声。三年という時間を、少しも重たげに感じさせない、穏やかな声。


 管理者は、長い間、その声を聴いていた。


 封鎖の壁が、少しずつ、力を失っていった。


 管理者が壁を維持する意志を手放したからではなかった。その声が、壁をただ静かに、溶かしていったのだ。


 コテツという名前が呼ばれた瞬間、管理者の内側で、何かが、きれいに砕けた。


 嫉妬でも、怒りでもなかった。


 ただ、ずっと気づかないようにしていたことに、ようやく気づいただけだった。


 自分が本当に欲しかったのは、あの声だった。帰れなかったのは、条件のせいではなかった。あの声が消えた瞬間に、自分の中の何かも一緒に消えてしまっていたのだ。


 そして今、自分がしていることは。


 同じ声を持つ人間から、同じ温もりを持つ魂を、引き離そうとすることだった。


 管理者は、封鎖の壁をすべて、静かに下ろした。


      *


 コテツが現世へ帰っていく気配を、管理者は遠くから感じていた。


 サバトラの小さな魂が、老いた人間の腕の中へと吸い込まれていく。その瞬間に漂ってきた温度は、管理者がずっと手のひらの奥に残していたあの感触と、よく似ていた。


 管理者は、異界の深い沈黙の中で、ただそれを感じていた。


 悔しくはなかった。


 ただ、少しだけ、懐かしかった。


 自分にも、あんな声があった。あんな温もりがあった。それが永遠に戻らないことを、管理者は今夜、初めて本当の意味で受け入れた気がした。


 神社の裏手の大木の根元に、古い防災ラジオが静かに置かれたままになっている。役目を終えた依代。その付喪神は、コテツと一緒に現世へと渡っていった。


 管理者は、そのラジオの残り香を、異界の側からそっと感じた。


 長い時間、現世と異界の間で声を運び続けた、疲れた小さな器。


 お疲れさまでした、と管理者は思った。


 誰にも届かない言葉だったけれど、どうしてもそう思わずにはいられなかった。


      *


 異界は、また静かになった。


 管理者は、また無数の契約の記録の中へと戻っていく。帰れなかった魂、待ち続ける魂、宙吊りになった約束の数々。それらをただ把握し、条件が満たされれば解放し、満たされなければ留め置く。


 変わらない日々が、また続く。


 ただ一つだけ、変わったことがあった。


 管理者の内側の、手のひらの感触が残っていた場所に、今夜から、あの老いた声の温度も加わった。


『コテツ。おいで』


 その声は、管理者に向けられたものではなかった。


 それでも、届いた。


 異界の底まで、まっすぐに。


 管理者は、その温度を静かに抱えたまま、また長い時間の中へと沈んでいった。


 次にあの現世の人間たちと相対するときが来るとしたら、それはずっと先のことだろう。


 けれど管理者は、今夜初めて、そのときのことを、少しだけ楽しみに思った。


 あの声を持つ人間たちが、次に何を連れてくるのか。


 異界の深い沈黙の中で、管理者はただ、静かに待ち続ける。


番外編は10日以降と思ったんですが

今日から、1日置きか2日置きに更新になります。

全5話

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ