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娼館に堕ちた悪役令嬢を、元婚約者の王太子はもう一度愛する  作者: ももにく


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第21話 名も知らない女性


「一人、気になる女性がいる」


 そう答えたレオンハルトに、女主人は笑みを浮かべた。


「まあ。どの女性でしょう?」


「……分からない」


「分からない?」


「先ほど、廊下ですれ違っただけだ」


 レオンハルトはそう言った。


 目にしたのは、ほんの一瞬だった。


 長い髪。


 細い身体。


 そして、杖代わりに壁へ手を添えながら歩いていた女性。


 顔は見えなかった。


 ただ――。


 彼女が身につけていた服から、かすかに花の香りがした。


「その女性なら……マリーでしょうか」


「マリー?」


「ええ」


 女主人は少し考えてから答えた。


「目の見えない子です」


「……目が?」


「数か月前から、ほとんど何も見えないようです」


 レオンハルトの表情が変わった。


「数か月前?」


「はい」


「いつ頃からだ?」


「確か……春の終わり頃だったかと」


 レオンハルトの胸がざわついた。


 マリアンヌが王都を追放された時期と、ほとんど重なる。


 だが。


 偶然だ。


 そう思った。


「そのマリーという女性は、どこから来た?」


「さあ。身寄りのない子だと聞いています」


「身寄りは?」


「ありません」


「家族は?」


「いないそうです」


 レオンハルトは黙り込んだ。


 どうしてだろう。


 ただの一人の女性。


 それだけのはずなのに。


 胸が妙に苦しい。


「……呼べるか?」


「もちろんです」


 女主人が微笑む。


「すぐに――」


「いや」


 レオンハルトは遮った。


「無理に呼ぶ必要はない」


「ですが……」


「本人が嫌がるなら、それでいい」


 自分でも不思議だった。


 なぜそんなことを言ったのか分からない。


     ◇


「マリー」


 ミラが小声で呼んだ。


「どうしたの?」


「さっきのお客さん……」


「うん」


「あなたのこと、気にしてるみたい」


 マリーは黙った。


「私を?」


「うん。女主人が話してた」


「……どうして?」


「分からない」


 マリーは胸元の服を握った。


 誰かに興味を持たれることなど、今の自分には意味がない。


 目も見えない。


 家もない。


 家族もいない。


 そして――。


 自分を愛してくれていたと思っていた人にも、捨てられた。


「……放っておけばいいよ」


「でも」


「私はもう、誰かに期待したくない」


 静かな声だった。


 ミラは何も言えなかった。


 以前のマリーなら、こんなことは言わなかった。


 誰かを信じようとしていた。


 王太子が迎えに来ると信じていた。


 けれど今は。


 期待することそのものが怖くなっていた。


     ◇


 一方。


 レオンハルトは部屋を出た。


 目的はあくまで調査。


 月影館の裏にある倉庫を確認するためだった。


 しかし廊下を歩いていると。


 ――コツ。


 小さな音がした。


 杖が床に触れる音。


 レオンハルトが振り返る。


 そこに、女性がいた。


 白い肌。


 長い髪。


 そして、どこか儚げな雰囲気。


 彼女は壁に手を添えながら、一歩ずつ歩いている。


 レオンハルトは思わず道を譲った。


「……すまない」


 女性が小さく頭を下げる。


「こちらこそ……」


 その声を聞いた瞬間。


 レオンハルトの心臓が止まりそうになった。


「……」


 聞き覚えがある。


 絶対に。


 だが、思い出せない。


 いや。


 思い出したくないのかもしれない。


「……君」


 マリーが足を止める。


「はい?」


「以前、どこかで会ったことはないか?」


 マリーの顔がわずかに強張った。


 その声。


 やはり、似ている。


 あの人に。


 でも。


「……いいえ」


 マリーは答えた。


「私は、あなたを知りません」


 レオンハルトの胸に、奇妙な痛みが走った。


「そうか……」


 彼女はそのまま歩き出す。


 レオンハルトは追いかけなかった。


 ただ、遠ざかっていく足音を聞いていた。


 そして。


 彼女の横を通り過ぎた瞬間。


 かすかな香りがした。


 白い花の香り。


 幼い頃の記憶が、一気に蘇る。


『殿下、いつか私が王妃になったら――』


『ああ』


『ずっと、この庭で一緒に花を見ましょうね』


 レオンハルトは目を閉じた。


「……マリアンヌ」


 思わず、その名が口から漏れた。


 しかし。


 廊下の先にいる女性には届かなかった。


 彼女はただ、静かに歩いていた。


 もう二度と、愛した人を信じないと決めたかのように。


 そしてレオンハルトは知らなかった。


 今、自分が呼んだ名前こそ。


 目の前の女性が、誰にも奪われまいと心の奥で守り続けている、本当の名前だということを。

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