六、明日なき蒙塵
さて、連敗を喫した郭汜は軍を返す折に李傕と出くわしていた。
「楊奉と董承は車駕を守って弘農へ向かった。もし山東まで至り、足場を固めてしまったら、まず間違いなく天下に布告して、諸侯に共同して我らを討伐させるよう仕向けてくる筈だ。そうなれば、三族皆殺しにされてしまうぞ」
李傕、
「今、張済の軍勢が長安に拠っているが、そう軽々しく動くことは出来まい。ここは、今までの諍いは水に流し、俺とお前で手を結んでこの隙に乗じるのだ。兵を一箇所に集めて弘農へ向かい、天子を殺して天下を山分けしようじゃないか。どうだ、乗るか!?」
郭汜は喜んで承諾し、手勢を合わせた両者は道中で略奪を働きながら弘農を目指した。獣が皮を被ったような者どもであるから、彼らが通った所はいちいち何も残らぬ有様であった事は言うまでもない。
楊奉と董承は賊兵が遠来したと聞くと、かくて兵を勒えて反転し、東澗にて大いに矛先を交えた。
李傕と郭汜の二人は協議して、
「我々は多勢であちらは無勢。混戦に持ち込めばごり押しで勝てるぞ」
こうして李傕軍が左手から、郭汜軍が右手から、山野を埋め尽くさんばかりの勢いで押し寄せてきた。朝廷軍は、楊奉と董承の死を賭した奮闘により、どうにか帝と皇后の車駕を脱出させる事には成功したが、百官や侍従、符冊典籍、一通りの御用物を全て放棄せざるを得ないほどに追い込まれていた。
郭汜は手勢を引き連れて弘農へ入ると、勢いそのままに略奪を働いた。董承と楊奉は車駕を護衛しつつ陝北へ逃げたが、李傕と郭汜がこれを逃すはずもなく、兵を分けて執拗な追撃を掛けてきた。
董承と楊奉はそこで李傕と郭汜のもとへ和睦の使者を送る一方で、密詔を河東へ送り届けた。すなわち、「白波賊」のもと頭領であった韓暹・李楽・胡才の三将に、急遽応援に駆けつけるよう指令を出したのである。この李楽らもまた山賊の出で、どちらかといえば李傕と同様の輩であったが、今はそうも言っておられず、やむなく召喚されたのであった。
天子から「罪を赦免して官職を賜る」と直々のお達しあっては彼らが参らぬわけはない。手勢を総動員して到来した三将と、董承は力を合わせて弘農を奪い返したのである。
その時、李傕と郭汜は至る所で百姓から強奪を繰り返しており、老弱の者は皆殺しにする一方で、強壮の者を自軍へと組み入れていた。敵に臨めば則ち「敢死軍」と名付けた民兵を前衛に繰り出して、賊の勢いはますます甚大となっていったのである。
李楽の軍勢は渭陽にてこれに遭遇したが、そこで郭汜は兵士に対して衣服を道路へ脱ぎ捨てるように命じた。衣服が地に満ちているのを見た李楽の手勢は我先にとこれを取り合い、あっという間に隊伍の統制は失われてしまった。
李傕・郭汜軍がそこへ四方から雪崩れ込み、李楽は果たして惨敗を喫した。楊奉と董承も押し止める事ができず、車駕を護衛して北へと奔ったが、賊軍は背後から追い立ててきた。
李楽が、
「事態は窮まれり! 天子様、どうか馬に乗られ、先にお逃げくだされ!」
と要請すれば、帝が、
「朕には百官を見捨てて逃げる事などできぬ!」
と述べたので、諸官は皆号泣して相随った。
胡才は乱戦の中で殺害され、董承と楊奉は賊の追撃が苛烈である事を鑑みて天子に車駕の放棄を要請し、一行は黄河の岸辺まで徒歩で向かおうとした。
時あたかも厳寒の天候の中、帝と皇后は必死の思いで岸までたどり着いた。李楽が折よく一隻の小舟を探し出すも、崖の海抜が高く、舟の位置まで下りる事が出来ない。
そうこうするうち、追手は目と鼻の位置まで迫って来ていた。
楊奉が、
「馬の手綱を解いて繋ぎ、陛下のお腰に縛りつけるのだ。さすれば、安全に舟まで下ろす事が出来る」
と提案すると、一団の中から国舅の伏徳が進み出て、白絹十数疋を差し出した。
「わしは乱戦の中でこの絹を拾ったのじゃ。わざわざ手綱を解かずとも、これを使えば良い」
行軍校尉の尚弘が早速白絹を用いて帝と皇后を包み、諸官に命じてまず帝を崖下へ下ろした所、無事舟に乗せることが出来た。李楽は船頭の上に剣をついて立ち、皇后は兄の伏徳に背負われて舟中へと下りた。
岸上に残された者が争って舟の纜を掴もうとすると、李楽はその盡くを水中へ切って落とす。帝と皇后が対岸へ渡ると、再び舟を放って諸人を渡そうとしたが、我先に乗り込もうとした者は皆指を切り落とされ、その哭泣の声は天を震わせた。
彼岸へ渡った後、帝の左右にはわずか十人余りのお供しか残っていなかった。
楊奉は牛車を一輌探し当て、帝を乗せて大陽まで至った。食うものもなく、その晩は瓦屋に宿泊せざるを得なかったがが、その地に住む老人が粟飯を進上してきた。お上と皇后は共に召し上がろうとするも、いかにも見窄らしい粗糲であり、とても喉を通らなかった。
翌日、詔により李楽を征北将軍、韓暹を征東将軍に封じて、車駕は更に進んだ。
やがて二人の大臣が追い付いてきて、車駕の前に泣きながら拝礼してきた。帝が見れば、すなわち太尉の楊彪と、太僕の韓融である。
帝と皇后も再会に涙すると、韓融は言った。
「李傕と郭汜の二賊は頗る臣の言を信頼しております。臣はこれより命を捨てて、二賊に兵を退くよう説得してまいります。陛下、なにとぞご龍体をお保ちくださいますよう」
韓融が去っていくと、李楽は帝へ楊奉の陣営に入って休息を取るように請うたが、楊彪は帝に安邑県へ移るよう打診した。車駕は安邑へ至ったが、やはり適当な高殿もなく、帝と皇后はまたも茅屋の中にてお休みになった。開閉する門は無く、四方に荊を据えて屏蔽とする有様であった。
帝は大臣と茅屋の下で評議し、諸将は兵を引き連れて籬の外部を警護した。
李楽らは権威を独擅し、百官が少しでも気に障る事をすれば、とうとう帝の御前でも罵倒したり、暴力を振るうようになっていった。
さらに李楽は、故意に濁酒や粗食を帝に与えたが、帝は甘んじて受け入れた。
李楽と韓暹はますます調子に乗り、連名で罪人や部曲、巫醫や下郎の二百名余りを推挙して、一様に校尉や御史などの官職に就けてしまった。刻印が足らなかったため、錐にて官名を刻むような出鱈目さであり、全ては根幹から立ち行かなくなった。
さて一方、韓融は強弁によって李傕と郭汜の説得に成功しており、二賊はその言に従って百官及び宮人を解放した。
この年は大変な飢饉で、百姓はみな野草を採って食べ、餓莩(餓死した者の遺体)が野に満ち満ちていた。
河内太守の張楊が米肉を、河東太守の王邑が絹帛を献上したため、帝はようように安寧を得られた。
董承と楊奉は話し合いの末、人を遣って洛陽宮を修復させ、車駕を東都へ帰そうとしたのであるが、李楽が従おうとしなかったため、董承は言った。
「洛陽こそ本来天子が都とされた地である。安邑は狭く、どうして車駕を受け入れるに足りよう。今は、車駕を奉じて洛陽へ帰還する事こそ正道であろうが」
「お前たちは車駕を奉じて去るがいい、俺はここに腰を落ち着ける」
もとは賊徒である李楽の理解は結局得られず、董承と楊奉は車駕を奉じて打ち立った。
が、実は李楽、密かに人を遣わして李傕・郭汜と手を結んでおり、協力して車駕を脅かそうと企てていた。二賊が韓融の説得にあっさり応じた事も、全ては見せかけだったのである。
董承・楊奉・韓暹はその陰謀を知ると、連日連夜軍士を設え、車駕を護送して箕関へと前進した。これを聞き知った李楽、李傕と郭汜の到着を待たずに、自ら本部の人馬を率いて追撃に出た。
四更に差し掛かる頃、追手は箕山の麓へ至り、大喝一声。
「車駕よ、止まれ! 李傕と郭汜、これに在り!!」
その嚇怒、献帝の心胆寒からしめ、山上の火光、一遍に立ち並ぶ。
まさに、前には両賊二手に分かれ、今度は三賊一同に手を結ばん、というところ。
漢の天子は果たして、この難局から逃れ得る事は出来るのであろうか。
それでは、また次回。
──第十三回、おわり──




