一、来攻西涼軍
〜この回から登場する人物〜
・馬超(孟起)176〜☆226
西涼太守馬騰の子で、血気盛んな若武者。のちの蜀の五虎大将軍の一角。
・韓遂(文約)?〜215
馬騰・馬超と親交の深い西涼の群雄。演義と正史とで年齢がかなり異なる人物。
・荀彧(文若)163〜212
潁川郡潁陰県の人。荀攸の叔父だが六歳年少。曹操から「我が子房」と称された筆頭幕僚。
・郭嘉(奉孝)170〜207
曹操の幕僚で、荀彧と同郷の出身。曹操配下の謀臣の中でとりわけ若いが、才気煥発。
・程昱(仲徳)141〜220
東郡東阿の人。曹操の幕僚。正史では身の丈八尺を超す大男である。
・典韋 ?〜197
片手で軍旗を持ち上げるほどの膂力を誇る豪傑で、曹操から古の悪来に比される。
・于禁(文則)?〜221
曹操配下、五将軍のうちの一角。規律を重んじる性格ながら、晩節を汚す。
さて、李傕と郭汜の二賊が献帝を弑逆しようとした所、張済と樊稠が諌めて言った。
「よさんか。今もし俄かに天子を弑してしまえば、恐らくは人々が従わぬぞ。ここは従来通りに主君として奉戴し、諸侯を賺して入関させ、先ずはその羽翼を削いでしまおう。然るのちに殺せば、天下を図る事が出来るはずだ」
李傕と郭汜は二人の言に従い、武器を収めた。
献帝は樓上から説諭を宣う。
「其方等の目的は王允だったのであろうが。彼を既に誅しておきながら、軍馬をどうして退がらせんのだ⁉︎」
李傕と郭汜が言った。
「身共には王室への功がございますのに、いまだ封爵を蒙っておりませぬ。故に、敢えて軍を撤退させずにおりました」
「……其方等は如何なる爵位が望みなのだ」
李・郭・張・樊の四人は各自希望の官品を名刺に書き記して献上した。何とも浅ましい要請に帝も愁眉を作られていたが、抗う術を持ち得ないのも事実であった。
かくて、李傕は車騎将軍及び池陽侯に封じられ、司隷校尉を兼任、軍事・刑罰の独断専行権である節鉞を仮された。郭汜は後将軍となり、こちらにも節鉞が仮された。こうして李・郭の両名に朝政を秉り仕切る権限が与えられてしまったのである。
樊稠は右将軍及び万年侯、張済は驃騎将軍及び平陽侯に除され、兵を率いて弘農へ駐屯する事となり、その他董卓軍の残党の李蒙や王方らもそれぞれ校尉に任じられた。
封爵の沙汰が終わると、西涼軍は恩徳に謝して城を出て行き、一方で命を下して董卓の遺骸を捜索させたが、ほんの僅かな骨や肉片しか得る事が出来なかった。
そこで李傕らは香木を彫って体を象り、大規模な祭祀を行った。棺槨に王者の衣冠を用い、吉日を選んで郿塢へ葬ろうとした。
ところが、葬儀に臨んで平地が水深数尺となる程の大変な雷雨が天より降り注ぎ、稲妻が董卓の棺桶に直撃して、屍骸が棺の外まで吹き飛んでしまった。
かくて李傕、今度は快晴の日を選んで再び葬儀を執り行ったが、その日の夜にも同様の天災が起こった。
それから三度、改めて葬儀に臨むも全て失敗に終わり、僅かに残っていた董卓の骨や皮すら悉くが雷火で消滅してしまったのである。
天の董卓へ対する怒りは、かくも凄まじかったと言うべきであろうか。
さて、李傕と郭汜は大権を掌握してからというもの、百姓に対して暴虐を働くようになった。
また、帝に対しては密かに腹心を遣わしてその左右へ侍らせ、動静を観察させていたのである。
献帝にとっては荊棘の中で身動きするようなものであり、朝廷の官員は全て二賊による黜陟を受けた。
人望に因り、かつて黄巾討伐で名を成した朱儁が採用され、詔により参内、太僕に封じられ、朝政に与る事となった。
これに業を煮やしたのが、西涼太守の馬騰、そして并州刺史の韓遂であった。ある日、この二将は十余万の軍勢を率い、賊の討伐を宣言して長安へと殺奔してきたのである。
馬騰と韓遂は先に使者を長安へ遣わし、侍中の馬宇・諫議大夫の种邵・左中郎将の劉範ら三名に内応を持ちかけた。三者は密かに献帝に上奏、かくて馬騰は征西将軍、韓遂は鎮西将軍に任じられた上で、それぞれ密書を受け、力を合わせて賊を討伐するという形で意思の統一が為された。




