五、伝国の玉璽
さて、袁紹以下十六諸侯が洛陽で虚しく日々を過ごす傍ら、孫堅は宮廷の鎮火と人命救助を終え、洛陽の城内──建章殿の基盤の上に帳を設けていた。
孫堅は更に兵士たちに命じて宮殿の瓦礫を取り除かせ、董卓一味が盗掘した陵墓の凡そをも修復させていた。加えて、太廟の上に殿屋三間を草創し、諸侯に要請して神位を並べ立てさせ、大牢の礼物を供えて祭祀を行った。
祭祀が畢ると、諸侯らはめいめいに散っていった。
当夜は星辰が美しく瞬いており、幕舎へと戻る途上で目を奪われた孫堅は、そこで剣を佩いたまま寝転がり、天文を仰ぎ見た。紫微垣の中に満々と立ち込めるは白い運気。孫堅は歎息して、
「帝王の星が輝きを失っておる……。賊臣めが国を乱し、萬民が塗炭の苦しみに喘いでいる事が、洛陽の空にも現れているとはな」
と述べるや、思いもかけず涙を流していた。
その時、傍らの兵士が指呼して、
「建章殿の南側の井戸から、微かな五色の光が放たれております」
孫堅はすぐに飛び起きると、兵士たちを喚呼して炬火を点けさせ、井戸の内部を探索させた。すると、一人の婦人の遺体が引き上げられた。
宮中の混乱の最中に井戸に転落したとなれば、死後しばらくの時間が経過している筈であったが、その死骸は些かも爛れておらず、宮官の装束を身に纏い、項から錦の嚢を一斤ぶら下げていた。
孫堅が嚢を手に取り、中身を確かめてみると、朱色の小さな箱──それに金の鎖が巻き付けられている。鎖を外したところ、中から出てきたのは一個の玉璽であった。
方形で、周囲は四寸(約9.5センチ)。上部の紐には五龍が交わるという意匠。欠缺していたと思しき上面の一角には黄金による補修が施されており、上の部分には篆書で「受命于天《命を天より受け》,既壽永昌《寿くして永昌ならん》」と刻まれていた。
孫堅は玉璽を手に取りてまじまじと眺めると、傍らの程普に所以を問うた。
「これは、伝国璽ですぞ! この玉璽と申すものは元を辿れば、かつて卞和という男が荊山の麓で石の上に棲息していた鳳凰を発見し、楚の文王へと献上いたしまして、かくて石を断ち割ってみたところ、果たして玉を得たものにございます。秦の二十六年に玉工への命にて璽が作られ、李斯が篆書にてこの八文字を刻みつけたのです。二十八年に始皇帝が巡狩の途上で洞庭湖へと至った際、嵐に見舞われて船が転覆しかけ、玉璽は湖へと投げ出されてしまいましたが、三十六年に始皇が華陰へ巡狩を行った際、玉璽を持った人物に道を遮られました。彼の者は従者に対して『祖龍を持ち帰ったぞ』と告げるや忽然と消えてしまい、こうして玉璽は再び秦へと戻ったのでございます。明年に始皇帝は崩御し、後裔の子嬰が玉璽を漢の高祖へと献じました。後年に王莽が簒奪を為した際に孝元皇太后(王政君)が玉璽を王尋に投げつけ、その一角が欠損したために、金による修復が行われたと聞き及んでおります。その後、光武帝がこの宝を宜陽に於いて得られ、その位は現在に至るまで連綿と伝えられております。昨今となって十常侍が乱を作し、少帝を脅かして北邙へと出向いた折、宮廷から玉璽が失われたとの事ですが……天は今、この至宝を我が君に授けられたのでございます。九割五分……いや、必ずや我が君は登極なさるでしょう! そうなれば、この場に久しく留っておるわけにはまいりませぬ。速やかに江東へと戻り、大事を図ろうではありませぬか」
孫堅は喜び勇んで、
「そなたの言葉こそ、まさに我が意と合致しておる。明日になったら、病気とでも称してすぐに引き上げるとしよう」
商議が定まると、秘密を漏らさぬよう、兵士たちに緘口令が布かれた。




