三、劉備玄徳
さて、黄巾の一党は幽州の界域を侵犯せんと前進していた。
この※幽州の刺史は劉焉──すなわち江夏郡の竟陵県の人氏であり、漢の魯恭王の後裔である。
(※正史には劉焉が幽州刺史に就任したという記述はない)
この当時、「賊兵が至ろうとしている」と聞き得た彼は、校尉の鄒靖を召し寄せて善後策を練った。
鄒靖から、
「賊は多く、我々は寡兵でありますから、一刻も早く応戦する為の兵を招募し、軍を(再)編成すべきかと」
との提案があり、この説を尤もだと考えた劉焉は即座に檄文を発布し、義兵を募った。
こうして涿県へと至った檄文が、ひとりの英雄を世に送り出さんとしていた──
その人はまるで読書を好まず、性格は寛大かつ温和、口数は少なく、喜怒を顔色に表さなかった。平素から大志を有しており、ひたすらに天下の豪傑と誼を結ぶことに奔走していた。
身長は七尺五寸(約181センチ)、両耳は肩まで垂れていて、両手は膝よりも長く、自分の耳を自分で見ることができた。顔は冠玉の如くに色白で、唇は脂を塗ったかのように赤かった。中山靖王・劉勝の後裔にして、漢の景帝閣下の玄孫に当たる彼は、姓は劉、名は備、字は玄徳。
かつて劉勝の子の劉貞が武帝の時代に涿鹿亭侯に封じられ、後に酬金失侯の座に就いたのであるが、それに因んで一族は涿県に移り住んだのである。
※劉備の祖父は劉雄、父は劉弘といった。劉弘はかつて孝廉に推挙されて役人となったが、早くに亡くなってしまった。幼くして父を喪った劉備は母に孝養を尽くした。家は貧しく、蓆で織った履物を売ることで生計を立てていた。
(※原文では基本「玄徳」であるが、以降「劉備」と表記する)
一家は涿県の楼桑村に住んでおり、村の東南に位置する住居には、一本の大きな桑の樹があった。その高さは五丈(12メートル)で、遠くから見ると車の《《ほろ》》のようだったという。
相者は「この家から必ず貴人が出るであろう」と言っていた。
劉備が幼い頃、同郷の子供たちと桑の樹の下で遊びながら、
「おれは天子になって、こんなほろのある車に乗ってやるぞ」
と言ったことがあり、叔父の劉元奇はその言葉から劉備の非凡さを感じ取り、「この子は常人ではないぞ!」と語った。
彼は劉備の家が貧しいことから、常に経済的援助を与えていた。
劉備が十五歳になると、母は愛息を遊学させ、鄭玄と慮植に師事させた。同門の学友には公孫瓚がいた。
劉焉が檄文を発布して兵を募ったとき、劉備はすでに※二十八歳になっていた。
(※正史では、黄巾の乱が起きた頃、劉備は二十四歳)




