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淡々三国演義  作者: ンバ
第一回 桃園に宴し三豪傑義を結び、黄巾を斬りて英雄功を立てる
3/135

三、劉備玄徳

 さて、黄巾の一党は幽州の界域を侵犯せんと前進していた。


 この※幽州の刺史は劉焉りゅうえん──すなわち江夏こうか郡の竟陵きょうりょう県の人氏であり、漢の魯恭王ろきょうおうの後裔である。


(※正史には劉焉が幽州刺史に就任したという記述はない)


 この当時、「賊兵が至ろうとしている」と聞き得た彼は、校尉こうい鄒靖すうせいを召し寄せて善後策を練った。


 鄒靖から、


「賊は多く、我々は寡兵でありますから、一刻も早く応戦する為の兵を招募し、軍を(再)編成すべきかと」


 との提案があり、この説を尤もだと考えた劉焉は即座に檄文を発布し、義兵を募った。


 こうして涿たく県へと至った檄文が、ひとりの英雄を世に送り出さんとしていた──


 その人はまるで読書を好まず、性格は寛大かつ温和、口数は少なく、喜怒を顔色に表さなかった。平素から大志を有しており、ひたすらに天下の豪傑とよしみを結ぶことに奔走していた。


 身長は七尺五寸(約181センチ)、両耳は肩まで垂れていて、両手は膝よりも長く、自分の耳を自分で見ることができた。顔は冠玉の如くに色白で、唇は脂を塗ったかのように赤かった。中山靖王ちゅうざんせいおう劉勝りゅうしょうの後裔にして、漢の景帝けいてい閣下の玄孫に当たる彼は、姓はりゅう、名はあざな玄徳げんとく


挿絵(By みてみん)


 かつて劉勝の子の劉貞りゅうていが武帝の時代に涿鹿亭侯たくろくていこうに封じられ、後に酬金失侯しゅうきんしつこうの座に就いたのであるが、それに因んで一族は涿県に移り住んだのである。


 ※劉備の祖父は劉雄りゅうゆう、父は劉弘りゅうこうといった。劉弘はかつて孝廉こうれんに推挙されて役人となったが、早くに亡くなってしまった。幼くして父を喪った劉備は母に孝養を尽くした。家は貧しく、むしろで織った履物を売ることで生計を立てていた。


(※原文では基本「玄徳」であるが、以降「劉備」と表記する)


 一家は涿県の楼桑村ろうそうそんに住んでおり、村の東南に位置する住居には、一本の大きな桑の樹があった。その高さは五丈(12メートル)で、遠くから見ると車の《《ほろ》》のようだったという。


 相者は「この家から必ず貴人が出るであろう」と言っていた。


 劉備が幼い頃、同郷の子供たちと桑の樹の下で遊びながら、


「おれは天子になって、こんなほろのある車に乗ってやるぞ」


 と言ったことがあり、叔父の劉元奇りゅうげんきはその言葉から劉備の非凡さを感じ取り、「この子は常人ではないぞ!」と語った。


 彼は劉備の家が貧しいことから、常に経済的援助を与えていた。


 劉備が十五歳になると、母は愛息を遊学させ、鄭玄ていげん慮植ろしょくに師事させた。同門の学友には公孫瓚こうそんさんがいた。


 劉焉が檄文を発布して兵を募ったとき、劉備はすでに※二十八歳になっていた。


(※正史では、黄巾の乱が起きた頃、劉備は二十四歳)

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