一、斜陽の王朝
〜この回から登場する人物〜
・劉備(玄徳)161〜223
幽州涿郡涿県の人。漢の中山靖王劉勝の後裔。世の混乱を嘆き、関羽・張飛とともに兵を挙げる。
・関羽(雲長)162〜219
司隷河東郡解良県の人。青龍偃月刀を振るう美髯の偉丈夫。
・張飛(翼徳)168〜221
幽州涿郡涿県の人。一丈八尺の蛇矛を操る直情型の猛将。
・曹操(孟徳)155〜220
徐州沛国譙県の人。乱世の奸雄と称される文武両道の人物。
・盧植(子幹)?〜192
幽州涿郡涿県の人。清廉なる劉備の師。
・皇甫嵩(義真)?〜195
涼州安定郡朝那県の人。朝廷の命を受け、盧植や朱儁とともに黄巾討伐に乗り出す。
・張角 ?〜184
後漢末の反乱指導者。弟の張宝・張梁とともに黄巾の乱を扇動する。
・董卓(仲潁)?〜192
涼州隴西郡臨洮県の人。悪逆非道の徒。
滾滾たる長江は東方へ流れ行き、浪華(白波)は英雄を掬い尽くす。
物事の是非とは。成功と失敗とは。頭を巡らせれば空虚なものである。
青山は依然としてかつての姿のままで在り続け、一体幾度、斜陽の紅を見届けてきたのであろうか。
白髪となった漁師と樵は渚のほとりに。秋月と春風を看る事にも慣れている。一献の酒を酌み交わし、互いに再会を喜び合う。古代から現代に至るまで、全てを談笑に付して──
天下の大勢を語るに、分かたれて久しければ必ず合わさり、合わさりて久しければ必ず分かれるものである。
周王朝の末期には、天下は七つの国々に分かれて争い、秦王朝に併呑された。秦が滅亡すると、楚と漢に分かれて争い、漢が兼併した。
漢王朝は、高祖が白蛇を斬り捨てて義兵を起こしたところより始まり、やがて天下を一つにまとめた。後に光武帝が中興し、献帝に至るまで血脈が伝えられる頃、かくて天下は三国に分裂したのである。
ここまでの混乱をきたした理由を推察するに、殆ど桓帝・霊帝の時代に始められたものと称してよいであろう。桓帝は善良な者たちを禁錮(出仕禁止)し、宦官を信任した。桓帝が崩御すると今度は霊帝が即位し、大将軍の竇武、そして太傅の陳蕃が補佐の任に当たることとなった。
当時は宦官の曹節らが権力を弄んでおり、竇武と陳蕃は彼らの誅殺を目論んだものの、事は露見してしまい、反対に殺害される所となった。
中涓(禁中の者=宦官)は、この事件が起きてより、いよいよ専横に至った。
建寧二年(169)四月望日、帝が温德殿に御幸し高座に上ろうとしたところ、殿の隅から強風がやにわに巻き起こり、ただ見やればそこには一条の青き大蛇。梁の上から下方へと移動し、椅子の上に蟠踞した。帝は驚愕して尻もちをつき、側近は主上を守らんと慌てて駆け寄り、百官は皆逃げ去ったが、須臾にして蛇の姿は掻き消えた。俄かに天より稲妻が迸り、雹の混じった雨が夜半まで止まず、数え切れぬ程の家屋が倒壊してしまった。
建寧四年(171)二月、洛陽に地震が発生し、海水が氾濫して海沿いの家屋の大半が薙ぎ倒され、住民は波に呑まれた。
光和元年(178)、雌鶏が雄に変わった。六月朔日、十丈余りの黒い雲気が飛来して温徳殿を包んだ。秋七月、玉堂に虹が懸かり、五原で山崩れが起きた。
こうした不吉な瑞祥が次々と現れたので、帝は群臣に災異の由縁を問うた。
議郎の蔡邕は上疏して、虹が現れたり雌鶏が雄鶏に変化した事は、婦女や宦官を政治に参画させているが故だとして、彼等を痛切に罵った。帝は上奏文に目を通すと嘆息し、召替えに起った。
曹節は後方から上奏文を盗み見ており、左右の者ら悉くに告げると、かくて蔡邕を罪に落とし、官職を剥奪して郷里に追放してしまった。
張譲、趙忠、封諝、段珪、曹節、候覧、蹇碩、程曠、夏惲、郭勝ら十人は結託して奸計を為しており、「十常侍」と号されていた。帝は張譲を信任して「阿父」と呼んでおり、朝政は立ち行かなくなった。天下の人々は惑乱し、盗賊が蜂起した。