第一節 おわりのはじまり ④
「しら、ないッ……!」
心の混乱のせいで、彼女はいまだにうまく言葉を出せない。今の自分の気持ちすら、よくわからない。嫌なのか、それとも受け入れられるのか──よくわからなかった。
「混乱しすぎて判らないか? なら──もう変なことはしないから、考えてほしいことがある。ユリアはもう『迷子の女の子』じゃないだろう? ……だから、君の気持ちを聞かせてくれ」
テオドルスの声色が、急に真剣なものへと変わった。そして、ユリアを抱き締める力を強め、まるで縋るように言う。
「オレは、いずれ地獄に行くことが確定してるような男だ。だから、ユリアを試すような言動をしてしまう──こんなにも欲深くて愚かなんだ……。それでもオレは、ずっと前から──千年前から……ずっとユリア・ジークリンデが欲しいんだ──」
テオドルスという男の心には『獣』がいる。それを『表に出すべきでない一面』だと断じる冷静な一面も持っている。その冷静さが常に働いて『獣の側面』を抑制できるかは時と場合により、今のように両方の側面が同時に出てくるときもある。こういうとき彼は、甘えたいという気持ちがあるのだろう。『獣』を抑制しなくても、ユリアなら受け入れてくれると思っているからこそ。それでも『獣』を抑制しようとする一面が出てくるため、その冷静さは『とってつけたような常識』ではなく彼の性格だ。
「こんなオレでも、君は……テオドルス・マクシミリアンという男を、伴侶として愛してくれるか……?」
しかし、どれほど真剣さを感じる問いかけをされても、脳内が混乱の極みにあるユリアには答えを導き出すことはできなかった。心臓に悪い甘さと艶のある雰囲気に、早く答えを出さないといけないと思う焦りのせいで。
彼は、千年前から答えを待ってくれている。『獣』である彼が、我慢して待ち続けている。私が恋という感情をわかっていないせいで──。
「──ということで、オレはこれから『自制ができる良い男』になるための修行を探しにいこうと思う!」
「……は?」
ユリアの心が発狂しそうになり、自分を責めようとし始めた瞬間、先ほどの真剣な声色とはうってかわり、いつもの明朗快活なテオドルスの声色に戻った。彼女の身体に絡みついていた腕や拘束術も解く。
あまりにも雰囲気が急変したことで、激しい鼓動を打っていたユリアの心臓も正常に戻り、エネルギー切れを起こしたかのように彼女は呆けた。
テオドルスには、魔力を生み出せる者の気配──つまり魔力から、その人が抱いている感情をおおよそ把握できるという能力を持っている。その能力から、彼女が自己否定に陥りそうになっていることを察し、彼女を案じたため急激に雰囲気を変えたのが理由だ。しかし、そんなことなどユリアは知らない。彼もそれを教えようとはしない。テオドルス曰く、知らなくていいことだからだ。
「あ、そうだ──。この時間のことは、みんなには言わないでくれよ……?」
それからテオドルスは不敵な笑みを浮かべ、人差し指を立てて口に添える。
「……う、ん……?」
心が爆発しそうな雰囲気から解放された。しかし、ユリアの頭はさらに混乱していた。
問いかけの答えはまだ出ていないのだけど?
先ほどまでの甘さと熱っぽさと色気と少々の狂気を感じる彼はどこにいったの?
そんなあなたからの複雑な感情をぶつけられて大事故を起している私の感情はどうすればいいの!?
「──それじゃ!」
そう言うと彼は手を軽く上げ、踵を返して自室を出ていった。
「へっ──? ……。──……え……?」
テオドルスの足音がじょじょに小さくなっていき、やがて聞こえなくなった。玄関の扉が開く音がする。彼は外出したようだ。
ユリアは途方に暮れたように呆け、意味もなく彼の自室の中に入って見渡す。
だんだん冷静になってくると、彼女の脳裏に先ほどのテオドルスとのやりとりが流れ、深呼吸をする。
「──なんなのよ!!? もう!!」
ユリアは思わず叫び、その場に座り込んで彼の寝台に突っ伏した。
「みんなに言えるわけないじゃないッ……! 思い出すだけで恥ずかしいッ……!」
──テオドルス・マクシミリアンという男を、伴侶として愛してくれるか?
頭の中で何度もテオドルスの台詞が再生される。
アプローチするとは宣言されたが、プロポーズみたいなことをするとは聞いていない。
わからない。
わからない。
どうして、こんなにも顔が赤くなってしまうんだろう。
◇◇◇
テオドルスが外出してから少しの時間が経った。ユリアは屋敷の厨房室に赴き、冷蔵庫の中や備蓄している保存食品を物色していた。何か食べたかったわけではない。今日の夕飯はどうしようかと思い立ち、ここに来ていた。
(……耳を舐めるなんて、どういうことなのよ……。なにが『食べたくなる』よ……。意味がわからない……心臓に悪い……)
別に惣菜を買ってきて食べてもいい。無理に料理する必要はない。先ほど帰ってきたばかりなのだから。それでも、何かをしていないとテオドルスとの一連のやり取りを思い返してしまう。
(アイオーンは、いつ帰ってくるのかしら……。カサンドラ様に捕まったのかしら……)
アイオーンは、女王カサンドラにヒノワでの出来事や〈黒きもの〉についての報告をしにいってくれている。用事はそれだけのはずだが、王宮から帰ってこないということは、世間話好きなカサンドラに捕まっているのだろう。
『彼』もユリアと同じく極秘部隊の一員ではあるが、アイオーンの事情を知らない他人とは仕事ができない。その理由は、力を開放しようとすると、アイオーンはもうひとつの姿・白い飛竜になってしまう体質を持っているからだ。これは星霊だったころからあった体質だが、星霊にとっての心臓にあたる『核』を『器』に移し替えると、それがひどくなった。それゆえ、日ごろは主夫のようなことをしており、そのことから家事や料理が得意となった。時間があることから、カサンドラとお茶会をすることも多い。アイオーン曰く、彼女のストレス発散に付き合っているとのことだ。その際に、彼女の孫にあたる少年・フェリクスに簡単な魔術を指導することもあるという。
「──ユリアー? おるー?」
ぼんやりと厨房を眺めていると、廊下側からアシュリーの声が聞こえてきた。その直後に「ユリアちゃーん?」とイヴェットの声も聞こえてくる。
「厨房室にいるわー」
遠くまで届くように声を張ると、少ししてからふたりが厨房室にまでやってきた。
「どうしたの? 今日は実家で過ごすんじゃなかったの?」
「うん。そうするつもりなんだけど……。ダグラスさんからのメールのことと、ナナオおばあちゃんがヒノワの新聞で気になる記事があったってメールが来たから、こっちに来たの。新聞に関してはあたしたちしか知らないだろうから、ユリアちゃんにも伝えようってなって」
そう言って、イヴェットは送られてきたデータを印刷したであろう折りたたんだ紙をユリアに見せた。
イヴェットとアシュリーの実家は、実は隣同士だ。親からもらった土地に家を建てたという。ふたりの両親は、ローヴァイン家の三人きょうだいのうちの一人と、ベイツ家の三人きょうだいのうちの一人であるため、互いの家にも好き勝手に行き来できる。そのため、イヴェットは従姉とそのことについて話し、ふたりでここまでやってきたのだろう。
「ヒノワの新聞に──? ……とりあえず、まずはダグラスさんのメールのことについて話しましょう」
「ん。──ヴァルブルクで、また異変が起きたんやってな……。件の予言どおり、なんか起きるんちゃうかって雰囲気やなって思うてさ。明日あたりに調べに行くん?」
アシュリーが聞くと、ユリアは頷いた。
「ええ。早く調べるに越したことはないと思うわ。……帰ってきたばかりで申し訳ないけど」
その時、ユリアの脳裏にちらりとテオドルスの顔が現れた。出てこないで。こんなときに。
「それはエエよ。──今、屋敷には誰もおらんの? ユリアだけ?」
「ええ……。少し前までテオがいたけど、どこかに行ってしまったわ」
「なんか珍しいな。テオドルスだけどっか行くとか」
「べ、べつに私はあの人といつも一緒にいるわけではないわよ。子どもじゃあるまいし」
ユリアはいつも通りの反応をしたつもりだが、声が裏返っていた。それにくわえて怒りを感じる口調。ほんのりと恥ずかしさや戸惑いを顔に浮かばせている。それらのことに、イヴェットとアシュリーは面白そうに微笑んだ。
「……ユリアちゃん、テオさんと何かあった?」
「な、なんで?」
イヴェットにそう問われると、ユリアは身体を強張らせる。
「今のユリアちゃん、恥ずかしさと戸惑いと怒りが混じった顔と声してるなーって思って。そんな感情出す相手なんて、テオさんしかいないでしょ?」
イヴェットがにっこりと笑って言うと、ユリアはスッと表情を無くして口を閉ざした。




