第十節 識の光芒 ⑤
「あいつらも連れていくつもりか? 件の予言には、それらしき言葉があったが」
「ええ。それもあるけれど……このことを話したら、きっとみんなも行きたいというはずだわ」
「それもそうか──」
ふたりの意見が一致した。フドウはふたりの意思を受け入れたように頷き、ユリアに目を向ける。
「その前に……ユリア・ジークリンデ殿。そなたに聞きたいことがある」
「はい。なんでしょうか」
「──そなたは今、夢を持っているか?」
「……夢……?」
「いや、ただの雑談のような気持ちで問うただけだ。些細なものでも構わぬ。軽い気持ちで答えてくれ」
そう言われたが、ユリアは答えられなかった。彼女の視線が戸惑いながら泳ぐ。
「もしも夢が思いつかぬというのなら、やってみたいことはあるか? 今のそなたは極秘部隊──ゆえに自由の利かない立場だが、それでも現代にはさまざまな道がある。叶わないだろうと思っていても、『このように生きてみたい』、『ああしてみたい』といった願いは少しも生まれなかったか?」
黙っていたら引いてくれると思っていたユリアだったが、新たに予期せぬ質問が提示された。
夢。やってみたいこと──探せども答えが出ない。困った顔をし続けながら口を閉ざすユリアに、フドウは眉を顰めた。
「……ないのなら、ないで構わない。ただ、己に問いかけてみてほしい。──そなたは『何のために』生きたいと願っておる?」
眉を顰めたフドウの顔が『苛立ち』に見えたユリアは、焦りを見せながら頭に思い浮かんだ言葉を口にする。
「な、何のためと言われたら──夢なら、私にもあります。私は、力を持つ者として現代を生きる者たちを守りたいと思っています。それが私の夢です」
しかし、フドウは残念そうに首を振った。
「……余にとっては……──そなたの夢は、まるで呪縛のようなものだと思ってしまう……」
「え……?」
「先ほどから、そなたの受け答えは『英雄らしく見えるための模範解答』を選んでいるかのように感じるのだ。過酷な人生を歩んでいたとはいえ、心が育っていないわけではあるまい。この現代を生きていて、何の興味も抱いていないわけでもないだろう。──なにせ、そなたは、心が傷ついていたアイオーン殿の友になれたのだから。ゆえに、余は思うのだ」
届いてくれ。そう懇願する目を、フドウはユリアに向けた。
「そなたは……己を呪っているのではないのか。明確な夢や望みを持てていないのは、かつての使命や後悔を重んじるがあまり、持ってはいけないと思っているのではないか」
「……もうひとつ、望みがあります……。今の家族と、ずっと一緒にいたいです──」
ユリアは、顔に感情を浮かべることなく言い返す。だが、その声はあまりにも小さいものだった。
「大切な人とともにいたいという気持ちは、誰かから温かな気持ちや思い出をもらったという実感があれば自然に生まれるものだ。余が聞きたいのは、そういう望みではない」
刹那、ユリアは顔を引き攣らせ、固まった。次の言葉が出てこない。
「……己を呪う必要など、どこにもない──呪うことなど止めなさい。アイオーン殿やそなたの友や家族は、きっとそなたが幸せに生きることを望んでいるはずだ。それを否定してまで、己を追い詰める必要などどこにある? それで、誰かが救われるのか? ──否。誰一人として、幸せにはならないだろう」
ユリアはわずかに口を動かした。しかし、動かしただけで言葉は出てこない。それから何度か口を開くも、すぐに閉ざす。思考回路や感情が止まってしまったかのようだ。ユリアは、もう一度何かを言おうとする意志を見せるも、やはり言葉を口にすることはなかった。やがて、フドウは言う。
「……嫌われることを承知で申そう。単刀直入に言えば、そなたのその意思は──ただの自己満足でしかない」
「──」
自己満足──何も言い返せない。
そうだ。わかっている。自分を責めていてもなにもならない。そんなことは知っていたはずなのに──。
見て見ぬふりをしていた部分をフドウに容赦なく突かれたことで、ユリアは深く俯く。
ユリアの隣に座るアイオーンは、目線を下げながら沈黙を貫いていた。
──『これ』は、今の私にとって必要なものなのか。
ユリアに対して酷いことを言われていれば、アイオーンは声を荒げて反論してくれるはずだ。それがないということは──必要な『痛み』。ユリアは、それを直感で感じ取った。
先ほどのフドウの言葉の意味が、ユリアの脳裏に反芻する。
自分を否定することで、過去の人々の祈りが報われるだろうか? ──否。
今、私がしている『自己否定』は、ヴァルブルクの民たちの『信仰心』を踏みにじっている行為ではないか。かつては、『祈られる』ことを受け入れていたというのに。
私の精神に存在する『矛盾』──私は、それに目を背けていた。
『矛盾』。そういえば、テオドルスとふたりでプラネタリウムを観ていたときも、彼が言っていた気がする。「君は自分の心の中にある『矛盾』を自覚しないだろう」と──だが、彼はその詳細を話さなかった。デートだったから、あえて言わなかったのだろうか。あの時の彼は、私が『楽しさ』や『ときめき』を抱くことを優先していた。
(……アイオーンもテオドルスも、私ならできると信じてくれている──? それとも、それを指摘したくても、私になにか『足りない』ものがあったから──?)
このとき、ユリアはあることを推測する。この『呪い』は、自力で解かなければ意味がないのではないか。そのことをふたりは感じていたのではないか。
「……アイオーン殿やそなたの仲間たちは、きっとそなたに優しい言葉をかけていたことだろう。だが……そなたが自身にかけている『呪い』は、その温かな優しさではどうにもならないレベルのものだ」
ああ、やはりそうだ──。この『呪い』は、『呪いにかかっている自分』を認め、そして向き合って、自分で解かなければならないものだ。
(私は……自分の過去を責める必要はなかった……。過去ばかり見つめて、目をそらして──自分自身を責めていても、なにも得るものはなかった……。ヴァルブルク城の玉座の間で、アイオーンに『これからの私を見ていてくれる?』と言ったくせに──私は、ずっと後ろを向いてばかりいた。なにが『見ていてくれる?』よ……。なにも出来ていなかったじゃない……)
それが、自分が抱えていた『呪い』。その『呪い』を自覚できていなかったのは──。
(自身を責めることで、『身勝手で歪んだ癒し』を感じていた……。自己否定することに、一種の快楽を感じて──自分だけが満たされて満足する『趣味』のようなものになっていたかもしれない……)
自己否定の快楽性にはまってしまっていた。自分を責めることに依存してしまい、その自罰的な癖は心のどこかで『正しいことをしている』気になってしまっていた。それは、単なる自己満足でしかないというのに。誰も救えない『負と快楽のスパイラル』──ユリアは、己の精神にそれがあることを初めて認識した。
「そして、もうひとつ……伝えたいことがある。──〈預言の子〉であるそなたに、感謝を申し上げたい。ゆえに、ユリア・ジークリンデよ。もう己を許してやってほしい」
感謝──?
その言葉を聞いたユリアは、驚いた表情で顔を上げた。
「ユリア・ジークリンデよ。きっと、そなたは、〈預言の子〉として生まれたことでひどく苦しんでいただろう。だが──余は、そなたが〈預言の子〉で良かったと思う。……〈預言の子〉であることを受け入れてくれて、ありがとう。世界のために戦ってくれてありがとう。現代人を代表して、そして、かつての時代に生きていた者を代表して、このフドウ・トシヒロ──星霊クリカラが、感謝と敬意を申し上げる」
「そ、そんな……感謝なんて……」
ユリアはあり得ないものを見たかのように慌てている。
「──フドウさん、私は……使命を果たせなかったのですよ……? 心を病ませてしまって……そこから立ち上がれなかったんです……! 私が強くなかったから──!」
「クリカラ」
すると、アイオーンがユリアの言葉を遮り、制止するように彼女の顔の前に手を出した。
「ユリアは、民を守るために〈黒きもの〉を取り込んでしまった実の両親と、婚約者を殺さなければならなくなったんだ。その後、三人との闘いでユリア自身も〈黒きもの〉を取り込んでしまい、自害を選ばざるをえなかった……。だから俺は、ユリアを救うために星霊の核をユリアに埋め込んだんだ──」
フドウは驚くことはなく、ただアイオーンの言葉を静かに聞いている。ユリアが不老不死になったことと、アイオーンと同質の魔力を持っている理由をあえて聞かなかったフドウだが、なんとなく察しがついていたのかもしれない。
「元婚約者は、俺の血を飲んで力を持っていたからか、この時代になってからいろいろあって戻ってきたが──そのような事件があったために、当時のユリアは心を病ませてしまった。……俺も、その三人には死んでほしくなかった……。だから、その事件の顛末を知ったことで、俺もまともな思考はできなかった……」
「……そうか……。ふたりは『地獄』を見て、今に至るのか……」
そして、アイオーンから話を聞き終えたフドウは、ユリアを見た。その目には慈愛があった。
「〈預言の子〉──ユリア・ジークリンデよ。そなたは『地獄』を経てもなお、頑張ってくれているのか……。なればこそ、幸せになってくれ。そなたは幸せになっていい。そうなるべき人間だ。現代に現れた〈黒きもの〉については、余も立ち向かう所存でいる。だから、ひとりですべてを背負おうとするな。共に立ち向かい、戦いに挑もうではないか」
「──」
ユリアは言葉を失っていた。
〈預言の子〉と呼ばれたうえで、ひとりの人間として共闘しようと言ってくれたことなど、一度もなかったのだ。〈預言の子〉の隣に立てる人間や星霊は、テオドルス・マクシミリアンとアイオーンのみと言われていた。〈預言の子〉は、神の化身だという認識が世にあった。アイオーンは神のような力を持った星霊。その力を貰ったテオドルスは、神に近づくことを許された人間──だからこそ、ユリアが心を許せる存在はそのふたりしかいなかった。
「……ありがとう……ございます──」
ユリアは涙を流していた。ユリアは、抱える気持ちが軽くなっていくことに気が付いた。心の底に渦巻いていた『重くて黒い、言葉に言い表せなかった何か』が少しずつ薄れていき、まるで霧が晴れていくかのような気持ちだ。
きっとそれは、赦されたからだ。
第三者から心にあった歪みを指摘され、叱咤され、そして赦された。感謝された。この時代にやってきて、ようやくユリアは、初めて第三者から『神の化身としての自分』と『人間である自分』を認められたのだ。その経験を得られたのは、この時代だからこそかもしれない。生れた時代では無理なことだ。
私に必要だったのは、『赦し』と『認められること』だったのか──。
「……すみ、ません……」
ユリアは、こんな時にはどのような感情を表せばいいのかわからなかった。ただ、涙が止まらない。うまくしゃべれない。彼女の呆けた顔に、涙がとめどなく溢れていく。
「謝るな。余は感謝しているだけなのだぞ? ……謝り癖がついてしまっているのなら、少しずつやめていきなさい」
「……はい。……す、み……ま、せん……」
フドウからの慈愛の言葉に、ユリアはたまらず席を立ち、退室した。涙を止められなかったことが恥ずかしく感じたか。あるいは、余計に涙を止められなくなったか。
「謝るなと言ったばかりだというに──それほど、己を罰していたのか……」
フドウは眉を潜めながら目を伏せ、やがて天井を見上げた。
「勝利をもたらす存在になるという神の預言──それを現実にすべく、彼女は育てられたのだったな。しかし……赤ん坊の頃から『人間ではない』と教え込んでも、人間は神になるべきではないし、神にはなれない──。余がそう思うのは、ヒノワがヒルデブラントやヴァルブルクといった国々に比べて、〈黒きもの〉による被害がかなり小さかったからか……」
その後、しばらく沈黙が訪れた。やがて、やや俯きながらアイオーンは語る。
「……あの時代のヒルデブラントやヴァルブルクは……正直、俺にとっては受け入れがたかった。どう見ても人間であるユリアを、大勢が盲目的に神と信じていたことが──自分らしくいたいと思っている子どもが、自分の気持ちを必死に隠しながら『神の化身』を演じているのが……気味が悪かった──」
正直な想いを吐露したアイオーンに、フドウは複雑そうな想いを抱えた目で頷いた。