第九節 アイネ・クライネ・ナハト・セレナーデ ②
「いくら科学館が楽しいからって、何事にも限度があるでしょう」
「たしかに科学館を楽しんでいるが……今は、ユリアとのデートだ。だから、年甲斐もなく舞い上がってしまってな」
「……」
甘い言葉を言われても、ユリアは態度を変えない。テオドルスはシュンとした。
「……頑張って我慢する。──だから、機嫌を直してくれないか? 一緒に笑いあえるデートにしていくからさ」
「……私はどこにも行かないから、少しは落ち着いてちょうだい。わかった?」
「うん」
言った言葉の雰囲気のせいでもあるが、なんだか姉と弟みたいな会話のようだとユリアは思った。デートとはいったいなんなのだろう。
そして、プラネタリウムの上映が始まった。
内容は、星座と神話について。夜空の星々の輝きが美しい映像を、誰もが静かに鑑賞していた──その時。声のない意思が、ユリアの脳裏に流れてきた。
『現代という時代は、科学と技術を駆使すれば、このように現実のようであり幻想的でもある光景を見せてくれるのだな──。あの頃は、文明の発達がここまでの驚きを見せてくれるものだとは考えもしなかった』
テオドルスが、魔力による意思伝達で話しかけてきた。プラネタリウムの上映前に、私語厳禁という注意事項が放送で流れていた。それを守るために、彼はこの方法をとったのだろうとユリアは推測する。この感動を誰かに伝えなければ、落ち着くことができなかったようだ。彼に落ち着きがないのは、いつものことだ。
『私も、初めの頃は驚いたものだわ──』
やがて、プラネタリウムの映像にとある星座が登場した。
あれは、たしか──。
『……この星座が持つ物語──たしか、あなたが好きな物語よね』
『ああ。星座となった人物は、とても勇敢な性格で戦いに明け暮れた男だからな。星座となっても戦っているなんて──オレもそうありたいものだ』
『またそんな戦闘狂なことを……。──けれど、そんなあなたから、私はいろいろなことを教えてもらったわね……。楽器の弾き方や星座の知識、弓術や狩りのこと。教養から雑学まで、本当にいろいろなことを──』
ただの無謀な戦闘狂だったなら、側近になってほしいとは思わなかった。だが、彼はユリアの心の内に生まれていた『闇』を見抜いた。まるで知らない魔術でも使ったかのように。
『君に教えたことは、どれもオレの両親が教えてくれたものだ。オレが獣にならないようにと、世界の美しさや面白さを教えてくれた。──だから、ユリアに教えたかった。世界はけっこう面白いんだぞってな』
『そのおかげで解ったわ……。世界は面白くて、醜くて、悲しくて……それでも、美しいところがあるって。それが、世界というものなんだって……』
『だろう? 存外、世の中というものは捨てたものじゃない。だって、神に祈りながら殺すこともできて、ユリアを神聖視しない罪人かつ異端なオレでも、信じてくれて愛してもくれる人たちがいるんだからな。こんなオレが許されているんだ。神の化身ではない本当のユリアだって、絶対に許される存在だと思っていた』
『……ありがとう。本当の私を認めてくれて。そのうえ、愛してもくれて──』
その後、テオドルスからの意思は途絶えた。鑑賞の邪魔になってしまったか──しかし、後にそうではなかったとわかる。
『……オレは誓おう──たとえ世界が敵になったとしても、オレは君の味方であり続ける。世界が君の敵になったら、オレも世界の敵になろう。そして、そんな世界を破壊しつくしてやる』
突如として、テオドルスが衝撃的な意思を伝えてきた。
世界が敵になったら? そんな世界を破壊する?
『な、なに……? 急に……』
『これから話すのは、もしもの話だ。ちょっとだけ付き合ってくれ。──もしも、罪だとわかっていても、ユリア自身はこうするべきだと思っていることがあって、そのせいで世界が敵になったとしたら……ユリアはどうする?』
『……みんなを、説得……すると思う……』
彼の真意がわからないまま、ユリアは思いついたことを伝える。先ほど届いた、不穏な意思に一抹の不安を感じながら。
『説得か。ユリアらしいな。──では、戦うことが避けられないとなったら?』
『そうなったら……私が間違っているのかもしれない……』
戦いなんて起きないほうがいい。それでも、そうなってしまうということは、それほどまでに己の道を受け入れられないとみんなが判断したからだろう。
『自分が信じて進んでいた道が、間違っていると言いたいのか? ──べつに、君と敵対する者が選んだ道のほうが、必ずしも正しいというわけじゃないと思うぞ。ただ、違う正義を持っていたから敵対することになったんだ』
『それでも、大勢の人たちがそうなることを望んでいないのなら、自分が正しいと思っていてもそれを押し進めようとは思わないわ。世界とは、自分だけのものではない。みんなのものよ』
『君の考えは正しいのかもしれない──だが、君は昔からそんな道ばかり選び続けている。このまま、ずっとそうしていると……君は、自分を見失っていってしまいそうだな……』
テオドルスは少し考えた。そして──。
『──だから……オレがそんな世界を破壊する。……それに対して、ユリアはどう思う?』
刹那、ユリアの口から「は……?」という声がもれた。
『ど、どうって……どうして……? ──駄目よ。そんなことをするなら……私は、あなたから世界を守るわ』
なぜ、そこまでして自分の手助けをしてくれるのか。ユリアにはわからなかった。
『う~ん……そう来るか──。でも、そういう君だからこそ、オレはユリア・ジークリンデという人間を好きになったんだろうな』
と、彼はなにかに困ったような意思を伝える。
どうして、こんな『もしも』の話をし始めるのか。何かを探ろうとしている雰囲気があるが、それが何なのかはわからない。
『……だったら、オレはこうすることにする──。君がそんな世界を守るというのなら、オレは君に戦いを挑んで、そして勝ってから世界を滅ぼすとしよう』
『どうして……? どうして、そこまでするの……?』
『もしも』の話でも、彼ならしかねないことだとユリアは感じた。だから動揺してしまう。
『どうしてって──ユリアが、いつまでたっても優しくて生真面目な性格だからさ。……ユリアは、昔からずっと誰かのために頑張ってきた。なにが世界のためになるのか、どうすれば少しでも民の苦しみを和らげることができるのか──君は、そうやって他者のことを深く慮ることができる人間だ。それなのに、自分にはまったくそうしようとしない』
『そんなことは……』
『そういう人間なんだ、君は。いつまでもそんな感じだと、いつか本気で壊れてしまうぞ? 誰かが本当に正しいことで怒ってくれても、その言葉が届かない人間になってしまうかもしれない。甘えや厚意を受けとることは、弱虫なことじゃない。それを受け入れて、心が満たされるからこそ、人は成長していける──オレはそう思っているんだけどな』
『……それでも、私は……あなたを止めるわ』
それこそが、自分がすべきこと。ユリアはそう思った。
しかし、テオドルスは呆れたように息をつく。
『強情だな──。……オレを止めるだけでいいのか? 今のオレには、この現代の国々を滅ぼせる力を持っている。大気中の魔力が薄いから大規模な魔術は使えないということは、オレにとったらそこまで不利なことじゃない。この身があれば、誰でも倒せる。──そのための方法だって、いくらでも導き出せるぞ』
壊そうと思えば、大国だろうがいつでも壊せる。それを実行できる──ユリアは追い詰められたかのように戸惑い、頭がうまく働かなくなってしまった。もしもの話だというのに、どうしてこんなにも焦ってしまうのか。そして、テオドルスは、茫然としているユリアにたたみかける。
『それでもユリアは、オレを止めるか? ……もう一度、オレを殺せるか?』
『──ッ!!? な、なにを──なにを言って……!』
彼が何を思ってこんなことを言い出したのか──意味がわからない。だが、これだけははっきりと言える。
『あなたを殺せるわけがないじゃないッ! もう嫌よ! あんなことッ!! あんな記憶、増やしたくない!!』
そんなことを言われたら、いやでも『あの日』のことを思い出す。
約千年前、〈黒きもの〉を取り込んでしまったテオドルスを殺さなければならなかった日。さまざまな奇跡が重なって、テオドルスは今ここにいるが──それでもこの記憶がトラウマであることに変わりない。
そのため、ユリアは怒りを爆発させた。その感情が魔力に乗り、力を増幅させた。意思伝達の魔術は対象者に攻撃できるものではないが、乗せられた感情が強すぎたことで、テオドルスの体内に何らかの痛みをもたらしたようだ。そのため、彼は「うっ……」と小さく唸る。
『……ごめん……。だから……そのときはオレに負けてくれ。──けれど、安心してくれ。ローヴァイン家とベイツ家は、オレたちの家族だ。オレが殺す世界に含まれていない』
テオドルスは優しくユリアの手を握った。しかし、ユリアは握り返さなかった。
『……──なんなの、この会話……。世界を壊すだとか……負けろだとか……』
やがて、ユリアは、テオドルスの手から自分の手を引き離した。
『……やっぱり、ユリアは今も昔も真面目すぎるな。神の化身や英雄だと言われていた頃から、その思考回路はまったく変わっていないのだとよくわかった。──もっと気楽に生きていいんだぞ』
と、テオドルスは顔を横に向けて、困ったようにユリアへと微笑んだ。




