絶望の崖の底
私はお腹を思いっきり蹴られた後、崖の底に向かって落ちていた。
もうハイデマリー叔母さまなんて呼ばない!
あの人のことは、ハイデマリー、もう呼び捨てでいいだろう。
ものすごい勢いで崖の底に向かって落下しているのを全身で感じる。
感じるけどもう身体が限界なのだ。
ただ落ちることしかできない。
と思っていると、急に右肘に激痛が走った。
(痛っ!!)
途中から崖の岩肌は真っ直ぐではなく斜めにでもなっていたのだろう。
レティーツィアの身体は落下するスピードをそのままで思いきり岩肌にぶつかった。
当たり前だが落下して硬い岩肌にぶつかったら無傷ではいられなかった。
右肘からぶつけたから、おそらく右肘の周りの右腕の肉はえぐれてしまっただろうし、あの痛みはきっと骨折もしていると思う。
冷静に自分の怪我を推理している場合か!とつっこまれるかもしれないけど、魔力封じの手錠のせいで魔力も使えなければ、もはや体力も残ってすらいないのだ。
きわめつけは、レティーツィアには大切な家族も帰る場所も何もかももう存在しないという絶望のせいで、もはや何も抗う気になれそうにないのである。
レティーツィアの右肘を中心に右腕を岩肌にぶつけた後、レティーツィアの身体は崖の岩肌に沿ってゴロゴロと身体中のあちこちをぶつけて大小様々な傷を作り続けながら崖底まで転がり落ちていった。
ーーー
…まだ生きているのね。
崖の底に転がり落ちたレティーツィアの身体は、崖の底が暗くて何も見えなくたってわかるほどボロボロだろうことはすぐにわかった。
焼けるように痛みを訴える身体、流れ続ける血液でドンドン下がっていく体温、次第に朦朧としてくる意識。
辛うじてレティーツィアの命が続いていることはわかる。
でも、それもあと少しで死に向かうのだろうとレティーツィアは思った。
最後に頭が朦朧とする中で、レティーツィアは悪役令嬢ハイデマリーのした所業を思った。
悪役令嬢ハイデマリーに私の家族は…!
さっきまで絶望をばかり思い浮かんでいたのに今は悪役令嬢ハイデマリーを思い出すほどに怒りが湧いてくる。
許さない、許さない、許さない!!
悪役令嬢ハイデマリー、あなただけは許さないわ!
私から魔力も健康な身体も家族も王位継承権も全てを奪った女、悪役令嬢ハイデマリー。
…悔しい。
だけど、私の命はきっとここまでだ。
あんなに感じていた身体の痛みは鈍くなり、寒さと猛烈な眠気が襲ってきて頭が働かなくなってきた。
こんな崖の底で私の人生は終わるのか………。
レティーツィアは死の間際で悲嘆にくれた。
「私の眠りを妨げるものは何者だ!
名前を名乗れ!!」
そのとき崖の底で聞こえるはずのない大声が鳴り響いた。
レティーツィアは、「きっとこれが黄泉の国の入り口の通過儀礼なのね」と思い最後の力を振り絞って掠れた声でつぶやいた。
「レ、ティー、ツィア……。」
―――
(なんだろう…身体がふわふわしてすごく、きもちいい……)
気がつくと私の身体はふわふわとした何かに包まれているようだった。
優しい、私の全てを包み込み癒してくれるそんな空間なのだと本能ですぐに理解した。
黄泉の国とはこんなに身体全身に快楽を感じるような気持ちがいい場所なのか、と私は満足していた。
こんなに気持ちがいいなら、私の早めの黄泉への早期入場も悪いものではないな。
いや、前言撤回。
…あいつだけは許せないな、悪役令嬢ハイデマリー!
悪役令嬢ハイデマリー、あなただけは絶対に許さない!
かなり口調が乱れており、お前は王女ではなかったのか!と、もしここがお城であればツッコミ満載の嵐だっただろうが、ここはお城ではないのだ!
そう! 私は黄泉の国にいる!
黄泉の国でまで王女をやるつもりはない!
お城では今まで王位継承者として品行方正で礼儀正しくお淑やかなレティーツィア、としてやってきた。
だが、何度も言うがここはお城ではない。
ここは黄泉の国!
誰にも見られることはないし、誰にも咎められることもないのだ!
そう、つまり、、私は自由だぁー!!
黄泉の国とはサイコーの場所だ。
身体の全身を巡るこのなんともいえない快楽の嵐と今までに感じたことのない精神的な解放感。
あぁ、快感! なんてね。……おっと、ふざけてる場合じやないね。
「おいっ、お前、私の領域で何をしている!
私の婚約者になったのだからまず私に挨拶をするのが礼儀だろう!」
私が黄泉の国で1人でお楽しみ中に邪魔してくるこの雑音はなんだろう。
…邪魔だな。 うん、無視しよう。
あぁぁぁ、し あ わ せ ! !
「おい、だからそこの女!
私に挨拶をしろ!!」
「うるさいですね。
私がお楽しみ中なのがわかりませんか?」
あぁ、爆音の雑音がうるさすぎてつい反応してしまったではないか。
あんなに生前は嫌な目に遭ったのだから、今くらい自由にさせてほしいものだ。
あんなにいい子で王位継承者として勉強にも取り組んできたし、社交だって愛想良く我慢して耐えてきたのに、大切にしてきた家族同然の、それも王族の叔母の悪役令嬢ハイデマリーに私の家族は……。
思い出したくなかったのに、絶望が、悲しみが、悔しさが、憎しみが、溢れてきた。
レティーツィアは、おとなしくなり黙り込んで今までのことを振り返っていた。
「ふっ、やっと挨拶をする気になったか!
先程までの無礼は許してやる!
早く私に挨拶をせよ!!」
あれ? おかしいな。
まだ爆音の雑音が続いてるようだ。
…うるさい。
うるさすぎる。
「だから、うるさいって言っているでしょ。
人に挨拶しろと言う前に、まずあなたから挨拶しなさい。
それが礼儀ってものでしょ。」
「うっ、、、それもそうか。
私は其方の婚約者、黄金竜ハルトムートだ!」
ハルトムートと名乗る黄金の竜はレティーツィアの前に姿を現した。
黄泉の国はうっすらと明るい空間だ。
もともとうっすらと明るかったけど、そうじゃない。
この竜が現れた途端に明るさが増した。
このハルトムート自体が輝いている。
「…婚約者?
いつこのレティーツィアがあなたの婚約者になったというのよ。
私はあなたの婚約者になった覚えなんてありません。」
「む?
其方が私の封印を解いて私と婚約者の契約を交わしたのであろう?」
は?
封印を解いた?
そもそも婚約者の契約なんて交わした覚えなんてないし。
「其方、本当に覚えていないのか、、それとも、まさかはぐらかそうとしているのか?
私の封印の魔法陣に大量の魔力と大量の血液を捧げた後に名前を名乗って私との婚約者の契約を交わしただろう?」
…………は?
嘘でしょ。
でもハルトムートが言うことに心当たりがある。
私は悪役令嬢ハイデマリーに痛めつけられた後に崖を転がって傷だらけになっていたのだからレティーツィアの身体は全身血だらけだっただろう。
もしその身体でハルトムートのいう魔法陣とやらに私の身体が触れたのなら、そりゃ大量の血液を捧げることになっただろう。
悪役令嬢ハイデマリーは私が攻撃ができないように両腕に魔力封じの手錠をかけていた。
王位継承者に選ばれるほどの魔力保持者だった私の魔力は、悪役令嬢ハイデマリーに魔力を封じられてたせいで魔力での反撃の1つすらできず全て体内に温存されていたはずだ。
常識だが魔力保持者の血液にも魔力は含まれている。
王位継承者に選ばれるほどの魔力保持者だったレティーツィアの血液にも体内に温存された大量の魔力が含まれていたはずだ。
それに私は崖を落ちるときに全身にできた傷で大量に出血して死にかけていた。
王位継承者の私が死にかけるほどの大量の出血をしたなら大量の魔力が流れたはずだ。
そして、名前を名乗った記憶も、、、確かにある!
あぁぁぁぁぁぁぁ!!!
やらかしている!
私、不可抗力とはいえ色々とやらかしているじゃないかー!
「…婚約破棄よ。
今すぐ婚約破棄しましょう。」
「何を言っている?
この黄金竜ハルトムートとの契約は1度結んだら破棄することなど不可能に決まっているだろう!
今まで私と契約したがったやつは大勢いたが、私と契約する前に血液を流しすぎるか魔力が足りなさすぎて全ての者は契約できずに死んでいったのだぞ!
私と契約できるなんて其方は幸運だったな!」
なっ、なんてことだ!
婚約破棄すらできないのか!
しかも、幸運だと?
どこがだ!
「黄泉の国にきてすぐに変な奴と婚約者になるなんてとんだ災難よ!
しかも婚約破棄すらできないなんて…。
私は黄泉の国では自由に過ごすの。
邪魔しないで早くどこかあっちに行ってちょうだい。」
「黄泉の国? どこはそれは。
私が封印される前、ここはカシノニア王国と呼ばれていたはずだが?」
崖を転げ落ちた私だ。
あの傷であの出血、死なないはずはないと思うのだが……。
「…死後の世界じゃないの?」
「其方は何を勘違いしているのか。
私が婚約者を死なせるわけがないだろう。
其方の身体の傷も全ては私のゴールドヒートで癒しておいたぞ!
身体を確認してみろ! どこにも傷の1つ見当たらないだろう!」
…私は死んでないの?
死者の国の黄泉の国どころか、黄金竜ハルトムートに癒されてカシノニア王国でまだ生き続けているということか。
たしかに、言われて確認してみれば私の身体は傷1つなく元に戻っている。
魔力も満タン状態でもとに戻っている。
ついでに、忌々しい悪役令嬢ハイデマリーにつけられた両手首の魔力封じの手錠もない。
…あれ? ない…
どこにいったんだ、私の両手首の魔力封じの手錠…
「そ、そうみたいね。
それで、私の両手首にあった魔力封じの手錠も無くなっているみたいだけど…?」
「あぁ! あれか!
あれは私の婚約者の治療の邪魔だったのでな、壊してやったわ!
ハハハハハ!」
壊しただと?
あれは、カシノニア王国の一流の魔術師達が作り上げた最強最悪の魔力封じの手錠だ。
壊せるはずがない。
なのに壊したってことは、、、この黄金竜ハルトムートという奴はとんでもない力を持っているってことだ。
(いくら王位継承者の私といえど、私ですら壊せなかったカシノニア王国の一流の魔術師達が作り上げた最強最悪の魔力封じの手錠を壊すなんて… 刃向かったら私なんて太刀打ちできるはずがない!)
「そ、そう、魔力封じの手錠は壊してくれて構わないわ。
私も助かったし、…その、、ありがとう。
でも、これから私の物を壊すときは大切なものかもしれないんだから、事前に私の許可を取ってからにしてね。」
「照れている姿も可愛いな、私の婚約者は。
いいだろう、約束してやろう!
竜は婚約者を生涯のパートナーとして大切にする生き物だ!
私の婚約者である其方が望むならば叶えてやる!」
婚約破棄すら出来ず、私レティーツィアは黄金竜ハルトムートの婚約者になった。




