第四話『祇園精舎の鐘を鳴らせ』 2
彼女は、礼拝堂の長椅子に腰かけていた。
隣に座った老人が、神に祈りを捧げている。何かのために、必死に。彼女は、そんな老人を慈しみの目で見つめる。
自分の力ではどうにもできないような事態に直面した時、人は神に縋る。彼女はそれをよく知っていた。だから、老人に優しく微笑んだ。
“もう、何に怯えることもありませんよ”と。
ふと壁を見上げると、巨大な十字架が掛かっている。
それは罪からの救済の象徴、或いは赦しの象徴……彼女は知っていた。人間を正しい方向へと導くためのシンボルとして、受け継がれてきたのだ。
彼女は自分の小さな胸を見下ろして、“罪”について考えた。自分も何か、罪を犯したことがあるのだろうか、と。
しかし、何も思い出せなかった。
彼女はため息を一つついて、自分の”記録”に目を落とした。既にページの四分の三程が黒インクで埋め尽くされている。
最新のページに記述されていた内容に目を通し、彼女は自分が置かれている状況を“思い出す”。
『教会での探索。目標の品は見つかったと推定されるのだが、水無月さんは探索を切り上げようとしない。理由は秘匿された。今日は探索を続け、明日帰還するそうだ。』
『私は現状自由行動を許可されているので、命令通りに自由に行動すること。』
現状を再確認し終えると、今度は反対側、つまり最初のページを開く。
『【最重要事項】私の記憶は非常に不安定な状態になっている。よって記憶すべき事柄に関してはこのノートに記録すること。』
『私は今、《箱舟》と呼ばれている研究施設の屋根裏部屋に住まわせてもらっている。』
『この街は、永遠にある。』
『トレンチコートを着た二十歳前後の男性の名は、水無月セツナ。私の監督者である。生活必需品の管理を担っているのは彼であるので、命令には従うこと。』
『水無月セツナは《発掘人》と呼ばれる専門職で、氷を溶かすことを生業としている。さらなる情報の確保のため、業務には同行することが望ましい。』
どの部分を見ても、几帳面な文字が少しの隙間もないほどに並べられていた。
そのページの右下に、周りと違って走り書きのように書かれている一群の文字列を見つけ、彼女はそこに視線を移す。
『私の名前は霜月トワ。これは右肩に』
彼女はページを捲り、次の“記録”を読み始めた。
最後の文字を、読む必要はなかった。なぜなら。
彼女はそれを、“知って”いるのだから。
それから彼女は、一ページ一ページ捲りながらそのノートの内容を全て読んでいった。体系化され、箇条書きで纏められたその“記憶”を“思い出す”。
そうして、彼女は自分という存在を確定させる。それが彼女にとってただ一つの、内省の方法だった。
「トワさん」
声をかけられた少女がそちらに顔を上げた時には、既に教会から望む太陽はその下端を地面に着けていた。
「探索は終わりました。付き合っていただいて、ありがとうございました」
その瞬間、彼女は理解する。
目の前に居る男性が、水無月セツナなのだろうと。
「いえ、大丈夫ですよ。私は」
「それならよかった」
幾十日を共にしてきた男性に、“今まで通りに”返事を返して立ち上がる。
それが、彼女にとって代わることのない日常だった。
「……」
ただ、沈みゆく夕日を見て、彼女は何かを忘れている気がして。
それだけが、彼女の胸中に不協和音として残り、しかしすぐに忘れてしまった。




