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第三話『クロノスは氷の神であったか』 4

 三十分ほど経って、作業は終わった。私は融解した水をハンカチで拭いながら、その本を抱え上げようとしたが、


「……重っ」


 その紙の束には、私が想像した以上の重量があった。

 私が思わず元の机に戻してしまったそれを、今度はトワが持ち上げようと手を伸ばす。

 それは重いからやめておいた方が、と言いかけた矢先、彼女はいとも軽々とそれを持ち上げてしまった。


「……トワさん、結構力あるんですね」

「普通だと思いますが?」


 その細腕のどこにそんな力があるのだ、と思った。それとも私が非力なのだろうか?


「これは……ギリシア語、ですね。読めはしませんが……」

「原典の模写なんですか?」

「恐らくは」


 小さな体の後ろに立って、肩越しに本を覗き込む。私にとってみれば、文字かどうかすらも分からないような模様の羅列が並べられていた。

 あちこちに染みがついているが、よく手入れされているのが分かった。注意して見てみると、そこには持ち主が書き込んだのだろう走り書きの文字や線が引かれていた。


「えっと……分かりませんね」

「まあ、兎に角これで依頼は達成でしょう」


 そう言って、少女は本を閉じて鞄に仕舞ってしまった。


「《箱舟》に戻りましょう」


「……いえ、まだこの依頼は終わっていない」


 階段を降りようとしていた少女の足が止まった。


「……どういうことですか? 目的の本は手に入ったはずです」

「私の予想が正しければ」


 私は、鐘を鳴らす姿勢の男性を見据えて呟いた。


「本はもう一冊ある。彼が、息子に渡そうとしていた本が」

「……私には分かりません。これは確かに、依頼された聖書……牧師の男性の思いが籠もった物でしょう」

「よく考えてみてください、トワさん」


 私は鞄から本を取り出そうとした……しかし持ち上げることもままならず、結局また少女の手を借りることになった。

 一つページを捲るだけで、所々簡約が走り書きされただけのギリシア語の行列が眼前で踊り始める。眩暈がしそうだった。


「今回の依頼は、《牧師の父親が息子に渡そうとしていた本》です。小学生の、幼い息子に」

「……」

「こんな難解な本を渡すとは、思えません」


 私は再度鞄を弄り、夕食となる乾パンと毛布を取り出す。


「もう一日、調査しましょう」



「本当に、本はもう一冊あるのですか?」


 寝室として使われていた部屋で、私達は床の上に毛布を敷いて寝ていた。

 どこで寝ても、結局は氷の上で寝ることになるのだ。一週間もたたないうちに、この環境には慣れきってしまっていた。


「分かりません。あくまで推測ですから」

「……では、何故」

「確認の為ですよ。食料にも油にもまだ余裕があります」


 そう答えながら、しかし私の本当の思惑は別にあった。

 私の脳内には、何回も夕方のトワの言葉が巡っていた。


『いつか、忘れてしまう』


 彼女の正体も、真意も何もが私には分からない。

 しかし、数十日の日々を共に過ごして、僅かに、本当に僅かにだが、この氷の少女の心に変化が訪れたのを私は感じていた。

 そして私の心も、そんな奇跡に応えようと思うくらいには変わっていた。


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