第一章 天才令嬢は、今日も何もしたくない
「リゼ! お前、また寝坊したのか!」
朝七時。
グランフェルト侯爵家の屋敷に、父の怒鳴り声が響き渡った。
リゼロッテ・グランフェルトは、廊下の柱時計を見上げた。
七時ちょうど。
寝坊とは。
この家では、朝七時より前に起きていなければ寝坊らしい。
ちなみに父が起きるのは九時である。
(貴族の時間というのは、どうやら人によって流れる速さが違うらしい)
リゼロッテは欠伸を噛み殺した。
「申し訳ありません、お父様」
「謝る暇があったら働け!」
「はい」
「お前には向上心というものがないのか!」
(ありますよ。向上したいですね、睡眠時間を)
もちろん口には出さない。
リゼロッテは今年二十歳。
栗色の髪と灰色の瞳を持つ、どこにでもいそうな侯爵令嬢だった。
容姿は悪くない。
しかし、華やかな妹と比べれば地味で、社交界ではほとんど名前も知られていない。
魔力測定では、驚異のゼロ。
魔法が使えることこそ貴族の誇りとされるアルディア王国において、魔力ゼロの令嬢は、いわば貴族社会の落第生である。
しかも、リゼロッテ本人にもまったくやる気がない。
「お姉様! わたくしの朝食がまだですわ!」
食堂から甲高い声が響いた。
妹のミレイユだ。
金髪に青い瞳。豪華なドレスがよく似合う、十七歳の美少女である。
もっとも、リゼロッテからすれば。
(今日も朝から元気だなあ。発情期の孔雀かな)
という感想しかない。
「ミレイユ。朝食なら使用人が用意しているでしょう」
「お姉様が持ってきてくださらないと嫌です!」
「なぜ?」
「だって、お姉様はそれくらいしか役に立たないんですもの!」
「なるほど」
(だったら自分で運べ。足が二本あるだろう)
だが、口に出すと三十分は説教される。
三十分。
人生の三十分。
もったいない。
リゼロッテは黙って朝食を運んだ。
ところが。
「きゃっ!」
ミレイユがわざとらしく手を振った。
リゼロッテの持っていた皿が傾き、熱いスープがドレスにかかる。
「いやああっ! 何をするの、お姉様!」
(お前が何をするんだ)
「申し訳ありません」
「このドレス、昨日仕立てたばかりなのよ!」
ミレイユは憤然と立ち上がり、テーブルの上の紅茶をリゼロッテの頭から浴びせた。
「身の程を知りなさい!」
熱い紅茶が髪を濡らす。
食堂が静まり返った。
義母のベアトリスは扇子で口元を隠し、くすくす笑った。
「まあ、ミレイユ。そんなに怒らなくても。リゼロッテには、難しい仕事だったのでしょう」
「お母様ったら、お優しい!」
「でも、リゼロッテ。床はきちんと拭いておきなさい。使用人に迷惑ですからね」
(使用人に迷惑なのは、どう考えてもお前たちだろう)
リゼロッテは無言で雑巾を取りに行った。
その背中に、父の声が飛ぶ。
「それから、昨夜頼んだ魔導式の清書は終わったのか?」
「はい」
「ミレイユの名前に書き換えたな?」
「はい」
「余計なことをするなよ。お前はただ古い魔導書を写すしか能がないのだから」
「承知しております」
リゼロッテは頭を下げた。
そして思った。
(いやあ。本当に、何も知らないって幸せですねえ)
実のところ。
リゼロッテは天才だった。
それも、ちょっとやそっとの天才ではない。
十歳で王立魔導学院の全課程を独学で修了。
十二歳で、百年間誰も解読できなかった古代魔導文字を解読。
十五歳では、王国の魔導技術を数十年進歩させる新しい術式を完成させた。
ただし、誰にも言っていない。
なぜなら。
(天才なんて知られたら、絶対に仕事が増える)
これに尽きる。
リゼロッテには夢があった。
小さな家に住み、昼まで眠り、好きな本を読み、食事の支度は魔法に任せ、たまに美味しい菓子を食べる。
人付き合いは週一回、できれば月一回。
そんな、ささやかな生活である。
彼女はその夢のために、才能をひた隠しにしてきた。
魔力測定でゼロだったのも、間違いではない。
一般的な魔法は、自分の体内にある魔力を使う。
しかしリゼロッテが開発した『古代刻印術』は、空気中の魔素を集めて術式を動かす技術だった。
本人の魔力は必要ない。
つまり、魔力ゼロでも魔法を使える。
しかも、普通の魔法使いよりはるかに複雑なことができた。
だが、家族はそれを知らない。
リゼロッテが描く魔導式は、すべて亡き母の残した魔導書を写しているだけだと思っている。
実際には、王国で新たに開発された魔導器の半分近くが、彼女の考えた理論を応用したものだった。
家族はリゼロッテから新しい術式を受け取るたび、ミレイユの発明として発表している。
おかげで妹は今や『百年に一人の魔導天才少女』と呼ばれていた。
(百年に一人かあ。百年に一人の清書係なら、ここにいますけどね)
それでもリゼロッテは文句を言わなかった。
妹が褒められれば、自分への注目が減る。
父が儲かれば、家の面倒事も減る。
そう考えていた。
今までは。
「リゼロッテ様……!」
廊下に出ると、侍女のエマが駆け寄ってきた。
「お顔が真っ赤です! すぐ冷やさないと!」
「平気よ」
「平気なわけありません!」
エマは濡れた髪を拭きながら、泣きそうな顔をした。
「どうして、いつも我慢なさるんですか」
「反論すると長いもの。あの人たち、話が終わらないのよ」
「だからって!」
「それに、ほら」
リゼロッテは指を鳴らした。
髪の水滴が一瞬で消え、火傷の赤みも引いていく。
「便利でしょう?」
エマは呆れたようにため息をついた。
「その魔法、どうしてご家族にお見せしないんですか?」
「面倒だから」
「そればっかり!」
「大事なことよ」
エマだけは、リゼロッテの秘密を知っていた。
幼い頃から仕えてくれた、たった一人の味方だった。
「ほら、お嬢様。パンを隠しておきました」
「神様」
「大げさです!」
「今日からあなたをパンの女神と呼ぶわ」
「やめてください!」
リゼロッテは小さく笑った。
この家で笑える時間は、エマと一緒にいるときだけだった。
だから。
その日の午後、エマが鞭打たれたと聞いたとき。
リゼロッテの中で、何かが静かに切れた。




