6.5 糸
その夜は、なかなか眠れなかった。
いつものように、鐘が鳴って、一日の仕事が終わる。食堂で薄いスープと硬いパンを食べ、洗い物を手伝い、部屋に戻る。みんなが寝台に潜り込んでいく気配を感じながら、わたしも布団をかぶった。
目を閉じる。
暗闇の向こうで、さっきの感触が、何度もよみがえってくる。
腰から背骨をなぞって胸へ、細い糸が通り抜けていったあの感じ。胸の奥がじんわり温かくなって、頭の中の重さがすっと軽くなった感じ。
――あれは、一度きりのものなのかな。
そう思うと、急に惜しくなった。
もう一度、あの軽さを確かめてみたい。
でも、祈りの時間はもう終わっている。神父様も、アリシアも、みんな眠っている。
ラーチェも、たぶん、聖域か療養の部屋の隅で静かにしているはずだ。
じゃあ、今あるのは、自分の中だけ。
胸に手を当ててみる。
鼓動が、いつもより少しだけはっきり聞こえた。
――ここを、通っていた。
さっきの白い糸が通り抜けた場所を、頭の中でなぞる。腰骨の内側から、背骨、胸の中央、喉元へ。
そこに、まだ、細い道が残っている気がした。
道があるなら、何かを流せるかもしれない。
わたしは、そっと息を吸った。
今度は、外からではなく、中から。
胸の奥に、目に見えない何かを「ひとつ」を集めるようなつもりで、意識を寄せていく。
何も起きないように見えた。
けれど、じっとそこに意識を置き続けていると、かすかにざわめきがした。
水面に、針の先で触れたときのような、小さな温かい波紋。
それが自分のものかどうか、最初は分からなかった。
けれど、そのざわめきが、呼吸と一緒に動いていることに気づいたとき、これはたしかに「わたしの中の何か」だと分かった。
それを、さっきの道に沿って、ゆっくりと動かしてみる。
胸から、肩へ。肩から、腕へ。
右手の指先に、意識を向ける。
そこに、糸を通す。
……熱い。
瞬間、指先がじん、と痺れた。
びっくりして手を布団の外に出す。暗闇の中で、白い指が、かすかに赤みを帯びている気がした。
痛くはない。ただ、血が一気に集まってきたような、むずむずする感覚。
指を曲げ伸ばししてみると、いつもより軽い。握ったり開いたりを繰り返してみると、布の感触が、妙にはっきり伝わってくる。
――できた。
胸の奥で、小さな達成感が弾けた。
もう片方の手にも、同じように糸を通してみる。
今度は、さっきよりもすこし滑らかにできた。熱が指から手首に広がっていく。両手をぎゅっと握ると、腕の内側に力が集まる。
嬉しくなって、今度は足にもやってみたくなった。
胸から、腰へ。腰から、太もも、膝、ふくらはぎへ。
道が分かっているぶん、流すのはさっきより簡単だった。
けれど、その分、油断した。
ふくらはぎに糸を通した瞬間、どっと熱が噴き出した。
「あつ……」
思わず声が漏れそうになって、慌てて口を押さえる。
足の内側が、炭火の上に乗せられたみたいに熱い。皮膚の表面は冷たいのに、骨のまわりだけが、じりじりと焼けるように感じた。
流しすぎた。
直感的にそう分かった。
糸を引き戻そうとする。けれど、さっきまで素直に動いていた流れが、今は勝手に暴れ始めていた。
膝から太ももへ、太ももから腰へ、熱が駆け上がる。
胸の奥が熱くなり、喉が渇く。布団の中の空気までが、急に重くなる。
――止まって。
心の中でそう念じても、すぐには止まらない。
ただ、時間が経つにつれて、少しずつ勢いが弱まっていった。
やがて、波が引くみたいに、熱が遠ざかる。
それでも、身体の中には、じりじりとした火照りが残っていた。
布団を蹴り出して、シーツに背中を押しつける。石壁の冷たさが、少しだけ伝わってくる。それでも、火照りは完全には消えない。
目を閉じても、激しい心臓の音だけが聞こえて眠気は戻ってこなかった。
額にうっすら汗がにじむ。喉が渇いて、水がほしくなる。でも、今起き上がったら、足が自分のものじゃないみたいで、きっと転ぶ。
――やりすぎた。
そう分かってみると、少し怖くなった。
さっきの白い糸は、たしかにわたしの中のものだ。けれど、それをどう扱うかを、わたしはまだ知らない。
布団の中で、膝を抱え込む。その時、遠くから黒い影がこちらを見ている気配があった。
時間だけが、ゆっくりと過ぎていった。
隣の寝台から、アリシアの規則正しい寝息が聞こえる。部屋の外からは、夜番の足音がときどき響く。
いつもなら、すぐに飲み込まれてしまうはずの夜の音が、この日は、妙にはっきり耳に残った。
結局、その夜わたしは、ほとんど眠れなかった。
朝、鐘の音が鳴ったとき、身体は鉛みたいに重く、頭はぼんやりしていた。
「顔、真っ赤よ」
水場で顔を洗っているときに、アリシアが眉をひそめた。
「熱でも出た?」
「……ちょっと、あついかもしれません」
言いながら、内心でひやひやする。
魔力を使った、なんて言えるはずがなかった。
アリシアはしばらくじっとわたしを見ていたが、やがて小さくため息をついた。
「今日は、無理しない方がいいわね」
そう言いながらも、目つきはどこか鋭い。
「あとで、神父様にも言っておく」
その言葉に、胸の奥がずきりとした。
あの白い糸のことを、知られてしまうのだろうか。
それとも、あれはただの「熱」に見えるのだろうか。
分からないまま、わたしは冷たい水で顔を洗い続けた。
頬に触れた水の感触が、少しだけ、昨夜の火照りをなだめてくれた。
不安定に揺れていたろうそくの火が凝縮して成熟した麦の苗のように安定し始めようとしていた。




