6.5 祈り
祈りの時間は、最初、退屈で、苦手だった。
朝と昼と夕方。鐘が鳴るたび、仕事の手を止めて礼拝堂に集まる。長椅子に並んで座り、決められた言葉を決められたリズムで唱える。石の壁と高い天井に、声が何度も反射する。
膝をついて長く座っていると、すぐに足が痺れた。背筋を伸ばしていると、じきに背中が痛くなる。目を閉じていると、眠気が襲ってくる。
それでも、アリシアはいつも、まっすぐ前を見ていた。神父様の声に合わせて、ひとつひとつの言葉を、響きをなぞるように、丁寧に祈りを唱える。
「どうして、そんなに真面目にできるんですか」
ある日の夕方、終礼のあと、思わず聞いてしまった。
アリシアは、少し考えるように目を細めてから、肩をすくめた。
「そうしないと、分からないから」
「何が、ですか」
「ここに、何があるのか」
その答えは、よく分からなかった。
その「分からない」が、夜になっても頭の中から離れなかった。
だから、その日からわたしも、少しだけ真面目に祈ってみることにした。
言葉をきちんと繰り返す。背筋を伸ばす。目を閉じる。ただの音としてではなく、一つ一つの言葉の意味を、ゆっくり追いかけてみる。
女神。光。救い。赦し。
そういう言葉は、どこか遠くにあるものだと思っていた。けれど、神父様の声は、いつも「ここにあるもの」として、それを語る。
その日も、夕方の光がステンドグラスを通って、礼拝堂の床に長い影を落としていた。
鐘が鳴り、祈りが始まる。
わたしは目を閉じた。
神父様の声が、天井に跳ねて、耳の奥に落ちてくる。隣でアリシアが静かに言葉をなぞる気配がする。背後からは、まだ治りきらない咳が、ときどき混じる。
……静かだ。
そう思った瞬間だった。
何かが、腰に触れた気がした。
最初は、風だと思った。けれど、風にしては、あまりに細くて、冷たかった。
腰のあたり。
ラーチェだ、とすぐに分かった。たぶんこっそり入ってきたんだろう。
祈りの時間のあいだ、ラーチェはふだん、療養の部屋の隅で静かにしている。患者に付いているとき以外、礼拝堂には連れて来られない。
なのに、確かにあの冷たさがある。
驚いて目を開けかけたとき、隣でアリシアが小さく息を呑む気配がした。
その直後、アリシアの袖がわずかに動いた。
「目は閉じてて」
小さな囁きが聞こえる。
わたしは慌てて瞼を下ろした。
その瞬間、いつもの黒い冷たさとは違う白い温かさが、するりと腰骨の内側を通り抜けていった。
今度は、はっきり分かった。
これは、風じゃない。
水でも、土でも、火でもない。
何か、細く優しい糸のようなものが、身体の中に入り込んでくる。
腰から、背骨をなぞるようにして、胸の奥へ。
温かさだけじゃない。
その糸の周りには、かすかな光がまとわりついていた。
目を閉じているのに、内側が少しだけ明るくなった気がする。暗闇の裏側に、細い白い糸が一本、引かれていく。
怖い、というより、お父さんに抱っこされてるみたいでくすぐったかった。
胸の奥で、その糸が、なにか柔らかいものに触れる。
今まで、そこに何があるのか意識したこともなかった場所だ。
触れた瞬間、そこがじわりと温かくなった。
胸の内側から、あたたかさが広がっていく。
さっきまで石みたいに重かった頭が、少しだけ軽くなる。肩に乗っていた見えない荷物が、すこしだけずれる。
流れている。
そう思った。
何が、とは言えない。けれど、「何かがどこかからどこかへ移動している」のだけは、はっきり分かった。
糸は、やがて細くなり、ほどけるように消えていく。
それといっしょに、胸の奥のあたたかさも、すこしずつ静まった。
祈りの言葉は、まだ続いている。
女神。光。赦し。
さっきまで遠くに聞こえていたそれらが、今は、すこし近くで響いているように感じた。
終礼の合図のあと、みんなが立ち上がる。
足の痺れは、今日はあまりひどくなかった。
「メアリー?」
隣で、アリシアが首をかしげる。
「どうしたの。顔が少し赤いよ」
「……なんか、変なんです」
自分でも変な答えだと思った。
「いつもの、具合の悪い方の変?」
「ちがいます。ええと、その……」
言葉を探していると、背後から、ゆっくりとした足音が近づいてきた。
「……。少し、顔色が良いな」
神父様だった。
さっきまで講壇に立っていたはずなのに、気づけば、すぐ後ろにいた。
「胸のあたりが、軽くなっていないかね」
図星を刺されて、思わず胸に手を当てた。
「……なって、います」
「そうか」
神父様は、一瞬細められた目をわたしの腰の方へ向けた後どこか満足そうに頷いた。
「祈りのとき、お前は何を感じていた」
「何を、って……」
言われてみれば、今日はいつもより、言葉の意味を身体で感じていた気がする。
女神。光。救い。
そのひとつひとつが、遠くのものではなく、「ここにあるもの」として、どんな形をしているのか。アリシアが言っていた「何があるのか」を、少しだけ探していた。
「……あの、『ここに何があるのか』を感じていました」
言葉にすると、なおさら変な気がした。
けれど、神父様は笑わなかった。
「ならば、ここにあるものに、少しだけ気づいたのだろう」
そう言って、神父様の視線が、わたしの腰のあたりを掠める。
礼拝堂の床の影の中、柱の陰から、黒い影がこちらを見ていた。
ラーチェだ。
なぜか体を合掌したように変形させ、 ひたすら上下に動かしていた。
……運動しているのだろうか。 あるいは、祈りの真似をしているつもりなのかもしれない。
神父様は特に気にしていない。
その動きに、意味があるのかどうかは分からない。 けれど、ラーチェはときどき、こういう奇妙な動きをする。
療養の部屋から、こっそり入ってきたのか。それとも、いつもどこかで、見ていたのか。
その目と、はっきりと視線が合った気がした。
――さっきの、これ?
心の中で問いかける。
返事はない。
けれど、腰骨の内側に、さっきと同じ、うっすらとした温かさと、細い糸の感触が残っていた。
白い。
その流れを思い出したとき、なぜか、そんな言葉が頭に浮かんだ。
黒ではなく、白。
あの底なしの黒い力とは違う、細くて優しい光。
どこか遠くから差し込んでくる、細くてかすかな温かい光の色。
それが、自分の胸の中を通り抜けていったことを、わたしは初めて、はっきりと自覚した。
――これが。
口には出さず、心の中だけで、そっと名をつける。
白い魔力。
後になって、それがただの「白魔力」という言葉に縮んでしまう前の、最初の感触だった。
投稿順を誤ってしまったため、内容を修正しました。以前のバージョンを読んだ方は混乱させてしまいすみません。




