5 仁慈
それからのわたしの仕事は、決まっていた。
水と、布。
朝と昼と夕方。決まった時刻になると、アリシアと一緒に桶を運び、寝台のあいだを回る。汗で湿った布を外して絞り、新しい水に浸して、額や首筋にそっとあてる。手のひらや指の間を拭いてやる。
最初のうちは、それだけで息が上がった。
病人の体は、想像していたよりも重かった。痩せ細っているのに、布越しに伝わる熱と、皮膚の下に溜まった何かの重さが、腕にのしかかってくる。汗の匂いに、薬草と血と、時々、どうしようもなく甘い腐敗の匂いが混じる。
最初の三日は、毎日どこかで膝が笑い、何度か視界が暗くなった。そのたびに、
「座ってていいよ」
と、アリシアが短く言う。アリシアの声には、叱られるような鋭さはなかった。ただ、判断が早かった。
「次はわたしがやるから。メアリーは、あの人の手を拭いてて」
言われた通りに、寝台の端に腰を下ろし、患者の冷たくなりかけた指を一本ずつ拭く。爪の間の汚れを布で掬い取り、ひび割れた皮膚に、少しだけ水を足す。
「手を拭いてもらうと、ほっとするのよ。」
あるとき、アリシアがそう言った。
「顔は見えなくても、手は分かるから。あの頃は、手を拭いてもらうのが一番嬉しかったわ」
アリシア自身も、昔、長く寝台にいたことがあるのだろうと、わたしはそのとき初めて気づいた。
倒れる回数は、やがて減っていった。
けれど、なくなりはしなかった。
特に夏の盛り、空気そのものが病気みたいに重くなる日には、桶を半分運んだだけで、胸の奥に石を詰め込まれたような感覚になる。そんなときは決まって、足元の石床が遠ざかり始める。
視界が暗くなりかけたその瞬間、
ぬるり、と、冷たい輪が腰に巻きつく。
ラーチェだった。
浅い鉢から伸びたその身体が、目にも留まらぬ早さで床を滑り、わたしを支える。落ちるはずの重さが、別のところにそっと移されていく。
最初のころ、ラーチェの感触は、ただ怖かった。他のヒルは橙色で少し透けていて大きさも一番大きいもので両手を合わせた長さくらいだ。でもラーチェは反対側が透けて見えないほど黒く、大きさも私の腰よりも大きくて丸い。そして動くたびに赤黒く光る。それがヒルだと理解するのに少し時間がかかった。
冷たくて、湿っていて、生き物とも道具ともつかない、得体の知れないもの。その輪が、自分の身体に巻きついてくるたびに、喉の奥に悲鳴が込み上げた。
でも、悲鳴を上げる暇は、いつもなかった。
ラーチェに支えられているあいだに、呼吸が通るからだ。
腰に絡みついた部分から、冷たさと一緒に、何かが抜けていく。頭の中でうずまいていた霞や、足の裏に溜まっていた鉛のような重さが、細長い管を通って引き出されていく感じがした。
代わりに、体の中に薄い空洞のようなものができる。
空洞は少し心細いけれど、そこに新しい空気を入れればいいのだと、身体の方が先に理解していった。
「また助けられたわね」
ある日、アリシアがそう言って笑った。
「ラーチェはね、ちゃんと見てるのよ。誰がどこまで頑張れるか」
「見てる、んですか」
「そう。……わたしも、最初のころはよく絡みつかれたもの」
アリシアが少し照れくさそうに、足元の鉢を見る。
水面の下で、黒い影が静かに丸くなっていた。目は見えないのに、こちらを見ているような気配だけがする。
前は、その視線が怖かった。
今は、少しだけ違う。
「……ありがとう、ございます」
あるとき、誰も見ていないと思って、小さな声でそう言ってみた。
ラーチェは、何も返さなかった。ただ、水の中で、ほんのわずかに身体を小さくした。
それで十分だった。
そんな日々の中で、わたしの手は、だんだんと迷わなくなっていった。
布で額を拭くときの力加減。汗を拭う順番。水を絞るときの腕の使い方。呼吸が浅くなっている人と、深くなっている人の違い。顔色と、指先の温度。
神父様の瀉血や祈りには、まだ手を出せない。ただ、横で水と布を持ち、指示されたときにそれを差し出すだけ。
それでも、見ているうちに分かってくることがあった。
ラーチェがついた患者は、つかない患者よりも、翌朝の顔色が少しだけましになること。
神父様が「もうよい」と言うときの声の調子が、助かる人と、間に合わない人とで、ほんの少しだけ違うこと。
わたしは、それを誰にも言わなかった。
言葉にしてしまうのが、なんとなく怖かったからだ。
ただ、水と布を持つ手だけが、少しずつ確かになっていった。
私の胸の中でゆらぎ、今にも吹き消されてしまいそうな火がわずかにそのゆらぎが収まったような感覚があった。




