第76話 逃げる女と逃がす女
「くそ……!」
近藤は痛む小指の側面を押さえながら恨めしそうにつぶやく。
こんなはずではなかった。顔も性格もいい男子高校生に現実を『分からせ』て、屈辱にゆがむ顔を見ながら命令する。
その画を想像するだけで興奮していた数日間。積み上げた甘く美しいシャンパンタワーの最後の一杯を乗せる直前に何も知らない子供がすべてをぐちゃぐちゃにしていった。そんな感覚に襲われ、高いネイルを施した手を頬に当てごしごしと擦る。
「なんで、なんで、ワタシがこんな目に……!」
誰かが何か嵌めたわけではない。嵌めようとしていたのは近藤自身。
だが、彼女はそんなことに気づかず責め立てる誰かを探す。彼女が手に入れるはずだった甘美な時間を奪った存在を作り出そうとする。
「絶対にあのガキどもは許さない……! 特にあの子は……絶対、ゼッタイに! だけど、でも、なら……『アレ』だけでも手に入れないと……! アレを、アレを……」
廊下で独り言ちる近藤は、うわごとのように繰り返す。うっすらと自身の魔力が霧状に漏れ出ていることも気づかないほどに。呼吸は荒く、関係者の誰かが見れば心配するであろう鬼気迫る表情。それを近藤は手で隠しながら何度も何度もアレという言葉を掌に零し、擦り付けていく。そして、少しずつ近藤の表情が戻りかけたその時だった。
遠くに、『彼ら』が見えた。
近藤が手に入れるはずだった男の子と、それを邪魔した憎き女子たち。
9組Hチームの面々。
生徒たちは既に成績を知っているのだろう。中間試験前の暗い表情が一変して、皆で笑いあっている。
(何をへらへらと笑っている、あのオンナッ……!)
近藤は、ギリと音が鳴るほどに奥歯を噛みしめながら一人の女子生徒を睨みつける。だが、ずっとそうしているわけにはいかない。
近藤は、賭けの敗者なのだから。
近藤の思考、いや、妄想の中では、一刀は自分に従うべき存在となっていた。その一刀に謝るということは屈辱であり、それを才能も感じられないと思っていた女子生徒達の前ですることは何より耐え難いものだった。プライドを最優先させた近藤は、魔力を広げその場を去る準備を始める。だが、
「あ、アレってコンドー先生じゃない?! イットー!」
一人の女子生徒の声が廊下に響き渡る。ダリアの声だ。近藤は心の中で舌打ちをする。
(くそおおお! あのガキは本当に……! あとで覚えてろ!!)
近藤は、小指の痛む手で髪を掻き上げ耳にかける。手に耳を添えていたので聞こえなかったようなそぶりで一刀たちに背を向けて歩き出す。出来るだけ早歩きで、何かに集中していて他に気を取られる暇がないかのように、カツカツと鳴らすハイヒールの音で何も聞こえないのだと。
「近藤せんせーい!」「近藤先生! 待ってください!」「に、逃げるのかな!?」
女子生徒たちの声が背に刺さる。それに交じって一刀の声。
それがより近藤のプライドを刺激する。
(くそくそくそ! うるさい! 男の前でえばってんじゃねえよ! クソブスガキどもが!)
怒りに任せてハイヒールを鳴らす。怒りのせいで呼吸もままならずどんどん苦しくなっていく。すると、近藤はまるで自分が被害者であるかのように考えだし、惨めだと思い始める。
(あああああああ! なんで私がこんな目に! なんで!? なんでっ!??)
走るわけにはいかない教師である自分と言い聞かせるが、実際には走って逃げる自分になりたくないだけ。それをすり替えるのが近藤の癖だった。生徒たちが小走りで近寄ってくることもルール違反だと許せなかった。自身は生徒と賭け事めいたことをしていたことはもう既に思考の外だ。
「はあ、はあ、ゆ、許さないぃいい! ぜったいに、ぜったいにぃい、許さないぃいいい!」
必死に逃げた。声がこぼれ出ていることも気づかずに早歩きで、必死に。右に曲がり、左に曲がり、階段を下りる。
そして、気づく。
近づいてくる声も、足音もないことに。
振り返ると……誰もいなかった。
「あは。もうそんなに必死に逃げなくてもダイジョーブですよ。近藤せんせ」
聞き覚えのある声が近藤の耳に忍び寄る。
「一刀君たちなら、冒険者協会の人たちとかち合うようにしたんでもう追ってきません。流石に無下に出来ないでしょうから」
声がするたびに匂いが広がる。彼女の持つ香炉の香りが。
「それより、ダメじゃないですかあ。勝手に一刀君にツバつけちゃあ。ま、これはこれで思わぬ収穫もあったので許すことになりましたが、次したらコロしますからね」
しゃらんと鈴の音。その音が近藤の脳神経を直接つまんでいるかのような錯覚に襲われ体を震わせる。
「さあ、さっさとわたしたちの『依頼』をこなしてくださいな。じゃないと、コレはお預けですよ」
「あ……ああ……! あああああ……!」
近藤は女の持っていたタブレットのような魔道具に映る映像を見て目を血走らせる。
そこに映っていたのは、男。顔は無表情だが美しい男の姿。食い入るように見つめる近藤の鼻息が荒くなっていく。学園の隅で獣のような唸り声を上げ始め魔力をあふれさせる近藤を見ながら、剣崎の姿に戻った彼女は……笑っていた。
しゃらん、と音。
甘い香りが廊下に薄く広がっていく。
じわりと彼女の周りの魔力が妖しく揺れた。
「さ、はじめましょ。ハンランを」
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